『『こころ』の真相』で読解されているKの動揺の理由が正しかったとしたら,背中を押してもらうために先生にKが話す条件は,先生とふたりきりの場でした。だからKは先生に図書館で声は掛けたもののそこでは話さず,外に連れ出してから話し始めたのです。これは自然にみえますが,ひとつだけ不思議な点が含まれていると僕は感じました。

Kはできる限り早く先生に話したかった筈です。だからたぶんKはその前に先生を探していた筈です。下二十六の冒頭で,先生とKは科は同じでも専攻は違い,登下校の時刻に違いがあったと書かれていますから,このときもおそらくKは自分の授業の終了後に先生を探したのです。そして図書館で先生を見つけたことになります。ということはKは先生を図書館に探しに行ったことになります。でもこれが不思議に僕には感じられるのです。
下四十の冒頭で先生は,久しぶりに学校の図書館に入ったと書いています。この後でKが先生を探し出し,自身の恋に対する先生の批評を求めるのです。ところが先生は久しぶりに図書館に入った,つまり普段は図書館に行く学生ではなかったのです。でもKはあたかもそこに先生がいるのが当然であるかのように先生を発見し,声を掛けています。
先生は長男の悲劇を味わいましたが,経済的には余裕があり,自分が必要とする書籍は買い求めることができました。下十七の冒頭には,先生が書物ばかりを買うのを見た奥さんが,着物を拵えろと説得する場面があります。Kは同居していたのですから,先生が多くの本を所有していることは知っていたでしょう。一方で次男の悲劇を味わったKは,書物を買う余裕はなかった筈で,必然的に図書館の利用頻度は先生より高かったでしょう。これらのことを勘案すれば,先生が滅多に図書館には行かないことをKは知っていたという解釈が成立すると思います。
なのにKは先生を図書館で探し当てたのです。そこにはたぶん,先生からみたら分からない事情が含まれていたと僕はみます。
不安あるいは恐怖metusという感情affectusは,確かに第四部定理五四備考にあるように,その感情を抱く当人にとって,またその当人の近くで生活を送る人ひいては人類全体にとって害悪よりも利益を齎してくれる場合があります。とはいえそれはその感情を抱くのが,第四部定理七〇のいい方に倣うなら無知の人である場合であり,自由の人homo liberはそのような感情に依拠せずとも人類全体に害悪は何も齎すことはありませんし,利益だけを齎すでしょう。これはちょうど,第四部定理五〇にあるように,理性ratioに従う人つまり自由の人にとっては憐憫commiseratioがそれ自体で悪malumであり,かつ無用であるといわれているのと同じことです。不安についてもこれと同じことが妥当します。すなわち自由の人にとっては不安あるいは恐怖という感情は,それ自体で悪であるしまた無用であるのです。
したがって,不安あるいは恐怖という感情に強いられて善行をなしたとしても,それは自由の人として,いい換えればスピノザとともに善行をなしたことにはなりません。このことは第四部定理六三が明らかにしています。すでにいったように,自由の人として実践するということがスピノザの哲学における実践の規準のひとつであるのですから,こうした善行はたとえ人びとに利益を齎すのだとしても,ことばの真の意味において実践であるとはいえません。そして同時に,よって自由の人は,たとえそれによって利益が齎されることを確知しているのだとしても,不安あるいは恐怖を与えることによって人びとを善行に強いるようなことも避けなければならないことになります。いい換えればそれは自由の人がなす実践とはいえません。第四部定理六三備考では次のようにいわれています。
「徳を教えるよりも欠点を非難することを心得,また人々を理性によって導く代りに恐怖によって抑えつけて徳を愛するよりも悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは,他の人々を自分たちと同様に不幸にしようとしているのにほかならない」。
おそらくスピノザはここで迷信家ということで,ある種の宗教的指導者を仄めかそうとしているのだと僕は思います。スピノザは実際にこの種の害悪を経験しているからです。

Kはできる限り早く先生に話したかった筈です。だからたぶんKはその前に先生を探していた筈です。下二十六の冒頭で,先生とKは科は同じでも専攻は違い,登下校の時刻に違いがあったと書かれていますから,このときもおそらくKは自分の授業の終了後に先生を探したのです。そして図書館で先生を見つけたことになります。ということはKは先生を図書館に探しに行ったことになります。でもこれが不思議に僕には感じられるのです。
下四十の冒頭で先生は,久しぶりに学校の図書館に入ったと書いています。この後でKが先生を探し出し,自身の恋に対する先生の批評を求めるのです。ところが先生は久しぶりに図書館に入った,つまり普段は図書館に行く学生ではなかったのです。でもKはあたかもそこに先生がいるのが当然であるかのように先生を発見し,声を掛けています。
先生は長男の悲劇を味わいましたが,経済的には余裕があり,自分が必要とする書籍は買い求めることができました。下十七の冒頭には,先生が書物ばかりを買うのを見た奥さんが,着物を拵えろと説得する場面があります。Kは同居していたのですから,先生が多くの本を所有していることは知っていたでしょう。一方で次男の悲劇を味わったKは,書物を買う余裕はなかった筈で,必然的に図書館の利用頻度は先生より高かったでしょう。これらのことを勘案すれば,先生が滅多に図書館には行かないことをKは知っていたという解釈が成立すると思います。
なのにKは先生を図書館で探し当てたのです。そこにはたぶん,先生からみたら分からない事情が含まれていたと僕はみます。
不安あるいは恐怖metusという感情affectusは,確かに第四部定理五四備考にあるように,その感情を抱く当人にとって,またその当人の近くで生活を送る人ひいては人類全体にとって害悪よりも利益を齎してくれる場合があります。とはいえそれはその感情を抱くのが,第四部定理七〇のいい方に倣うなら無知の人である場合であり,自由の人homo liberはそのような感情に依拠せずとも人類全体に害悪は何も齎すことはありませんし,利益だけを齎すでしょう。これはちょうど,第四部定理五〇にあるように,理性ratioに従う人つまり自由の人にとっては憐憫commiseratioがそれ自体で悪malumであり,かつ無用であるといわれているのと同じことです。不安についてもこれと同じことが妥当します。すなわち自由の人にとっては不安あるいは恐怖という感情は,それ自体で悪であるしまた無用であるのです。
したがって,不安あるいは恐怖という感情に強いられて善行をなしたとしても,それは自由の人として,いい換えればスピノザとともに善行をなしたことにはなりません。このことは第四部定理六三が明らかにしています。すでにいったように,自由の人として実践するということがスピノザの哲学における実践の規準のひとつであるのですから,こうした善行はたとえ人びとに利益を齎すのだとしても,ことばの真の意味において実践であるとはいえません。そして同時に,よって自由の人は,たとえそれによって利益が齎されることを確知しているのだとしても,不安あるいは恐怖を与えることによって人びとを善行に強いるようなことも避けなければならないことになります。いい換えればそれは自由の人がなす実践とはいえません。第四部定理六三備考では次のようにいわれています。
「徳を教えるよりも欠点を非難することを心得,また人々を理性によって導く代りに恐怖によって抑えつけて徳を愛するよりも悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは,他の人々を自分たちと同様に不幸にしようとしているのにほかならない」。
おそらくスピノザはここで迷信家ということで,ある種の宗教的指導者を仄めかそうとしているのだと僕は思います。スピノザは実際にこの種の害悪を経験しているからです。