⑥で馳浩の話をした後で,谷津はインタビュアーから全日本と新日本の違いについての質問を受けています。インタビュアーは堀江ガンツ。日時は特定できませんが,2019年の1月か2月ではないかと思われます。つまりこの答えはその時点でのものと理解してください。
谷津が全日本プロレスで仕事をするようになった頃は,全日本と新日本の違いが明確にあったと谷津は答えています。その頃はあったという答えですから,この話をしている時点ではその相違がなくなっている,あるいはなくなってきていると谷津は見ているわけです。基本的に新日本のプロレスが全日本に寄ってきたので,新日本と全日本の相違がなくなってきたというのが谷津の見方です。
谷津が仕事をしていたころの新日本は,アグレッシブに次から次へと攻めていくことで強さを表現するプロレスで,機が熟したらフィニッシュにもっていくというスタイルで,このスタイルは簡単だったと谷津は言っています。全日本の方はピンフォールの攻防を互いに繰り返し,一方が消耗したところでフィニッシュにするというスタイルで,このスタイルはやらなければならないことがたくさんあったとのこと。基本的に全日本プロレスの方がエンターテイメント性が高かったという評価です。
全日本プロレスは基本的にチームで戦うので,たとえば今日は組んで明日は戦うというようなことがほとんど生じません。このためにマッチメークは画一化しがちで,そのマンネリを防ぐために,攻防のプロレスというスタイルを必要としたのではないかと僕は思っています。しかし谷津の考えはそれとは異なっていて,これを複雑化していく物語という観点から説明しています。トータルの物語とは別に,ひとつの試合の中でも物語を見せるというのが全日本プロレスのスタイルであったとする観点です。そしてその契機となったのは,長州力らが新日本プロレスに戻り,天龍源一郎が阿修羅・原と組むようになったことだったと谷津は言っています。
自然Naturaに共通の秩序ordoと知性の秩序ordo intellectusの相違をここでは気にする必要がないというのは,知性の秩序もまた広くみれば自然の秩序の一部だからです。僕たちが理性ratioに従って何ごとかを認識するcognoscereとき,それは僕たちが自然の秩序に従って事物を認識するとはいわれずに,僕たちの知性の秩序に従って事物を認識するといわれます。ただしこれは事物を十全に認識するのかそれとも混乱して認識するのかという観点からそのように分類されるのです。すなわち僕たちは知性の秩序に従って事物を認識すれば,その事物を十全に認識します。これに反して自然に共通の秩序に基づいて事物を認識すれば,その事物を混乱して認識します。
しかしながら,僕たちが事物を十全に認識するのも混乱して認識するのも,広い意味で自然の秩序の下で発生するということは同じです。他面からいえば,僕たちは知性の秩序によって自然の秩序を超越することができるわけではありません。第四部定理四でいわれているように,僕たちが自然の一部分Naturae parsでないということは不可能なのであって,このことは僕たちが事物を十全に認識しようと混乱して認識しようと同じことだからです。あるいはこのことは,第二部定理三六からも明らかだといえるかもしれません。ここでいわれている必然性necessitasというのを,自然の秩序と解すれば,僕たちの知性のうちにある十全な観念idea adaequataも混乱した観念idea inadaequataも,同一の自然の秩序から発生するということになって,十全な観念を僕たちの知性のうちに発生させる様式も,広く自然の秩序の一部であるということになるからです。
このようなわけで,前もって結論としていっておいたように,自然の秩序を乱すというのは,実際に自然の秩序を乱している,つまり自然の秩序に反しているということではないのであって,自然の秩序をある秩序としてみる側からみたときに,その秩序を乱しているようにみえているということにすぎません。したがって,自然の秩序に従う人間と自然の秩序を乱す人間が存在するというようにみえるのは,それもまた謬見のひとつです。あるいは同じことかもしれませんが,自然の秩序というのを自分に都合よく誤って解しているということの証明なのです。
谷津が全日本プロレスで仕事をするようになった頃は,全日本と新日本の違いが明確にあったと谷津は答えています。その頃はあったという答えですから,この話をしている時点ではその相違がなくなっている,あるいはなくなってきていると谷津は見ているわけです。基本的に新日本のプロレスが全日本に寄ってきたので,新日本と全日本の相違がなくなってきたというのが谷津の見方です。
谷津が仕事をしていたころの新日本は,アグレッシブに次から次へと攻めていくことで強さを表現するプロレスで,機が熟したらフィニッシュにもっていくというスタイルで,このスタイルは簡単だったと谷津は言っています。全日本の方はピンフォールの攻防を互いに繰り返し,一方が消耗したところでフィニッシュにするというスタイルで,このスタイルはやらなければならないことがたくさんあったとのこと。基本的に全日本プロレスの方がエンターテイメント性が高かったという評価です。
全日本プロレスは基本的にチームで戦うので,たとえば今日は組んで明日は戦うというようなことがほとんど生じません。このためにマッチメークは画一化しがちで,そのマンネリを防ぐために,攻防のプロレスというスタイルを必要としたのではないかと僕は思っています。しかし谷津の考えはそれとは異なっていて,これを複雑化していく物語という観点から説明しています。トータルの物語とは別に,ひとつの試合の中でも物語を見せるというのが全日本プロレスのスタイルであったとする観点です。そしてその契機となったのは,長州力らが新日本プロレスに戻り,天龍源一郎が阿修羅・原と組むようになったことだったと谷津は言っています。
自然Naturaに共通の秩序ordoと知性の秩序ordo intellectusの相違をここでは気にする必要がないというのは,知性の秩序もまた広くみれば自然の秩序の一部だからです。僕たちが理性ratioに従って何ごとかを認識するcognoscereとき,それは僕たちが自然の秩序に従って事物を認識するとはいわれずに,僕たちの知性の秩序に従って事物を認識するといわれます。ただしこれは事物を十全に認識するのかそれとも混乱して認識するのかという観点からそのように分類されるのです。すなわち僕たちは知性の秩序に従って事物を認識すれば,その事物を十全に認識します。これに反して自然に共通の秩序に基づいて事物を認識すれば,その事物を混乱して認識します。
しかしながら,僕たちが事物を十全に認識するのも混乱して認識するのも,広い意味で自然の秩序の下で発生するということは同じです。他面からいえば,僕たちは知性の秩序によって自然の秩序を超越することができるわけではありません。第四部定理四でいわれているように,僕たちが自然の一部分Naturae parsでないということは不可能なのであって,このことは僕たちが事物を十全に認識しようと混乱して認識しようと同じことだからです。あるいはこのことは,第二部定理三六からも明らかだといえるかもしれません。ここでいわれている必然性necessitasというのを,自然の秩序と解すれば,僕たちの知性のうちにある十全な観念idea adaequataも混乱した観念idea inadaequataも,同一の自然の秩序から発生するということになって,十全な観念を僕たちの知性のうちに発生させる様式も,広く自然の秩序の一部であるということになるからです。
このようなわけで,前もって結論としていっておいたように,自然の秩序を乱すというのは,実際に自然の秩序を乱している,つまり自然の秩序に反しているということではないのであって,自然の秩序をある秩序としてみる側からみたときに,その秩序を乱しているようにみえているということにすぎません。したがって,自然の秩序に従う人間と自然の秩序を乱す人間が存在するというようにみえるのは,それもまた謬見のひとつです。あるいは同じことかもしれませんが,自然の秩序というのを自分に都合よく誤って解しているということの証明なのです。
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