スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新たな構図&現実性の力

2017-09-01 19:15:46 | 哲学
 精神と身体の関係を,デカルトの哲学および倫理学の基本原理に応じて誤って解してしまうことが知性の失敗のひとつに数え上げることができるのであるとしたら,その代用となる別の対立図式が必要とされます。僕の考えではスピノザの哲学にはそれが示されています。その新たな構図とは能動と受動という対立です。
                                 
 しかしながら,この新たな対立の構図を正しく理解するために大きな注意が必要とされるのです。なぜなら,一般にデカルトの構図というのは僕たちの意識に応じて僕たちのあり方を,正しくはないとしても分かりやすくは示しています。知性の失敗はそのために生じやすいといえます。知性はそれを意図していなくても,もっといえばデカルトが主張している事柄をよく知らなくても,それに応じた認識をしてしまうのです。そうであるならば,スピノザが示した新たな構図を理解する場合にも,知性は半ば無意識的にデカルトの哲学に適合するようにそれを理解してしまいやすいといえるでしょう。スピノザは存命中はデカルト主義者から大きな非難を受けました。それはそうしたデカルト主義者たちが,キリスト教の立場から自身およびデカルトを守ろうとしたからだともいえますが,一方で,スピノザの哲学とデカルトの哲学との相違をよく理解していたからだともいえるでしょう。ですが現代の僕たちは普通はそういう立場にないので,デカルト主義的にスピノザの主張を理解してしまいやすいのです。いい換えればそこに大きな相違を発見することがより困難になっているのです。スピノザの立場を理解しようとする場合に最も注意しておかなければならないのがこの点なのであって,スピノザの側からいえば,その主張をデカルト哲学から掠め取られないようにしなければなりません。
 まず最も単純にいっておきます。能動actioと受動passioが精神mensと身体corpusに代わる新たな構図となり得るのは,一方が精神を,他方が身体を代表するからなのではありません。能動が精神を代表し,受動が身体を代表するわけではないのです。

 理性ratioや表象imaginatioに関してならば,現実的に存在する人間はそれをなしている場合もあればなしていない場合もあります。ですからその力potentiaを有しているといい得る場合もあれば,それに関して無能impotentiaであるといい得る場合もあります。僕は現実的に存在している人間に関してはそのようにはいいませんが,もし理性とか表象をそれだけで抽出するならば,そのようにいわれ得るということだけは認めます。あるいはそのようないい方が絶対的な誤りではないということは認めます。
 しかし,現実的に存在している人間が,あるいはもっと一般的に現実的に存在している個物res singularisが,自己の有に固執する傾向conatusに関しては,そのようにはいわれ得ません。個物は現実的に存在する限り,常にそういう傾向を有しているのですから,この力は常に発揮されています。いい換えれば常にその力を有していることになります。よって,現実的に存在する個物というのは何であれ,それを力という観点から把握する限り,ひとつの固有な力なのであり,無能であるとはいわれ得ないことになります。第三部定理七第二部定理四五備考に関連させて解する場合の,これが結論なります。『スピノザ哲学論攷』において,現実性がこのような固有の力という観点から示されていることの重要性がここにあると僕は考えます。
 スピノザは,存在し得るということはひとつの力であって,存在し得ないということは無能ということであるという主旨のことをいいます。たとえば第一部定理一一第三の証明はこれを利用しているといえます。Deusすなわち絶対に無限な実体substantiaは存在する最高の力を有するのだから,神が存在し得ないのなら何も存在することができず,したがって何も存在しないか神が存在するかのどちらかでなければならないということから,神の存在existentiaが論証されているからです。河井の論考によって明らかにされているのは,このことは個物が現実的に存在するという場合に特有の性質を有しているということだといえるでしょう。すなわち現実的に存在する個物は力そのものであって,それが無能といわれ得るのは,現実的に存在することができないという場合に限られるということになるからです。
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