スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スキャンダル&最近原因としての神

2023-09-05 19:42:31 | 哲学
 オルデンブルクによるスピノザ訪問の目的は,学術的なものでした。だからスピノザがユダヤ教会から破門されたユダヤ人であるということを知らずにオルデンブルクがスピノザに会いにいったというのは,可能性としてはないわけではありません。ないわけではありませんが,きわめて低かったという想定はできます。オルデンブルクはスピノザを訪ねる前に,アムステルダムAmsterdamで情報を収集していましたから,この頃のアムステルダムの状況を再確認しておきます。
 1623年に,アムステルダムのユダヤ教会はウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaを破門しました。この破門は1633年に解かれています。これは驚くようなことではなくて,当時のアムステルダムのユダヤ人社会において破門というのは一種の警告であって,解かれることが前提であったのです。むしろこれほど長く破門が継続したのが異例でした。これはユダヤ人社会には政治的権力というものがあったわけではないので,宗教的方法に依拠しなければ,ユダヤ人社会の内部の問題には対処できなかったためです。
 ところがダ・コスタは甥の告発でまたすぐに破門されてしまいます。この破門は1940年まで続きました。ダ・コスタは破門を解いてもらうために,会堂の中央で懺悔文を読まされた後,裸で柱に縛り付けられ革の鞭で39回叩かれました。最後に会堂の入口に伏して,会衆が跨いでいき,破門は解かれました。スピノザは1632年に産まれていますから,この儀式があったときには少年で,これを目撃していたかもしれないということが『破門の哲学』には記されています。
                                        
 ダ・コスタはこの復帰の儀式の屈辱によって,復帰してすぐにピストル自殺しています。この一連の出来事はアムステルダムにおけるひとつのスキャンダルでした。これはユダヤ人社会におけるスキャンダルということではなく,アムステルダムの住人であればユダヤ人であるか否かを問わずスキャンダルであったという意味です。ですから,スピノザが1656年に破門され,オルデンブルクがアムステルダムを訪れた1661年の時点でまだそれが解かれていなかったということは,ダ・コスタの一件ほどではなかったにしても,ひとつのスキャンダルとして広く知れ渡っていたと思われるのです。

 観念ideaの秩序ordoと観念対象ideatumの秩序は一致します。自然の秩序ordo naturaeと知性の秩序ordo intellectusは異なった秩序です。ですから,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに,Xの真の観念idea veraが発生するときの秩序と,Xの誤った観念idea falsaが発生するときの秩序は,自然の秩序と知性の秩序が異なっている分だけ異なっているといわなければなりません。この秩序が異なっているがゆえに,Xの真の観念とXの誤った観念が,現実的に存在する人間の精神のうちに,同時にあることができるのです。
 このことから理解できるように,現実的に存在するある人間の精神のうちにあるXの真の観念もXの誤った観念も,同じように神Deusを最近原因causa proximaとしているのですが,各々は異なった秩序で人間の精神のうちに発生するのですから,異なった神を最近原因としているといわなければなりません。すなわち,ある人間の精神のうちにXの真の観念が発生するときの最近原因は,その人間の精神の本性naturaを構成する限りでの神であり,同じ人間の精神のうちにXの誤った観念が発生するという場合の最近原因は,その人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神です。無限知性intellectus infinitusのうちではどちらもXの真の観念ではあるのですが,この人間の精神のうちでは,前者は神に関係させることができるけれど,後者は神に関係させることができませんから,前者はXの真の観念で後者はXの誤った観念であることになり,このふたつが同時に同じ人間の精神のうちにあることができるようになります。
 よってまず,この観点から河井が示している事例は,河井が主張しようとしていることに対して適切性を欠いていると僕には思えます。歪んだ円の観念に対する最近原因としての神のあり方は,それが真の観念であるのか誤った観念であるかのかということによって異なるといわれなければならないのに,河井の示し方では,最近原因としての神が認識されることによって,歪んだ円の観念が真verumになるというようにしか解せないからです。確かに最近原因としての神が認識されるのであれば,それはどのような観念であれ真ではあるでしょうが,最近原因としての神は真の観念に対してだけあるわけではありません。

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