スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&悲しみの種別化

2018-01-15 19:25:27 | 将棋
 岡田美術館で指された昨日の第44期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が8勝,伊藤沙恵女流二段が3勝。
 岡田美術館の館長による振駒で伊藤二段の先手。里見名人の三間飛車に対して先手が向飛車の相振飛車。先手が陣形を整備している間に後手が積極的に動いていく将棋になりました。
                                     
 後手の銀がすでに4五まで進出しているのが珍しい形。さらにここで☖1五歩と仕掛けていきました。
 部分的にいうとこれは☗同歩☖同香☗1六歩☖同香☗同香☖1五歩というのが定跡。ただしこの場合は対抗形ではないので攻めと守りの香車がスムーズに交換できれば後手が有利。なので☗同歩☖同香に☗1七歩としっかり受けました。
 後手は☖1三桂で桂馬を使いにいきます。先手は☗2六歩でそれを阻止。後手は初志貫徹で☖2四歩。先手は☗6八角と引きました。後手は継続の☖2五歩。
 ここで☗1六歩と突きましたがこれがいきなり敗着という結論になっています。。角を引いた以上は☗5六歩が継続手で,そう指すべきであったとのことです。
 ☖2六歩☗1五歩☖2五桂と進みました。
                                     
 後手が1筋から仕掛けたのは,香車の交換を目指しただけでなく,一歩を入手することと,端に手を付けておくことで攻めのバリエーションを増加させることも狙いでした。第2図は先手の香得なのですが,端は自ら弱くしてしまっているので,後手の狙いに対抗できるだけの代償とはなっていなかったようです。後手の積極策にうまく対応できず,先手としては不本意な一局だったのではないでしょうか。
 里見名人が先勝。第二局は28日です。

 憐憫commiseratioによって他人を援助しようと欲しない人間が存在するということが非現実的であるのと同じように,憐憫だけを感じることで他人を援助するということだけを欲するという人間が存在するというのも非現実的です。ただ,このことから分かるように,憐憫という感情affectusはそれ自体でみれば,他人を援助するように,いい換えれば他人と連帯し融和的に生活するように人間を動かす感情なのであって,排他的感情とは一線を画します。したがって憐憫によって,それ自体で排他的思想が産出されるということもないのです。
 自由の人homo liberであるということは実践の規準のひとつでしたから,他人を援助しまた他人と連帯し,すべての人びとと融和のうちに生活を送るということは,実践としては理性的になされねばなりません。憐憫という感情に動かされてもこの限りでの行動は自由の人と同じであるのだとしても,それはスピノザが目指す実践と程遠いものです。僕たちはスピノザとともに援助し,連帯し,融和しなければならないのであって,スピノザなしに援助し,連帯し,融和しても意味はないのです。
 ただ,憐憫という感情のありようは,自由の人に次にことをも教えてくれます。
 僕は排他的思想の持ち主は,悲しみtristitiaに隷属している人間であるといいました。しかし間違えてはいけないのは,悲しみに従属しているからといって,必ずしもその人間が排他的感情を有し,そうした観念の観念idea ideaeによって排他的思想を産出しているというわけではないということです。憐憫は第三部諸感情の定義一八にあるように,悲しみの一種であり,このために第四部定理八によって理性ratioに従う人にとっては悪malumなのです。ですがこの悲しみは排他的思想をそれ自体で産出するような悲しみではありません。むしろそれ自体でみれば,排他的思想とは対立的であるような悲しみなのです。つまり,すべての悲しみが排他的思想の根源となるわけではありません。むしろ,悲しみのうちにも,容易に排他的思想を産出するような悲しみもあれば,憐憫のようにそれ自体ではけして排他的思想を産出しない悲しみもあるのです。よって自由の人は,悲しみを種別化して見極める必要があります。
コメント
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