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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

レーニン廟&死の様式

2025-07-15 12:01:04 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』の中で,アリョーシャが敬愛しているのが長老のゾシマです。ゾシマは物語の中で死んでしまうのですが,そのゾシマの死体が腐敗し激しい異臭がするというエピソードが語られています。遺体を放置しておけば腐敗して異臭がするのは当然のことなのですが,このプロットには特別の意味が含まれています。というのは,ロシアでは聖人の遺体は腐らないという伝説があるからです。つまりこれは,ゾシマは聖人ではなかったということを示すエピソードなのであって,アリョーシャをはじめゾシマを慕っていた多くの信者が,この事実にがっかりするのです。
                            
 ゾシマの遺体が腐敗する,すなわちゾシマは聖人ではなかったというプロットをドストエフスキーが挿入したのは,ゾシマの教えは実際にはキリスト教に悖るものであったからではないかと『生き抜くためのドストエフスキー入門』の中で佐藤は指摘しています。ゾシマの教えのどの部分がそれに該当するのかということはここでは説明しませんので,それについて興味がある場合には本を読んでください。僕が関心を抱いたのは,この聖人の伝説が,レーニン廟と関係しているということです。
 聖人の遺体は腐敗しないという伝説は,聖人は死後にミイラになるという伝説と一体化しています。レーニン廟が作られミイラ化したレーニンが祀られたのはこの伝説と関係しているのです。すなわちレーニンの遺体が腐敗せずにミイラとなれば,レーニンは聖人であった,すなわちレーニンの施策は正しかったと人びとに思わせる効果があったのです。同様にスターリン廟が作られたのも,スターリンは聖人であって,その施策が正しかったと人びとに思わせる効果を狙ったものだったことになります。
 レーニンとかスターリンは,宗教に対して必ずしも寛容ではなかったかもしれません。ですがロシア正教の伝説は利用したのであって,ロシア正教もソヴィエト国家とは結びついていたと解することができます。このような国家と宗教の関係は,現在のロシアにも残っていると考える必要があるでしょう。

 自分自身が十全な原因causa adaequataとなって死ぬことはできないのであれば,人間は自らの意志voluntasで死のうとするときは,あるいは同じことですが自殺しようとするときには,それに対して自分の身体corpusとともに部分的原因causa partialisを構成し得る外部の物体corpusに依存する必要があります。自殺の方法はいろいろありますから,部分的原因となり得る外部の物体というのも多くあるということになります。このことはとくに説明するまでもいないでしょう。
 そこである人間が,高所から飛び降りて自殺をするという場合を考えてきましょう。この自殺が成功したとしたら,高所から落下した人間の身体が,外部の物体である地面に叩きつけられることによって,現実的に存在することをやめるのです。よって直接的には地面が部分的原因であり,しかし単に地面と接触するだけで現実的に存在することをやめられるというわけではありませんから,高所,たとえばビルの屋上ならそうしたビルもまた部分的原因を構成しているということができます。
 ところが,こうした部分的原因だけで人間の身体が現実的に存在することをやめるということを十全に説明するなら,そこには自殺という要素は欠けることになるのです。というのは,この事象によってその人間の身体が現実的に存在することを停止するということ,要するに死ぬということを説明するならば,意図的に飛び降りたとしてもだれかに突き落とされたとしても,あるいは誤って転落したとしても,いずれも同一の説明になるからです。つまりこの様式で人間の死を説明するなら,それが自殺であるか事件であるか事故であるかということは問われないのであって,単に人間の身体と高所や地面といった要素だけが,原因として特定されるのです。これが僕がいう原因の外在性の具体的な意味です。すなわち,人間の死の原因がその人間の身体の外部の物体に依存する以上,その死は自殺であるか否かは問われないのであって,自殺であろうとそうでなかろうと,同一の様式で説明されることになるのです。
 自殺の方法はほかにもありますので,もうひとつだけあげておけば,たとえば毒を摂取して自殺するという場合にもこれと同じことがいえます。
コメント
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