スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

行動の模倣&考察の目的

2021-01-22 19:33:39 | 哲学
 僕たちによる他人の欲望の表象は,その他人の行動によって大きく左右される傾向があります。したがって,欲望cupiditasに関連する感情の模倣affectum imitatioもまた,他人の行動によって大きく左右される傾向があることになります。他人の欲望を模倣するためにはその他人の欲望を表象している必要があり,他人の欲望はその他人の行動によって表象される傾向が強いのですから,このことは当然であるといわなければなりません。するとどういう事態が生じやすいのかということもまた明白です。僕たちは他人の欲望という感情を模倣するがゆえに,その他人の行動を模倣しやすくなるのです。つまり欲望の模倣は,現実的な行動としては,行動の模倣を発生させるのです。
                                   
 たとえばある人間がAという商品を購入しているのをBが見た,表象したと仮定しましょう。Bは,Aがその商品の入手を欲望したと表象します。すると第三部定理二七により,Bもまたその商品を入手する欲望を抱くようになるのです。
 ただし,欲望というのは第三部諸感情の定義一から分かるように,ある人間の受動状態における現実的本性actualis essentiaを意味します。当然ながらAの現実的本性とBの現実的本性は異なりますから,その分だけ感情の模倣の強度というのは異なります。たとえばAが購入した商品が,Bにとっては欲望の対象になっていない商品であったなら,この感情の模倣の度合はきわめて弱くなるでしょう。しかしBもまたそれを購入することを強く欲望していた商品であった場合には,感情の模倣の度合もきわめて強くなることになります。こうしたことは僕たちはこのように論理的に説明せずとも,経験的に知っているといっていいでしょう。
 ところが,感情の模倣の度合がきわめて弱かったとしても,こうした表象imaginatioが頻出すれば,感情の模倣の度合はその分だけ高まってきます。つまり,Bにとってはそれを購入する欲望をほとんど抱いていなかった商品であったとしても,Aが購入するのを表象し,Cもそれを購入するのを表象し,またDもそれを購入するのを表象するimaginariという具合に,表象の頻度が多くなってくればなるほど,他面からいえば,同一の商品を購入している人物を多く表象すればするほど,Bもそれを購入することに向けた欲望が,感情の模倣によって強くなってくるのです。つまり行動の模倣は,単に感情の模倣が発生する以前の欲望にだけ左右されるわけではないのです。

 松田の表現に倣うなら,スピノザが目撃していただけの論争,スピノザ自身がそれに積極的に関わったわけではない論争に関して,これをここで詳しく考察するのには,ある目的があります。
 僕の見解opinioでは,デカルトRené Descartesの哲学というのがなかったなら,スピノザの哲学というのはあり得ませんでした。実際の歴史について,いわゆる「たられば」というものを用いることに意味があるとは僕は考えていませんが,この見解自体はおそらく多くの人に同調してもらえるだろうと思います。それくらいスピノザの哲学は,デカルトの哲学から多くのものを負っていると考えられるからです。
 しかし,このブログでいうところの「デカルトの欺瞞」を含め,スピノザにとってはデカルトの哲学は不十分なものであり,修正あるいは改善を加えていく必要がある思想でした。このことはすでにスピノザがデカルトの哲学を解説した『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の中でも表れています。そして『エチカ』の中では,デカルトの思想が批判的に記述されている箇所もあります。僕はスピノザ主義者ですから,スピノザがそのようなことを表明するときは,デカルトの立場よりスピノザの立場を採用しますし,推奨もします。このために,このブログの中でも,デカルトは批判的に,あるいは批判の対象者として記述されるケースが頻発することになるのです。
 とはいえ,スピノザの哲学がデカルトの哲学にその多くを負っているということを,僕は実際には認めているのです。これが何を意味するのかといえば,もしもスピノザと同時代の思想家の中で,だれがスピノザの思想に最も近い思想家であったのかということを問うならば,その答えはデカルトにいきつくであろうということです。そして僕はその通りだと思っています。ある意味でいえば,デカルトはスピノザに近いところまできたからスピノザによって批判されることになるという面があるのです。他面からいえば,デカルト以外の思想家は,スピノザからはデカルトほどには批判の対象にすらなり得ないという面があるのです。ですから,どのような点でデカルトがスピノザに接近していたのかということも,考察しておきたいのです。

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