スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&個人と国家

2023-10-25 18:58:30 | 将棋
 24日に指された第54回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 藤本渚四段の先手で相掛り。先手の引き飛車に後手の上野裕寿四段の高飛車という戦型になりました。この将棋は中盤で中央を手厚く指した先手がリードを奪ったのですが,終盤は後手にもチャンスがありました。
                                        
 この王手に対して☖8二玉と逃げました。このために☗7一角☖8一玉☗7二歩成以下の王手の連続で先手玉が安全になり,先手が勝っています。
 第1図は☖8一玉と逃げる手がありました。今度は角を打っていないので☗7二歩成は無効。よって☗5一龍と王手を掛けることになりますがそこで☖9二玉と逃げます。このとき先手には☗6五角と☗9三銀というふたつの有力手段があるのですが,どちらも後手玉は詰まずに先手玉が詰むという展開に進みそうです。なので第1図で☖8一玉なら逆転で後手の勝ちだったようです。
 藤本四段が勝って1勝1敗。第三局は31日に指される予定です。

 ホッブズThomas Hobbesが考える国家Imperiumの特徴として,国家において個人が自然権jus naturaeを放棄するということは,自然権を国家に対して全面的に譲渡することを意味します。したがってこの状態は理念的にいえば,国家がなければ個人というものは存在し得ないという帰結になります。これはひとつの考え方ではありますが,スピノザのように,国家においても個人の自然権が残るという考えからは,それとは逆に個人が存在しなければ国家というものは存在し得ないということが帰結しますから,この種の対立が生じます。これは政治論に関わることですから,ここではどちらが正しいかということを検討することはしませんが,基本的に社会契約説を導入して国家論を組み立てると,まず国家というものがあって,その国家の中で国民が形成されるといわなければならなくなるということは間違いありません。スピノザの国家論は明らかにこの考え方を否定するものであって,それはまたホッブズが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読んだときに衝撃を受けた要因のひとつになっているかもしれません。
 ここでより詳しく考えておきたいのは,この国家以前の状態としてホッブズがあげている自然状態status naturalis,すなわち万人の万人に対する戦争状態の現実性です。本当に人類の歴史においてそのような状態があったというようには僕には考えられません。これは,ひとりの人間が生きていくということを考えれば,容易に理解することができるのではないかと思います。
 人間というのは,これはとくに幼少期を思い浮かべれば分かると思いますが,単独で生きていくことができるわけではありません。もしひとりの人間が産まれてきたとしても,産まれてきたその状態ではその人間は何ひとつをなすことはできないのであって,ひとりで放置されれば死を迎えることになります。いい換えれば,産まれてきたときの人間に何がしかの自然権があるというのは無理があるのであって,人間にとっての自然権というのは,人間が育っていく過程において徐々に獲得してくものであるといわなければなりません。とくにホッブズのように,自然権を人間の自由意志voluntas liberaに関連させるなら,なののことそういわなければならないでしょう。
コメント
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