スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

神聖な恋&確実な認識の基礎

2016-07-09 19:16:35 | 歌・小説
 先生は神聖さと性欲を対峙させたうえで,自身のお嬢さんすなわちへの恋は,神聖さの方の究極地点にあったという主旨の説明をしています。この説明において注意しなければならないのは,先生がその神聖さに対して性欲を対峙させることができたということは,先生はそれまで,というかこれは遺書で死の間際の時点で再構成して書いたものですから,静に恋をした以降のことを含めることも可能ですが,神聖さよりも性欲が優った恋というものを確実に経験していたであろうということです。性欲の方の究極点を先生が感じていたかどうかは分かりませんが,先生は性欲を知らないような人間ではなかったということは,確実であると僕は解します。
                                     
 神聖な恋というのは,寺の次男であったKの恋に相応しい形容であると僕は解します。実際にKもまた静に恋をしていました。そのKの恋心が,神聖なものであったか,実は性欲の強いものであったのかは,K自身が何も言っていない,あるいは先生はそれを聞かされていないようですから何ともいえません。ただ,僕が確実にそうであろうと思うのは,先生はKの静に対する恋は,神聖さに満ち溢れたものであると表象していたであろうということです。無理にKを同居させたことは,先生にとって成功と失敗の両方を齎したと僕は解しますが,こと静への恋という観点からは,先生はそれを成功だったとみなしているようには思えないからです。
 先生が自身の静への恋を神聖さの極致であるというのは,たぶん先生が表象したKの静に対する恋を,自身も真似たからだと僕は思います。要するに感情の模倣affectum imitatioに類することが,先生の静への恋の場合にも生じていたのだと僕は思うのです。Kは先生にとって恋のライバルでしたし,Kに対する先生の優越感があったのも事実でしょう。ですがKを尊敬していたのもまた事実であって,そのKの恋は,先生にとって模倣すべき恋であったと僕は考えます。

 スピノザは「我思うゆえに我あり」という命題が確実な認識の基礎になるということを認めません。というか,方法論的懐疑という営み自体が不可能な作業であると考えるので,そこから導かれている事柄の正当性を認めないといった方が正しいでしょう。このことはスピノザの哲学において真理の「しるしsignum」に該当するのが第二部定理四三であることから明らかでしょう。デカルトはさしあたって確実であると思えたすべての事柄を疑ったのですが,スピノザはある人間の知性のうちに真の観念がある場合は,その真理性をその知性が疑うということ自体が不可能であると主張しているからです。
 このスピノザの主張は,ことばと観念は異なるということを知っていないと不思議に思えるかもしれません。ある真理を疑うということは,ことばの上では可能なこと,いい換えれば文法的には成立する事柄であっても,思惟の営為としては不可能であるというのがスピノザが主張していることの意味になります。僕はこの点ではスピノザがいっていることが正しいのであって,方法論的懐疑というのは不可能な作業であり,それはデカルトのある思い込みの上に成立したものであると解します。僕の精神の現実的有の一部を構成する真の観念については,それを虚偽であると考えることは不可能なことであるということを,僕はリアルなものとして体験するからです。
 ではスピノザの哲学において,確実な認識の基礎となり得る観念があるとしたら,それはどのような観念であるというべきなのでしょうか。僕はこのことを,すでに平行論を含意しているとも解釈できる第一部公理四の意味のうちに見出します。すなわち結果の観念というのは原因の観念を含んでいるのでなければなりません。他面からいえば結果の観念は原因の観念に依存します。したがってすべての結果に対して原因となり得るようなもの,いい換えればそれにとっては先行する原因が存在しないような原因があるならば,そのものの観念が確実な認識の基礎になり得る筈です。しかるに第一部定理一六系三では,神は絶対に第一の原因であるとされています。つまり神の観念が確実な認識の基礎となるのです。

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