14日に京都で指された第3期白玲戦七番勝負第五局。
西山朋佳女流三冠の先手で三間飛車。先手が玉の囲いを後回しにしたのをみた後手の里見香奈白玲が大模様を張っての三間飛車の相振飛車に。この後の後手からの攻めに先手は矢倉に組めましたので,作戦として悪くはなかったと思うのですが,その矢倉の金銀が進出していく展開に進んだので,形勢は互角でも先手が勝ちにくい将棋になってしまった印象です。
ここでいずれ7七の桂馬が跳ねていくときに飛車を成られるのを防いで☗7九歩と打ったのですが,☖8四歩☗4六金☖9六飛と回られて先手が一気に苦しくなりました。
第1図では後手が局後に指摘しているように☗7九銀と引くのがよく,それならまだ五分の形勢を維持できました。ただここで銀を引いて立て直していくのはやりにくそうに感じます。ですからすでに第1図の時点で,後手の方が勝ちやすい局面となっていたということなのではないかと思います。
里見白玲が勝って2勝3敗。第六局は21日に指される予定です。
ホッブズThomas Hobbesは『リバイアサンLeviathan』において,著作家たちが自然権jus naturaeといっている権利とは,諸個人が自分自身の本性essentia,すなわち自分自身の生命を維持するために自らが意志する通りに自分自身の力potentiaを用いる自由libertasのことであって,自分自身の判断および理性ratioによってそのために最も適していると考えられることについて,どのようなことについても行うことができる自由のことであるという主旨のことをいっています。したがってホッブズは,自然権という語に特殊な意味を与えようとしているわけではなく,著作家たちがいっている通りの意味でこの語を用いようとしていることになります。著作家たちがいっている自然権というのが,確かにこのような意味であるかということは,このことだけで断定することができるわけではないのであって,本来であれば考察するべきことです。しかし少なくともホッブズは自然権という語をそのように理解していたのであって,ここではホッブズがどう理解していたということの方に意味がありますから,確かに自然権という語がそのように使われていたかどうかは探求しません。
このことのうち,自分自身の生命を維持するということが,ホッブズにとっては重要であったと伊豆蔵は指摘しています。このことは,各人が自身の生命を維持するということが,それら各人,すなわち人間が集団で生活していく場合にどのような事象になるのかという観点から重要なのであって,これはホッブズの理論の核心となる社会契約説とも関係することになります。しかしここではホッブズの理論を深く考察することを目的としているわけではありませんから,この関係についての詳しい説明は省略します。ただ,ホッブズが自然権を解するにあたって,このことを重視していたということは,この考察にとっても重要ですので,押さえておいてください。
再びホッブズにとっての自然権がいかなるものであったのかということに戻れば,それがスピノザが解する自然権とは大きく異なっていることは明白だということが理解できます。というのも,スピノザは人間に自由な意志voluntas liberaがあるということを認めていないのですから,これと同じではあり得ないのです。
西山朋佳女流三冠の先手で三間飛車。先手が玉の囲いを後回しにしたのをみた後手の里見香奈白玲が大模様を張っての三間飛車の相振飛車に。この後の後手からの攻めに先手は矢倉に組めましたので,作戦として悪くはなかったと思うのですが,その矢倉の金銀が進出していく展開に進んだので,形勢は互角でも先手が勝ちにくい将棋になってしまった印象です。
ここでいずれ7七の桂馬が跳ねていくときに飛車を成られるのを防いで☗7九歩と打ったのですが,☖8四歩☗4六金☖9六飛と回られて先手が一気に苦しくなりました。
第1図では後手が局後に指摘しているように☗7九銀と引くのがよく,それならまだ五分の形勢を維持できました。ただここで銀を引いて立て直していくのはやりにくそうに感じます。ですからすでに第1図の時点で,後手の方が勝ちやすい局面となっていたということなのではないかと思います。
里見白玲が勝って2勝3敗。第六局は21日に指される予定です。
ホッブズThomas Hobbesは『リバイアサンLeviathan』において,著作家たちが自然権jus naturaeといっている権利とは,諸個人が自分自身の本性essentia,すなわち自分自身の生命を維持するために自らが意志する通りに自分自身の力potentiaを用いる自由libertasのことであって,自分自身の判断および理性ratioによってそのために最も適していると考えられることについて,どのようなことについても行うことができる自由のことであるという主旨のことをいっています。したがってホッブズは,自然権という語に特殊な意味を与えようとしているわけではなく,著作家たちがいっている通りの意味でこの語を用いようとしていることになります。著作家たちがいっている自然権というのが,確かにこのような意味であるかということは,このことだけで断定することができるわけではないのであって,本来であれば考察するべきことです。しかし少なくともホッブズは自然権という語をそのように理解していたのであって,ここではホッブズがどう理解していたということの方に意味がありますから,確かに自然権という語がそのように使われていたかどうかは探求しません。
このことのうち,自分自身の生命を維持するということが,ホッブズにとっては重要であったと伊豆蔵は指摘しています。このことは,各人が自身の生命を維持するということが,それら各人,すなわち人間が集団で生活していく場合にどのような事象になるのかという観点から重要なのであって,これはホッブズの理論の核心となる社会契約説とも関係することになります。しかしここではホッブズの理論を深く考察することを目的としているわけではありませんから,この関係についての詳しい説明は省略します。ただ,ホッブズが自然権を解するにあたって,このことを重視していたということは,この考察にとっても重要ですので,押さえておいてください。
再びホッブズにとっての自然権がいかなるものであったのかということに戻れば,それがスピノザが解する自然権とは大きく異なっていることは明白だということが理解できます。というのも,スピノザは人間に自由な意志voluntas liberaがあるということを認めていないのですから,これと同じではあり得ないのです。