スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理五〇&分解と生成

2016-07-17 19:03:20 | 哲学
 スピノザはバリングPieter Ballingに送った書簡十七の中で,人が感覚する前兆とか予兆について詳しく語っています。『エチカ』の中でこれと最も関連するのが第三部定理五〇です。
                                     
 「おのおのの物は偶然によって希望あるいは恐怖の原因であることができる」。
 岩波文庫版で恐怖と訳されているmetusを,僕は不安と訳すということは再三いっている通りです。ですからこの定理はこのブログの表記だと,どんなものも偶然に希望や不安の原因となり得るということになります。
 どうしてこのようなことが起こり得るのかということの基本は,第二部定理一八にあります。この定理によって,僕たちはある表象像から別の表象像へと容易に移行するということ,いい換えればAを表象することによってBを連想するということがしばしば生じるということを理解します。このとき,Aは希望も不安も感じさせないような表象であったとしても,Bは希望なり不安なりを感じさせる表象であるという可能性はあり得ます。しかるにこの人はAを表象すればBを連想するのですから,Aはそれ自体では希望の原因でも不安の原因ではないとしても,Bを連想させる限りでは希望または不安の原因であることになります。かくしてこの人にとってAは,偶然によって希望または不安の原因となるのです。
 バリングは自身が表象した泣き声,おそらくそれは空耳ですが,その表象像から自分の子どもの死の表象像を連想しました。このためにバリングにとって空耳の表象像は,偶然によってバリングの不安の原因になったといえます。他面からいえば,その泣き声から自身の子どもの死を連想しなかったなら,バリングにとって空耳の表象は,バリングに不安も希望も感じさせないような表象であったといえるでしょう。

 現実的に存在する硝石といわれる物体にある外部の原因が与えられることによって,その物体の運動と静止の割合が破壊され,いい換えるならその特定の有機的結合を果たしている運動と静止の割合に変化がもたらされるなら,その物体はもはや硝石といわれる物体としては現実的に存在し得なくなります。ただしそれは,物体が存在しなくなるという意味ではあり得ません。物体は物体として存在し続けるけれども,硝石といわれる固有の物体としては存在し得なくなるという意味です。よってこの場合には,硝石といわれる物体とは異なった運動と静止の割合を有する物体が存在するようになります。化学的にいえば,硝石が分解されるというのを,『エチカ』の哲学に基づいていうならこのように説明されるということです。
 『エチカ』では詳述されていないのですが,この現象から逆の場合も生じ得るといえます。すなわちある固有の運動と静止の割合を有するいくつかの物体に,外的な原因が与えられることにより,それらいくつかの物体が有機的に結合を果たす結果,硝石といわれる物体に固有の運動と静止の割合に変化するなら,それによって硝石の本性を有する物体が現実的に存在し始めるようになります。前の場合が硝石の分解を意味するのなら,こちらは硝石の生成を意味するといえるでしょう。
 このようにして,『エチカ』では現実的に存在する硝石は分解され得るし,逆にいくつかの物体の有機的結合によって硝石が生成され得るということが是認されているといえます。このことからスピノザとロバート・ボイルRobert Boyleの間で交わされた硝石の本性に関する論争を探求した場合には,それに則したことをいっているのはボイルの方であって,スピノザはむしろそれに反駁しているように僕には思えます。なので,この当時のスピノザには,後に『エチカ』の自然学に示したような物体に関する見解というのが,確たるものとしては存在していなかったと思えるのです。そしてボイルは実際に硝石が分解されるということを実証しているといえるので,『エチカ』の見解はその分だけ実証主義的見解を取り入れているというように解することも可能と思うのです。
コメント
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