スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&目的と目標

2022-10-09 19:12:46 | 将棋
 3日に指された第53回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は黒田堯之五段が1勝,服部慎一郎五段が2勝。
 振駒で服部五段が先手となり,黒田五段の横歩取り。相振飛車のような形に進みました。
                                        
 先手が☗8四歩と打ち後手がそれを取った第1図で,先手はすでに悲観していたようです。☗8四同桂と取りました。王手ですから☖6一王。そこで☗9二桂成が継続手。
 すぐに受けるのではなく☖8五歩☗同飛として☖6六桂と打っておくのが後手の好手順。☗6九玉に☖9二香と取る手が,☖7六桂と打つ狙いを持つ手となりました。
                                        
 第2図から☗3二銀☖5一飛☗4三銀不成と進めましたが,☖8四歩☗同飛☖7二王というのが力強い受けで,先手の攻めが繋がらなくなりました。第2図は苦戦であるとしてもすぐに☗8一飛成とするか☗3二銀☖5一飛のときに☗8一飛成とするほかなかったようです。
 黒田五段が先勝。第二局は24日に指される予定です。

 弁証法が目的論的であるということは,この説明だけでは分かりにくいかもしれません。たとえばスピノザの哲学では,現実的に存在する人間が能動的であるということが倫理的に推奨され,受動的であることは倫理的に否定されます。これでみれば,スピノザの哲学は,現実的に存在する人間が能動的になることが目的finisとなっていて,その意味で目的論的であるという解釈があり得るからです。しかし僕はそのようにはみません。弁証法が目的論的といわれることとどのように異なるのかということを,少し詳しく説明します。
 スピノザの哲学で,現実的に存在する人間ができる限り能動的であることが推奨されているのは事実です。しかしそれはその人間にとっての目的であるというわけではなく,目的ということばと対応させていうなら,ひとつの目標です。なぜなら,スピノザの哲学では,現実的に存在する人間が能動的になるということ,受動passioという状態から能動actioという状態に変化するということは,必然的にnecessario生じるというわけではないからです。もし人間が能動的になるということが目的論となっているなら,そのことは必然的に生じるのでなければなりません。ところがそうではないのですから,それは目的論的ではないのです。あるいは少なくとも,目的論が貫徹されているということはないのです。
 このことはもしもこれが弁証法的に生じると仮定した場合と比較すればより容易に理解できます。現実的に存在する人間が受動状態を克服して能動状態になるということ,あるいは弁証法の語句でいえば,現実的に存在する人間が受動状態を止揚して能動状態になるということが,弁証法の過程として生じるのであれば,このことは必然的に生じるのでなければなりません。よってこの場合は人間が能動的になるということが,単にその人間の目標というだけでなく,目的論化しているのです。なぜならこの受動から能動への変化は,弁証法の過程として必然的に生じる,つまり具体的に存在するある人間がそれを目標として努力するかしないかということと無関係に生じることになっているからです。
 目標と目的を僕は使い分けていることに注意してください。
コメント
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