スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スプリンターズステークス&欠如の評価

2022-10-02 18:53:50 | 中央競馬
 第56回スプリンターズステークス
 やや発馬が悪かったテイエムスパーダが内からそのまま上昇していってハナへ。ファストフォースが追っていき,この2頭で一時的に4馬身くらいのリードを取りました。3番手がジャンダルム。4番手にダイアトニック。5番手にナムラクレアとメイケイエール。6番手にメイショウミモザとウインマーベルとヴェントヴォーチェ。1馬身半差でエイティーンガール。11番手にトゥラヴェスーラとシュネルマイスター。2馬身差でナランフレグとタイセイビジョン。2馬身差でマリアズハート。2馬身差の最後尾にラヴィングアンサー。前半の600mは32秒7の超ハイペース。
 3コーナーを回ると内からジャンダルムが前の2頭との差を詰めていき,直線の入口ではテイエムスパーダとファストフォースの間に進路を選択。ジャンダルムはそのまま内のテイエムスパーダを差して抜け出すと,フィニッシュまで粘り切って優勝。勝ち馬を追うように上がってきたのがダイアトニックで,ファストフォースの外から大外を追い上げてきたのがナムラクレア。ダイアトニックの外から伸びたウインマーベルがクビ差まで迫って2着。ウインマーベルとナムラクレアの間を後方からよく追い込んだナランフレグが4分の3馬身差で3着。ダイアトニックがクビ差の4着でナムラクレアがアタマ差で5着。
 優勝したジャンダルムはオーシャンステークス以来の勝利。重賞は3勝目で大レースは初制覇。3歳春まではクラシック路線を走り,それ以降5歳まではマイル路線。6歳になってスプリント路線に転向して7歳の秋に大レース制覇を達成。回り道をした感はありますが,それぞれの路線でそれなりの結果を残していたのですから,素質は高い馬だったということでしょう。僕はもう少し早いタイムでの決着になると思っていたのですが,それほどでもありませんでした。その点はこの馬にも幸いしたでしょうし,レース自体が波乱の結果になった要因でもあったでしょう。これは現状はこの路線で能力的に抜けた馬が存在していないということの裏返しといえます。母は2003年にJRA最優秀4歳以上牝馬に選出され,第36回を制覇しているビリーヴで母仔制覇。祖母はグレートクリスティーヌ。Gendarmeはアイガーという山の絶壁の名称。
 騎乗した荻野極騎手はデビューから6年半で大レース初勝利。管理している池江泰寿調教師は2019年の大阪杯以来となる大レース22勝目。スプリンターズステークスは初勝利。

 スピノザの哲学は主体subjectumという概念notioを必要としません。もっといえば,主体という概念は自然Naturaのうちに実在しないとスピノザは主張しているのです。いい換えれば主体という概念は,哲学を説明するための理性の有entia rationisであるか,そうでなければ僕たちがそうしたものがあると思い込んでいるにすぎないものです。だから僕はこれまで,スピノザのこの考え方を説明するときは,主体の排除といっていたのであり,主体の欠如といういい方はしてきませんでした。主体が欠如しているというなら,それはスピノザの哲学に対する否定的な表現にみえるかもしれませんが,主体を排除しているとか主体が排除されているというなら,スピノザが積極的にそのようにしているという表現にみえるだろうと僕は思っているのです。今回の考察で主体の欠如といういい方をしたのは,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelからみたときのスピノザの哲学を説明するための語用であり,僕がそれを否定的に解しているわけではないという点は注意しておいてください。
                                   
 ヘーゲルは,スピノザの哲学に主体の欠如をみたために,そこに主体という概念を取り入れるべく弁証法を方法論として用いたのです。スピノザは主体という概念をそもそも必要としていなかったのですから,そのための弁証法もまた不要です。このように考えれば,スピノザの哲学が弁証法を欠いているのは当然といえるでしょう。つまり確かに三木がいうように,スピノザの哲学には弁証法は欠けているのです。ここで欠けているというのも,それは欠如という否定negatioを意味しているのではなく,最初からスピノザは弁証法を排除しているというように僕は理解している点に留意してください。そもそもこのような形で欠如というのであれば,スピノザの哲学にはあるけれどもヘーゲルの哲学には欠如しているというものも明らかにあるのであって,単にそのことだけでヘーゲルの哲学を否定するnegareことができないのと同じように,ヘーゲルの哲学のうちにはあるけれどもスピノザの哲学には欠如しているものがあったとしても,それだけでスピノザの哲学を否定することはできません。肯定affirmatioとか否定は,欠如そのものにあるのではなく,欠如の評価のうちにあるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする