スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

蒲生氏郷杯王座競輪&不安の除去の肯定

2018-01-28 18:54:14 | 競輪
 松阪記念の決勝。並びは早坂に小倉,山中‐根田‐岡村の南関東,高橋‐坂口の中部,村上‐稲川の近畿。
 小倉がスタートを取って早坂の前受け。3番手に高橋,5番手に村上,7番手に山中で周回。残り2周のホームで村上から上昇。早坂を叩くと村上の動きに乗った山中がコーナーで村上を叩き,そのままペースを落とさずに早めのかまし先行となって打鐘。4番手に村上,6番手に高橋,8番手に早坂の一列棒状に。根田はホームから山中との車間を開け始め,バックに入って番手発進を敢行。村上は最終コーナーにかけて捲り上げていきましたが一杯。根田の番手から岡村が出ましたが,村上マークの稲川が直線の入口にかけてうまく内を回り,直線では岡村の外から差し込んで優勝。岡村が4分の1車輪差で2着。展開的には絶好も末を欠いた根田が4分の3車輪差の3着。
 優勝した大阪の稲川翔選手は昨年11月に防府のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年4月の川崎記念以来の2勝目。このレースは山中が捨て身で駆けられるのかどうかがひとつの鍵で,そうなれば根田が有利。ただ山中はそう多く先行する選手でもないので,山中や,先輩に前を任せた根田に躊躇があれば,必ず脚を使う村上がその間隙を突き,近畿勢の優勝争いになることもあり得ると予想していました。山中はきちんと駆けたのですが,ほかのラインの中では最も力がある村上が4番手を回るような駆け方になりました。ただ駆けるだけでは十分ではなく,ほかのラインが4番手になるような駆け方をしなかったのが,南関東勢の敗因となったように思います。稲川はほとんど脚を使う場面がありませんでしたから,展開的には厳しそうでも意外と余裕があったのではないでしょうか。

 僕自身は,不安metusすなわち恐怖metusを希望spesによって打ち消すことを,全面的には否定しません。そしてそれは,人間の現実的本性actualis essentiaがそのようになっているという消極的な理由,それは仕方ないことであるという理由からではありません。もちろんそれも理由になり得ないとは考えないので,その理由だけではないといった方がいいかもしれません。
 喜びlaetitiaは小なる完全性perfectioから大なる完全性への移行transitioで,悲しみtristitiaは大なる完全性から小なる完全性への移行です。僕はただこれだけのことから,同じ受動状態にあるのであれば,悲しみに沈んでいるより喜びに浸っている方がまだましであると考えます。このゆえに,不安に苛まれているくらいなら希望に満ち溢れている方がまだましと考えるのです。よって不安すなわち恐怖を希望によって打ち消してしまうことを,まだましという理由によって肯定します。ただし,これを全面的に肯定するためには条件が必要とされます。逆にその条件が整っているのであれば,こうして不安から逃れる方法は,スピノザの哲学における生活の指針のひとつに数え上げてもよいと思います。
                                
 たとえばある棋士がいて,この棋士が次の対局に負けてしまうのではないかという不安すなわち恐怖に強く襲われていると仮定しましょう。このときこの棋士が,不安と希望が表裏一体であるということ,すなわち第三部定理五〇備考でいわれていることに思いをいたし,そんなに強い不安を感じているということは,逆にいえば自分にはそれだけ大きな希望があるということではないかと思ってその不安を打ち消すことに成功するなら,僕はこの棋士の思惟作用を肯定します。
 同時にこのとき,その棋士が,それは大きな希望であるということ,すなわち第三部諸感情の定義一二により,それが不確実な事柄に対する喜びであるということを認識しているなら,僕はこの思惟作用を全面的に肯定します。すなわち僕は,人間が希望によって不安すなわち恐怖を除去するときに,同時にそれが不確実なことであるということを知っているなら,それを全面的に肯定するのです。これは第二部定理一七備考で,表象imaginatioが長所といわれる場合に合致すると考えるからです。
コメント
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