スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理二七&倫理的観点

2016-03-24 19:18:58 | 哲学
 第三部定理二三の様式で発生する喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaは,その直後の備考Scholiumでスピノザがいっているように,あまり基礎の固い感情affectusではありません。確かに僕たちは憎んでいる人間の悲しみを喜び,逆に憎んでいる人間の喜びを悲しむという傾向を有しますconari。ですがこれはあくまでもその人間を憎んでいるということだけを念頭に置いた場合にのみ成立しているのであり,この憎しみodiumを排除して人間の現実的本性actualis essentiaを考察した場合には,これとちょうど逆の傾向conatusが人間にはみられるからです。いい換えればこの種の喜びと悲しみは,必然的にnecessarioある葛藤を伴うような喜びそして悲しみであるといえます。
                                     
 なぜそうであるのかといえば,人間は一般に,他人の喜びを喜び,逆に悲しみを悲しむという傾向を有しているからです。いい換えるなら,人間はごく一般的に,他者の感情を模倣するという傾向を有しているからです。それが示されているのが第三部定理二七です。
 「我々と同類のもの(res nobis similis)でかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら,我々はそのことだけによって,類似した感情に刺激される」。
 ここから分かるように,人間は一般にある人間を何の先入観あるいは感情なしに表象するimaginari場合には,その人間の喜びも欲望cupiditasも悲しみも模倣することになるのです。しかしその人間に対する憎しみを自覚している場合に限っては,喜びを悲しみ,悲しみを喜ぶということになるのです。そしてスピノザは示していませんが,おそらくその人間が欲するものを忌避し,忌避するものを欲することになるでしょう。
 しかしもしも憎んでいるという感情を脇において単に同類の人間としてその人間をみるなら,相手の喜びは自分の喜びであり,相手の悲しみが自分の悲しみであることになります。このために,第二部定理二三でいわれる喜びと悲しみは,葛藤を伴わざるを得ないのです。

 第三種の認識cognitio tertii generisが,神Deusの属性attributumの形相的本性essentia formalisの認識から事物の本性の認識へと進むと説明されるなら,現実的に存在する人間がこの認識を果たすために,神の属性の形相的本性の十全な観念idea adaequataがその人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseの一部を構成しているのでなければなりません。『エチカ』においてこの役割を果たすのが第二種の認識cognitio secundi generisであるというのが僕の見解です。しかしそれはあくまでも神の属性の形相的本性の十全な認識なのであって,事物,個物res singularisと等置できるか,そうでなくともその事物に含まれるものとしての個物の本性の認識ではありません。こちらの認識は第三種の認識といわれているのであり,それが第五部定理二四においては神を多く理解する認識であり,第五部定理二五においては人間の精神にとっての最高の徳virtusであるとされているのです。
 スピノザがいう徳というのは,第四部定義八から明らかなように,人間が能動的である場合の本性のことにほかなりません。だから理性ratioもまた徳であるということはスピノザも認めていると解するべきでしょう。しかし第五部定理二五にいわれているように,それは最高の徳とはされていません。理性による認識は第二種の認識なのであり,第三種の認識ではないからです。さらに注意しなければならないのは,第五部定理四二において,この徳が至福beatitudoと等置されている点です。スピノザが至福を徳と等置したのは,神学的な観点では至福は来世において得られるもの,他面からいえば現世において徳を積むことによって死後に得られるものというような概念notioであったのに対して,至福は現世で積む徳そのものなのであって,現世において,いい換えるなら現実的に存在する人間が享受できるものであるということを示すためでした。したがって第三種の認識が最高の徳であるならば,それは同時に最高の至福であるということになります。
 したがってスピノザはここでは単に真verumと偽の観点から第三種の認識に言及しているのではないのです。むしろ倫理的な観点からの言及なのです。神を多く認識するcognoscereことは,神を多く十全に認識するためというよりは,人間が倫理的であるための条件であるとスピノザは考えていることになります。
コメント
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