17日に指された第11期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が19勝,伊藤沙恵女流三段が6勝。
振駒で里見名人の先手になり中飛車。伊藤三段が三間飛車にっての相振飛車。後に相向飛車の形になりました。
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第1図から☖3五銀と出て攻めにいきましたが,これが敗着となりました。先手は☗4一銀と打ち☖6三金に☗3一角。☖2四飛と逃げるのは仕方がなく☗4二角成。
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後手から攻めに出たのに先手の方が後手玉に迫ることになりました。第1図で5三の地点の守備を放棄するのは危険で,☖7二金のような手で手を渡す方が優りました。
里見名人が挑戦権を獲得。第3期,6期,7期,8期,9期,10期に続く6期連続7度目の五番勝負出場です。
第二種の認識cognitio secundi generisによって自己満足acquiescentia in se ipsoが発生し得るということを具体的に説明するのは,それほど難しいことではありません。たとえば第三部定理五三は,僕たちは自分自身や自分自身の働く力を観想するagendi potentiam contemplaturと喜びを感じるlaeturといっています。この喜びlaetitiaは第三部諸感情の定義二五でいわれている自己満足にほかなりません。しかるにこの定理Propositioは,もしも僕たちが自分自身を観想したり自分の働く力を観想したりしさえすれば,必然的にnecessario喜びを感じるといっているのですから,もしも僕たちが第二種の認識によって自分自身を認識したり,自分自身の働く力を認識したりしさえすれば,必然的に自己満足を感じることになります。よって僕たちは,第二種の認識で僕たちの働く力を認識するcognoscereことがあるとするなら,それだけで第二種の認識によって自己満足を感じるということが証明できるのです。
ところで,第二部定理三八系は,僕たちの精神mensのうちには共通概念notiones communesがあるということを示しています。第二部定理三八から分かるように,この共通概念は僕たちの精神のうちで十全adaequatumです。つまり僕たちの精神の能動actio Mentisによって僕たちの精神のうちに生じる思惟の様態cogitandi modiです。よって僕たちは,自分の精神が働く力というのを認識することができるのです。したがって,第二種の認識によっても僕たちは自己満足を感じるということがあります。
第五部定理二七がいっているのは,こうしたいくつかの仕方で人間が感じる自己満足のうち,最高のものは僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisでものを認識したときに感じる自己満足であるということなのです。すでに示したように,自己満足は基本感情affectus primariiの中では喜びの一種ですから,第三種の認識によってものを認識したことによって感じる喜びが,その他の仕方でものを認識したことによって感じる喜びよりも大きな喜びであるという意味でもあります。第三部諸感情の定義二により,喜びとはより小なる完全性perfectioからより大なる完全性への移行transitioですから,第三種の認識から生じる自己満足が最高の自己満足であるということは,それが最も大きな完全性に僕たちを移行させる,いい換えれば大なる完全性へ移行する幅が最も大きいというようにスピノザは考えているのです。
振駒で里見名人の先手になり中飛車。伊藤三段が三間飛車にっての相振飛車。後に相向飛車の形になりました。
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第1図から☖3五銀と出て攻めにいきましたが,これが敗着となりました。先手は☗4一銀と打ち☖6三金に☗3一角。☖2四飛と逃げるのは仕方がなく☗4二角成。
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後手から攻めに出たのに先手の方が後手玉に迫ることになりました。第1図で5三の地点の守備を放棄するのは危険で,☖7二金のような手で手を渡す方が優りました。
里見名人が挑戦権を獲得。第3期,6期,7期,8期,9期,10期に続く6期連続7度目の五番勝負出場です。
第二種の認識cognitio secundi generisによって自己満足acquiescentia in se ipsoが発生し得るということを具体的に説明するのは,それほど難しいことではありません。たとえば第三部定理五三は,僕たちは自分自身や自分自身の働く力を観想するagendi potentiam contemplaturと喜びを感じるlaeturといっています。この喜びlaetitiaは第三部諸感情の定義二五でいわれている自己満足にほかなりません。しかるにこの定理Propositioは,もしも僕たちが自分自身を観想したり自分の働く力を観想したりしさえすれば,必然的にnecessario喜びを感じるといっているのですから,もしも僕たちが第二種の認識によって自分自身を認識したり,自分自身の働く力を認識したりしさえすれば,必然的に自己満足を感じることになります。よって僕たちは,第二種の認識で僕たちの働く力を認識するcognoscereことがあるとするなら,それだけで第二種の認識によって自己満足を感じるということが証明できるのです。
ところで,第二部定理三八系は,僕たちの精神mensのうちには共通概念notiones communesがあるということを示しています。第二部定理三八から分かるように,この共通概念は僕たちの精神のうちで十全adaequatumです。つまり僕たちの精神の能動actio Mentisによって僕たちの精神のうちに生じる思惟の様態cogitandi modiです。よって僕たちは,自分の精神が働く力というのを認識することができるのです。したがって,第二種の認識によっても僕たちは自己満足を感じるということがあります。
第五部定理二七がいっているのは,こうしたいくつかの仕方で人間が感じる自己満足のうち,最高のものは僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisでものを認識したときに感じる自己満足であるということなのです。すでに示したように,自己満足は基本感情affectus primariiの中では喜びの一種ですから,第三種の認識によってものを認識したことによって感じる喜びが,その他の仕方でものを認識したことによって感じる喜びよりも大きな喜びであるという意味でもあります。第三部諸感情の定義二により,喜びとはより小なる完全性perfectioからより大なる完全性への移行transitioですから,第三種の認識から生じる自己満足が最高の自己満足であるということは,それが最も大きな完全性に僕たちを移行させる,いい換えれば大なる完全性へ移行する幅が最も大きいというようにスピノザは考えているのです。
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