精神と身体という軸に換えてスピノザが提唱した新たな構図は能動と受動です。これが新たな構図であるというのは,精神mensが能動actioで身体corpusが受動passioではないということです。ところがデカルトRené Descartesの哲学というのはそのように解することができるようになっているので,単にスピノザが新たな構図を示したということを知っておくだけでは,また知性intellectusは失敗を犯してしまうことになるのです。要するに,スピノザは新たな構図として能動と受動を示したのだけれども,その内実をいえば,スピノザは精神と身体の関係をデカルトとは異なって解釈し直したと解しておかなければなりません。デカルトの哲学における精神と身体の関係は理性と感情の関係に置き換えることもできますから,結局のところスピノザの構図をデカルトの構図で解してしまうと,理性への過信が再生産されてしまうということになるでしょう。
デカルトは人間は精神と身体が合一unioしたものであるとみます。これ自体はスピノザも認めます。認めはするのですが,どのように合一しているのかということ,いってみれば合一とは何事であるのかという考え方はデカルトとは違います。ですからデカルトもスピノザも人間は精神と身体が合一した存在であるということは同じように主張しますが,実際に中身としていわれている事柄は違うのです。まずこれを理解しておかなければなりません。
デカルトの合一説は,スピノザ主義からみれば機能的です。要するに精神が身体を統御するということが目的となっていて,そのために人間はそのふたつが合一していなければならないという結論が最初から選択されなければならないようになっています。これに対していえば,スピノザの合一説は構造的です。身体に限らず物体corpusが存在すれば,必然的にnecessarioその物体の観念ideaも存在します。このとき,物体の方が身体とみられ,観念の方が精神とみられる限りにおいて,精神と身体は合一しているといわれます。そこに特別の機能が前提されているわけではありません。
この機能説と構造説の相違をよく理解しておかなければなりません。そしてここから,スピノザ主義に特有の諸々の事柄が帰結することになるのです。
感情の模倣affectum imitatio,imitatio affectuumが精神の能動actio Mentisからも生じ得ることは確かであるにしても,第三部定理二七の示し方からして,スピノザがどのような目的からこれを『エチカ』に挿入したかといえば,現実的に存在する人間がいかにして受動感情に隷属するかということを示すためであったと僕は考えます。これに対して,精神の能動から生じる感情affectusについてもスピノザが『エチカ』で言及した目的は,第四部定理七により,感情を制御するのはそれより大きな感情でしかないから,感情の抑制は直接的には精神の能動あるいは理性ratioの仕事ではなく,感情の仕事であって,そのために能動的な感情が受動的な感情を統御するのに有益であること,さらにはそうしたことが現実的に存在する人間にとっても可能であるということを示すためであったと考えます。ですから,河井のように十全な観念idea adaequataであれば喜びlaetitiaの原因causaとなる観念が外的であろうと内的であろうと同一の結果effectusになることを示し,そのことによって感情の模倣を理論づけようとすることに,僕はあまり意味を見出せないのです。
さらにいうと,観念の上での原因と現実上の原因が一致するということは,あくまでも仮定として生じ得るということなのであって,それを絶対的な意味で前提することはできません。しかし精神の能動は十全な観念から生起するのですから,それによって感情の模倣を理論づけるためには,この仮定があたかも前提であるかのようにみなす必要があります。実際には河井の論考自体は,この仮定はあくまでも仮定にすぎないのであって,一致するのは偶然であるという意味のことも主張されています。つまり,たとえばAにとって観念の上での前提と現実上の前提が一致しているのだとしても,同じようにBにとっても一致しているということにはならず,Aにとっての十全な原因causa adaequataがBにとっては部分的原因causa partialisにすぎない場合もあるとされています。
そうはいっても感情の模倣の理論づけの部分では,この仮定を前提にしなければなりません。僕は観念上の前提と現実上の前提が一致しない場合の方に重きを置くべきではないかと考えるのです。
『スピノザ哲学論攷』関連はこれで終了として,日記に戻します。
デカルトは人間は精神と身体が合一unioしたものであるとみます。これ自体はスピノザも認めます。認めはするのですが,どのように合一しているのかということ,いってみれば合一とは何事であるのかという考え方はデカルトとは違います。ですからデカルトもスピノザも人間は精神と身体が合一した存在であるということは同じように主張しますが,実際に中身としていわれている事柄は違うのです。まずこれを理解しておかなければなりません。
デカルトの合一説は,スピノザ主義からみれば機能的です。要するに精神が身体を統御するということが目的となっていて,そのために人間はそのふたつが合一していなければならないという結論が最初から選択されなければならないようになっています。これに対していえば,スピノザの合一説は構造的です。身体に限らず物体corpusが存在すれば,必然的にnecessarioその物体の観念ideaも存在します。このとき,物体の方が身体とみられ,観念の方が精神とみられる限りにおいて,精神と身体は合一しているといわれます。そこに特別の機能が前提されているわけではありません。
この機能説と構造説の相違をよく理解しておかなければなりません。そしてここから,スピノザ主義に特有の諸々の事柄が帰結することになるのです。
感情の模倣affectum imitatio,imitatio affectuumが精神の能動actio Mentisからも生じ得ることは確かであるにしても,第三部定理二七の示し方からして,スピノザがどのような目的からこれを『エチカ』に挿入したかといえば,現実的に存在する人間がいかにして受動感情に隷属するかということを示すためであったと僕は考えます。これに対して,精神の能動から生じる感情affectusについてもスピノザが『エチカ』で言及した目的は,第四部定理七により,感情を制御するのはそれより大きな感情でしかないから,感情の抑制は直接的には精神の能動あるいは理性ratioの仕事ではなく,感情の仕事であって,そのために能動的な感情が受動的な感情を統御するのに有益であること,さらにはそうしたことが現実的に存在する人間にとっても可能であるということを示すためであったと考えます。ですから,河井のように十全な観念idea adaequataであれば喜びlaetitiaの原因causaとなる観念が外的であろうと内的であろうと同一の結果effectusになることを示し,そのことによって感情の模倣を理論づけようとすることに,僕はあまり意味を見出せないのです。
さらにいうと,観念の上での原因と現実上の原因が一致するということは,あくまでも仮定として生じ得るということなのであって,それを絶対的な意味で前提することはできません。しかし精神の能動は十全な観念から生起するのですから,それによって感情の模倣を理論づけるためには,この仮定があたかも前提であるかのようにみなす必要があります。実際には河井の論考自体は,この仮定はあくまでも仮定にすぎないのであって,一致するのは偶然であるという意味のことも主張されています。つまり,たとえばAにとって観念の上での前提と現実上の前提が一致しているのだとしても,同じようにBにとっても一致しているということにはならず,Aにとっての十全な原因causa adaequataがBにとっては部分的原因causa partialisにすぎない場合もあるとされています。
そうはいっても感情の模倣の理論づけの部分では,この仮定を前提にしなければなりません。僕は観念上の前提と現実上の前提が一致しない場合の方に重きを置くべきではないかと考えるのです。
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