取手記念の決勝。並びは野口‐和田‐川崎の南関東に村上‐大坪の西日本が番手戦,松浦‐岩津‐小倉‐渡部の中国四国。
村上と和田がスタートを取りにいくという意外な発走。誘導の後ろに入ったのは村上。野口が外から上がっていくと村上が迎え入れ,誘導の後ろに野口。この後ろは内に村上,外に和田で併走。6番手というか,事実上の4番手に松浦という周回。残り3周のバックで松浦が上がっていくと野口が引き,松浦は誘導の後ろに。5番手まで引いた野口がホームから発進。松浦も誘導を斬りました。野口に続いたのは村上で,大坪までの3人でバックで松浦を叩き打鐘。置かれてしまった和田がそのまま外から追い上げ,ホームに入って村上の外まで追いついて再び番手戦。これは村上が競り勝ちましたが,競りの間に野口との車間が開いてしまいました。バックに入ってから松浦が発進。村上は対処できず,直線の手前で松浦が野口に代わって先頭に。このまま松浦ラインでの争いとなりましたが,差が詰まっただけで並びのままフィニッシュ。優勝は松浦。マークの岩津が半車輪差で2着。3番手の小倉が半車身差の3着で中国四国の上位独占。
優勝した広島の松浦悠士選手は2月の大垣のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年12月の広島記念以来の2勝目。このレースは最初に出走メンバーが決まった時点では,野口の先行1車と思えたので,うまく駆ければ優勝まであると思ったのですが,村上が番手戦ということで隊列が短くなるため,脚力では明らかに上位の松浦の捲りが決まりやすそうだと思い直しました。結果はその通りの順当なレースに。村上はレースの展開次第で競ることはしても,想定の段階で競りに行くと決めてしまったのは損だったのではないかと思います。また村上が一時的に前受けしてその後ろに和田がいたのですから,野口や和田は村上を引かせずにレースを進めた方が得だったのではないでしょうか。松浦に勝ってくださいというようなレースになってしまった気がします。
カヴァイエスJean Cavaillèsは思考の必然性necessitasを回復させるのですが,カヴァイエスがいう数学的思考の必然性,いわば数学的必然性は,スピノザがいう必然性とは異なっています。カヴァイエスがそういう方向に走ったのには,スピノザには知る由もない理由がありました。このことは僕がいつかは私見を述べたいと思っていたことなのですが,それについては後回しにします。

スピノザがいう必然性は,第一部定理一六でいわれる神の本性の必然性necessitate divinae naturaeのことであり,それがすべてです。いい換えればスピノザの哲学においては必然性というのは一義的なものです。ですから,たとえばものの本性essentiaからはそのものの特質proprietasのすべてが導かれる必然性も,原因causaが与えられさえすれば結果effectusが必然的にnecessario発生することも,またA=BでB=CであるならA=Cであるというような論理的な必然性も,すべて同一の必然性です。スピノザがいう必然性というのは自然法則に等しいのであり,自然法則はあらゆるところで常に一定なのです。ですから延長の属性Extensionis attributumの下での必然性と思惟の属性Cogitationis attributumの下での必然性も同一です。
これに対していえば,カヴァイエスがいうところの数学的必然性は,それ独自の必然性です。いい換えればそれは自然に対して負うところはまったくありませんし,かといって思弁的な悟性に負うような必然性でもありません。さらにいうなら超越論的な必然性でもないのです。いい換えれば数学的必然性は延長の属性の下にみられるような必然性と異なりますが,思惟の属性の下にみられるような必然性とも異なっているのです。
カヴァイエスが思惟の属性の下での必然性や延長の属性の下での必然性がどのようなものであると解していたかは不明です。また,数学的必然性というのが論理的必然性だけを意味するのか,それとも因果関係や本性と特質といった関係までも含むのかも不明です。ですがここで鮮明になっているのは,カヴァイエスにとっての数学が,延長するものでもなくかといって思惟するものでもないものとして把握されていることです。よって形而上学的にいうと,カヴァイエスは延長でも思惟でもない,数学属性とでもいうべき新しい属性を創出しているのだと思います。
村上と和田がスタートを取りにいくという意外な発走。誘導の後ろに入ったのは村上。野口が外から上がっていくと村上が迎え入れ,誘導の後ろに野口。この後ろは内に村上,外に和田で併走。6番手というか,事実上の4番手に松浦という周回。残り3周のバックで松浦が上がっていくと野口が引き,松浦は誘導の後ろに。5番手まで引いた野口がホームから発進。松浦も誘導を斬りました。野口に続いたのは村上で,大坪までの3人でバックで松浦を叩き打鐘。置かれてしまった和田がそのまま外から追い上げ,ホームに入って村上の外まで追いついて再び番手戦。これは村上が競り勝ちましたが,競りの間に野口との車間が開いてしまいました。バックに入ってから松浦が発進。村上は対処できず,直線の手前で松浦が野口に代わって先頭に。このまま松浦ラインでの争いとなりましたが,差が詰まっただけで並びのままフィニッシュ。優勝は松浦。マークの岩津が半車輪差で2着。3番手の小倉が半車身差の3着で中国四国の上位独占。
優勝した広島の松浦悠士選手は2月の大垣のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年12月の広島記念以来の2勝目。このレースは最初に出走メンバーが決まった時点では,野口の先行1車と思えたので,うまく駆ければ優勝まであると思ったのですが,村上が番手戦ということで隊列が短くなるため,脚力では明らかに上位の松浦の捲りが決まりやすそうだと思い直しました。結果はその通りの順当なレースに。村上はレースの展開次第で競ることはしても,想定の段階で競りに行くと決めてしまったのは損だったのではないかと思います。また村上が一時的に前受けしてその後ろに和田がいたのですから,野口や和田は村上を引かせずにレースを進めた方が得だったのではないでしょうか。松浦に勝ってくださいというようなレースになってしまった気がします。
カヴァイエスJean Cavaillèsは思考の必然性necessitasを回復させるのですが,カヴァイエスがいう数学的思考の必然性,いわば数学的必然性は,スピノザがいう必然性とは異なっています。カヴァイエスがそういう方向に走ったのには,スピノザには知る由もない理由がありました。このことは僕がいつかは私見を述べたいと思っていたことなのですが,それについては後回しにします。

スピノザがいう必然性は,第一部定理一六でいわれる神の本性の必然性necessitate divinae naturaeのことであり,それがすべてです。いい換えればスピノザの哲学においては必然性というのは一義的なものです。ですから,たとえばものの本性essentiaからはそのものの特質proprietasのすべてが導かれる必然性も,原因causaが与えられさえすれば結果effectusが必然的にnecessario発生することも,またA=BでB=CであるならA=Cであるというような論理的な必然性も,すべて同一の必然性です。スピノザがいう必然性というのは自然法則に等しいのであり,自然法則はあらゆるところで常に一定なのです。ですから延長の属性Extensionis attributumの下での必然性と思惟の属性Cogitationis attributumの下での必然性も同一です。
これに対していえば,カヴァイエスがいうところの数学的必然性は,それ独自の必然性です。いい換えればそれは自然に対して負うところはまったくありませんし,かといって思弁的な悟性に負うような必然性でもありません。さらにいうなら超越論的な必然性でもないのです。いい換えれば数学的必然性は延長の属性の下にみられるような必然性と異なりますが,思惟の属性の下にみられるような必然性とも異なっているのです。
カヴァイエスが思惟の属性の下での必然性や延長の属性の下での必然性がどのようなものであると解していたかは不明です。また,数学的必然性というのが論理的必然性だけを意味するのか,それとも因果関係や本性と特質といった関係までも含むのかも不明です。ですがここで鮮明になっているのは,カヴァイエスにとっての数学が,延長するものでもなくかといって思惟するものでもないものとして把握されていることです。よって形而上学的にいうと,カヴァイエスは延長でも思惟でもない,数学属性とでもいうべき新しい属性を創出しているのだと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます