スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

左大腿骨亀裂骨折&認識

2012-04-24 18:37:15 | NOAH
 ジャイアント・キマラは馬場の復帰戦の対戦相手に選ばれたのですが,そこでも少し触れたように,このときの馬場の欠場は,前年の世界最強タッグ決定リーグ戦の試合中のアクシデントによる左脚の大腿骨の亀裂骨折でした。当時の状況については後に馬場自身も説明していますし,その後の状況の詳細を含めたものとしては,プロレス雑誌に馬場へのインタビューも含めてまとめられています。さらに馬場の死後,ほかのインタビューなども含めて一冊の本となりました。
                         
 事故があったのは1990年11月30日の帯広大会。馬場はアンドレ・ザ・ジャイアントと組んでファンクスと試合をしました。ドリー・ファンク・ジュニアは試合中に,相手を場外戦に誘うために独特のロープワークを駆使することがありましたが,この試合でも馬場を相手にそれを利用。両者がもつれ合って場外に転落したようです。場外には選手の衝撃を緩和するためにマットが敷いてあります。しかしこのとき,マットとマットとのつなぎ目の部分に若干の隙間が生じていて,馬場は運悪くそこに転落。患部をそこで強打して骨折してしまったとのことです。
 馬場はそのまま帯広市内の病院に入院しました。しかし元子夫人は一刻でも早く東京に帰った方がよいと判断。東京の主治医に連絡すると,すぐに連れてくるようにとのことでしたので,12月3日には移動。病院から救急車で帯広空港へ移動。特殊なリフトで非常口から機内へ。機内では前後の席を50席ほど潰したそうです。羽田空港にも救急車が待機していて,おそらく同様の方法で飛行機から下ろされ,そのまま都内の病院に搬送されて入院ということで,普通に考えればかなり無理がある大移動だったようです。
 ただ,この大移動を強行したことは結果的には幸いしたよう。馬場は帯広ではかなり痛がっていたようなのですが,移動してからはそういう素振りをあまり見せなくなったとのことです。インタビューは12月20日に行われたとのこと。全治3カ月ですから完治していたわけではありませんが,回復は順調であったといえるのではないでしょうか。

 このスピノザの哲学における認識論の結論は,こと人間の精神mens humanaだけに限っていうならば,第一部定理二五系からも帰結しなければなりません。
 なぜなら,第二部定理一一,そして具体的には第二部定理一三により,人間の精神というのは神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisです。よって第一部定理二五系により,現実的に存在する人間の精神は,否応なく必然的にnecessario神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumを一定の仕方で表現しつつ実在します。いい換えれば,何らかの思惟作用をしつつ実在するということになります。
 ところで,第二部公理三によれば,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念ideaです。したがってあらゆる思惟作用のうち,その第一にあたることは何らかの観念を形成するということなのです。しかるに,これは無限知性infinitus intellectusでも有限知性でもよいのですが,ある知性がその知性のうちで何らかの観念を形成するとき,これをその知性が形成する観念の対象ideatumを認識するcognoscereというのです。したがって,思惟の様態のうちの第一のものが観念であるということは,思惟作用のうち第一のものは認識cognitioであるということになります。したがってあるものが何らかの思惟作用をしつつ実在するということは,そのあるものが何らかの認識をしつつ実在するといっているのに等しいことになります。よって人間の精神が現実的に存在するならば,その人間の精神は,否応なしに何らかのものを認識する,すなわちオートマティックに,あるいはきわめてシステマティックに何らかのものを認識するということになるからです。
 これ以前のテーマとの関連でいうなら,このことは第二部定義三に関する考察と大いに関係しています。僕はその考察において,なぜこの定義Definitioが観念の発生というのを含んだ定義であるといえるのかということを,詳しく分析しました。ここではその仔細に立ち入ることはしませんが,僕がそのときに最大の根拠としたことが,思惟の様態は何らかの思惟作用をなすから思惟の様態なのであって,もしもあるものが思惟作用をなさないなら,それは思惟の様態としては存在し得ないということでした。これと同様に,人間の精神は認識をするから思惟の様態なのであって,それを否定するなら,人間の精神は思惟の様態ではないと主張するのと同じであると僕は考えます。

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