スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第五部定理二九証明&第三部定理二七系三

2018-01-13 19:23:47 | 哲学
 第五部定理二九を証明しておきます。
                                
 精神mensが何らかのものを現実的に存在すると認識するのは,第二部定理二六の様式を通してのみです。このとき身体の変状corporis affectiones,affectiones corporisすなわち身体の刺激状態の観念ideaというのは,その身体が現実的に存在するときにのみ発生する刺激状態の観念であるのですから,精神は自分の身体が現実的に存在すると認識する限りでその他のものも現実的に存在すると認識することが可能であることになります。
 現実的に存在するというのは,一定の持続duratioのうちに存在する,あるいは一定の持続のうちに存在しているという意味です。したがって第一部定義八により,この様式では何かの永遠性aeternitasを説明するということはできません。他面からいえばものの永遠性を認識するということはできないのです。よって第二部定理八系で示されている個物の存在のふたつの様式のうち,自分の身体が時間的に持続するdurare限りで存在するといわれる場合で自分の身体を認識する限りでは,精神は何ものをも永遠の相species aeternitatisの下で認識するということができません。よってもしも現実的に存在する人間の精神が何であれものを永遠の相の下に認識するのは,自分の身体が神Deusの属性attributumの中に包容される限りで存在するといわれる場合の自分の身体を認識する限りにおいてでなければなりません。これで論理的には証明されていますが,まだ現実的とはいえません。というのは精神がそのように自分の身体を認識することができるということはここには含まれていないからです。
 しかしそれはふたつの仕方によって可能です。第一に,第二種の認識cognitio secundi generisにおいては,第二部定理四四系二により,ものを永遠の相の下に認識することが理性の本性natura Rationisに属するので,自分の身体の本性を永遠の相の下に認識することも理性の本性に属していると考えられなければなりません。第二に,第三種の認識cognitio tertii generisにおいては,第五部定理二三にあるような「あるものaliquid」として精神は自分の身体の本性を永遠の相の下に認識するからです。よって精神は身体の本性を永遠の相の下に考えることによってすべてのものを永遠の相の下に認識するのであり,かつそのことは現実的に存在する人間にとって可能なのです。

 Aという人間が現実的に存在して,Bという人間に憐憫commiseratioという悲しみtristitiaを感じたのであれば,Aはその悲しみを除去するために,Bの悲しみを除去しようとします。というのは,AのBに対する憐憫という感情affectusは,悲しんでいるBの表象像imagoを伴っているのであって,この表象像は,第二部定理一七により,それを排除する別の表象像がAのうちに生じない限り,Aのうちから排除されることがないからです。もちろんそのためにAは,Bの悲しみとはまるで関係のない別の事柄を表象するimaginariという場合もあるでしょう。見て見ぬふりをする,というのは概ねこのような状態のことを意味していると考えて差し支えありません。ただ,第二部定理一七系により,Aは悲しんでいるBのことを後に想起するということはあるのであり,これは根本的な解決方法にはなりません。悲しんでいるBの表象像をAのうちから完全に排除できる表象像というのは,もはやそのことによって悲しむことがないBの表象像以外にはあり得ないのです。これでみれば分かるように,見て見ぬふりをすることは一時的な解決方法でしかありません。よってAの現実的本性actualis essentiaは,第三部定理一三系により,悲しんでいるBを表象することを厭うがゆえに,Bの悲しみそれ自体を除去する方向へと向かうのです。少なくともそのような欲望cupiditasを有するのです。
 つまり,他者に憐憫を感じている人間は,自身の悲しみを避けたいがために,相手の悲しみを除去しようとすることになります。これが憐憫という感情の特質proprietasなのであり,この特質が,人間をして他者との連帯あるいは融和に向かわせるのです。このことを一般的に示しているのが第三部定理二七系三です。
 「我々は我々の憐れむものをできるだけその不幸から脱せしめようと努めるであろう」。
 すでにいったように,僕たちは憐憫を感ずる限りでは,憐憫を感じている相手の不幸の原因となっているものを憎むということがあります。ですからその限りではむしろ連帯や融和よりも排除を助長するでしょう。しかしもしも,これは非現実的な仮定ですが,僕たちがすべての人間に憐憫だけを感じるとしたら,融和と連帯だけが残存することになります。
コメント
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