スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

Kの動揺&第一部定理八備考二

2017-08-13 19:14:10 | 歌・小説
 『『こころ』の真相』の中の読解のうち,僕にとって新鮮であったのは,下の四十から四十二にかけての,先生とKの対話の部分でした。ここはKが自身のに対する恋心をどうするべきであるかを先生に相談し,先生が「精神的に向上心のないものは,馬鹿だ」という有名なセリフを言って,Kの恋愛を否定する場面です。否定されたKは激しく動揺するのですが,この動揺の理由についての読解が優れていると僕には感じられました。
                                     
 このときに先生がKに言ったことばというのは,下の三十で,ふたりが房州を旅行していたときにKが先生に対して言ったことばそのものです。先生はこのことばを静と関連させて理解していました。つまり静に恋愛感情を抱いている先生は馬鹿だと,Kは言っていると先生は思い込んでいました。これはたぶん先生の思い込みにすぎなかったと僕は解しますが,このときにKに対してそっくりそのまま同じことばを返したのは,先生にとっては自然な反応だったと思えます。
 このゆえに,この部分のテクストは,かつて自分が先生に対して言ったことばがそのまま自分に妥当しているということに気付いたKがひどく動揺したと解するのが普通だと思います。ところが柳澤は動揺の理由はそこにあったのではないと解しています。Kは先生に相談したのだけれども,先生はKの静に対する恋愛を応援してくれるものだと確信していて,その先生の応援で背中を押してもらい,その恋をさらに先に進めよう,すなわち静にも自分の心を打ち明けようとしていたのだけれも,意外にも先生は応援するどころかそれを否定したので,そのことに驚いて動揺してしまったのだというのがおおよその柳澤の読解です。
 ここでは詳しく説明しませんが,柳澤は確かにKが,先生は自分の恋を応援してくれているという確信を抱いてしまうということをテクストから示しています。なのでこの解釈にも妥当性があると僕は考えます。すると,その直前の部分も違った読み方ができそうです。

 僕はかつて第三部定理七の意味を,現実的に存在する人間だけに適用して示したことがありました。そのとき,人間の現実的本性actualis essentiaと人間の本性natura humanaは同じではないという意味のことをいっています。河井が示した関心は,その点と関連しています。ただ,僕は関心を抱くべき材料がそこにあるということを,『スピノザ哲学論攷』の当該箇所を読むまで気付かなかったということです。
 スピノザは第一部定理八備考二の中で,次のようにいっています。
 「すべて本性を同じくする多数の個体が存在しうるような物は,その存在のために,必然的に外部の原因を持たなければならぬのである」。
 スピノザはこれとほぼ同じことを,フッデJohann Huddeに宛てた書簡三十四の中でいっています。この書簡は1666年1月7日付です。そのときにすでに第一部定理八備考二は完成していて,そのままフッデ宛の書簡に援用したのかもしれません。しかし可能性としては,フッデからの哲学的な質問を受け,その疑問を解消するために書簡三十四を先に書いて,その書簡の内容を『エチカ』の中の適切な場所に組み入れたということもあり得ます。もしそうであったとしたら,フッデとの哲学的対話は,スピノザにとってとても有益であったということができるでしょう。
 ここではまず,備考Scholiumおよび書簡で示されているこの事柄が,なぜ正しいのかを検証しておきます。
 まず第一部公理三により,原因causaが与えられれば必然的にnecessario結果effectusが生じます。これに対して原因が何も与えられないのなら,結果が生じることは不可能です。すなわち同一本性を有する多数のものが存在するのは必然と不可能のどちらかでしかあり得ません。ただしここではそうしたものが存在すると仮定されているので,それは不可能な場合ではなく必然である場合です。
 次に,その原因というのは,それ自身のうちにあるesse in seかそれともそれ自身の外部にあるかのどちらかでなければなりません。これは自明といっていいでしょう。スピノザがいっているのは,この場合にはそれは外部でしかあり得ないということです。そしてそのことは,その原因がそれ自身のうちにはあり得ないという背理法によって証明できます。
コメント
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