スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑲-11&第一部定理三三備考二

2024-07-14 19:19:25 | 将棋
 ⑲-10の第1図の☗3一角は,40分の考慮で指された手です。そこから☗5四金まではおそらく先手の読み筋通りの進行。その後の後手の攻め方は絶対とはいえません。おそらく絶対手の☗8八同金に最後の1分を使っていますので,第2図は想定のひとつではあったかもしれませんが,本命ではなかったのではないかと推測します。
 まず考えなければならないのは,第2図で後手玉が詰むか否かということ。詰ましにいくなら☗5三金です。
                                        
 ☖同飛☗同角成☖同王☗5二飛☖4三王☗4四銀☖同王☗4二飛成と進めます。
 この局面で合駒を打つと後手玉は詰みます。なので後手は☖4三銀と引くのが最善。
 先手にはふたつの手段がありますが,☗4五銀と取るのは☖同王☗4三龍☖4四金でこれは明らかに詰みません。なので☗3五銀打とします。これには☖5四王☗5五銀☖同王☗5三龍まで必然の手順。
 これで絶体絶命に思えるのですが,☖5四角という合駒があります。☗4四銀☖5六王で第2図。
                                        
 ☗5七歩は打ち歩詰めですから打てません。しかし角を取っても5七に打つのは王手になりません。つまりこれで後手玉は詰みを逃れています。よって⑱-10の第2図の後手玉に即詰みはありません。

 Deusを善bonumという目的finisに従属させてしまうことを,スピノザは第一部定理三三備考二の中で次のようにいっています。
 「これはまったく神を運命に従属させるのにほかならぬのであって,我々が示したように万物の本質ならびに存在の第一にして唯一の自由原因たる神についてこれ以上不条理な主張はあり得ない」。
 このいい方から,神が自由意志voluntas liberaによって働くagereという主張が,神が善意によってすべてのことをなすという主張ほど間違っていないとスピノザがいう理由が分かるでしょう。神が自由意志によって働くのであれば,神は唯一の自由原因causa liberaではあり得るでしょうし,万物の本性essentiaならびに存在existentiaの原因でもあり得るでしょう。しかし神が善意によってすべてのことをなすというのであれば,神は善である事柄の原因ではあり得ても悪malumである事柄の原因ではあり得ないというか,そうでなければ全体的に最善であるものだけを選択し,それ以外は選択し得ないといわなければならないかのどちらかであって,どちらの場合も神が自由原因であるということはできなくなってしまうからです。
 このように,スピノザは『エチカ』の中で,目的というのを概念conceptusとして神のうちから排除しようとしています。そしてこの神は自然Naturaと変わらないものなのですから,それは自然のうちから目的の概念を排除しようとしているというのと同じことです。いい換えれば目的なるものは自然のうちに存在するのではなくて,僕たちが思惟の様態cogitandi modiとして,しかも混乱した観念idea inadaequataとして作出するものであるとスピノザはいっているのです。
 このことを踏まえて第四部定義七をみてみると,そこでは衝動appetitusを定義するにあたって,目的という語が使用されています。なぜここで衝動を定義するにあたって,それを我々をしてあることをなさしめる目的というようにスピノザはいっているのかということを,『スピノザー読む人の肖像』の中で國分が検討しているのです。そしてこれを國分は,ここまで説明してきたスピノザによる目的論批判の観点から説明しています。これが僕には斬新な視点でした。この定義の中にも目的論に対する批判が含まれているというようには,僕は考えたことがなかったからです。

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