横浜で指された昨日の第62期王座戦五番勝負第五局。
振駒で羽生善治王座の先手。豊島将之七段の横歩取り。後手が早めに飛車交換を挑むも先手が拒否。持久戦になり,先手が矢倉,後手が中飛車で美濃囲いのような戦型。戦闘開始までは後手の模様がよかったと思いますが,中盤では先手が盛り返し,一時的には非常に大きなリードを奪っていたと思います。ただ,性急に決めにいったのが裏目となり,後手にも勝ち目がありそうな最終盤の争いへと展開しました。
部分的には受からない詰めろですが,△9八飛▲8八桂△9三飛成と抜く手があります。先手の感想では,この局面では勝ちかどうか怪しいとのこと。▲9三同飛成はこれしかなく,△8二銀の受けに▲同龍と取ってしまい,△同玉と進めました。
ここからの手順は▲9一銀△同玉▲9三歩△8二玉▲9ニ歩成△同玉▲9四歩△8二玉▲9三歩成△7一玉▲9一飛。後手はすべて必然の応手。先手は銀を捨ててから歩で迫るという手順でしたが,第2図で▲9三銀と打てば,△同玉はないので△7一玉よりなく,実戦の手順は大きく損をしていたことになります。実戦の手順を読んで,銀を9一でなく9三に打つ手に気付かないというのはとても不思議な気がしました。
ここで△5一金寄だったので▲5四香で受けに窮することに。△5二金上の方が難解で,厳密には先手の勝ちらしいのですが,そこまでの流れからいえば逆転まであったかもしれません。最後の二拓で間違えるのは現状の力ですから仕方ありませんが,頑張ってかなりのところまで差を詰めただけに,豊島七段としては惜しい一手であったと思います。
3勝2敗で羽生王座の防衛。第40期に初の王座に就くと41,42,43,44,45,46,47,48,49,50,51,52,53,54,55,56,57,58期まで一九連覇。60期に復位して61期に続く三連覇で通算22期目の王座です。
僕の精神的変調の主要因となった悲しみは,これですべてです。ここからまた一般的な記述を導入します。
第四部定理四系から明らかなように,人間は受動に隷属することから逃れることができません。第三部定理五九から分かるように,悲しみは人間の受動だけに関係します。したがって,人間は現実的に存在している限り,いくらかの悲しみから逃れるということは不可能です。他面からいえば,悲しみと遭遇せずに生きていくということは,人間にとって不可能です。
こんなことはだれでも経験的によく知っていることですから,改めて論理的に説明するまでもありません。しかし僕がここであえてそのようにしたのは,このことから,生きていくときの指針とでもいうべきものが発生してくるからです。
悲しみは必然的に受動ですから,これを精神とだけ関係させて説明すれば,混乱した観念だけが関連して,精神の能動に属する十全な観念は無関係であることになります。だから,混乱して認識している事柄を,十全に認識すればよいのかといえば,実はそうではありません。これはスピノザ哲学の指針にはなり得ないのです。なぜなら,第四部定理一が示しているように,真なるものが真であるということだけでは,虚偽は消滅しないからです。別のいい方をするなら,Xの混乱した観念がある人間の精神の現実的有の一部を構成しているとき,この同じ人間が,Xを十全に認識したというだけでは,Xの混乱した観念は,Xの精神の現実的有のうちから除去されません。つまり同じ人間の精神のうちに,Xの十全な観念とXの混乱した観念が,一般的な意味において同時に存在し得るのです。
このことは,混乱した観念は混乱しているので,それを認識する知性の本性を十全には説明しないけれども,本性を含んでいる観念であるということに関係します。ごく簡単にいえば,悲しみは実在性,すなわち力という観点からみた本性が,より大なる状態からより小なる状態へ移行することですが,それでも実在性であるという点に変りはありません。人間が悲しみを感じる場合にも,そこには自分の本性が,部分的ではあっても必ず含まれているのです。
振駒で羽生善治王座の先手。豊島将之七段の横歩取り。後手が早めに飛車交換を挑むも先手が拒否。持久戦になり,先手が矢倉,後手が中飛車で美濃囲いのような戦型。戦闘開始までは後手の模様がよかったと思いますが,中盤では先手が盛り返し,一時的には非常に大きなリードを奪っていたと思います。ただ,性急に決めにいったのが裏目となり,後手にも勝ち目がありそうな最終盤の争いへと展開しました。
部分的には受からない詰めろですが,△9八飛▲8八桂△9三飛成と抜く手があります。先手の感想では,この局面では勝ちかどうか怪しいとのこと。▲9三同飛成はこれしかなく,△8二銀の受けに▲同龍と取ってしまい,△同玉と進めました。
ここからの手順は▲9一銀△同玉▲9三歩△8二玉▲9ニ歩成△同玉▲9四歩△8二玉▲9三歩成△7一玉▲9一飛。後手はすべて必然の応手。先手は銀を捨ててから歩で迫るという手順でしたが,第2図で▲9三銀と打てば,△同玉はないので△7一玉よりなく,実戦の手順は大きく損をしていたことになります。実戦の手順を読んで,銀を9一でなく9三に打つ手に気付かないというのはとても不思議な気がしました。
ここで△5一金寄だったので▲5四香で受けに窮することに。△5二金上の方が難解で,厳密には先手の勝ちらしいのですが,そこまでの流れからいえば逆転まであったかもしれません。最後の二拓で間違えるのは現状の力ですから仕方ありませんが,頑張ってかなりのところまで差を詰めただけに,豊島七段としては惜しい一手であったと思います。
3勝2敗で羽生王座の防衛。第40期に初の王座に就くと41,42,43,44,45,46,47,48,49,50,51,52,53,54,55,56,57,58期まで一九連覇。60期に復位して61期に続く三連覇で通算22期目の王座です。
僕の精神的変調の主要因となった悲しみは,これですべてです。ここからまた一般的な記述を導入します。
第四部定理四系から明らかなように,人間は受動に隷属することから逃れることができません。第三部定理五九から分かるように,悲しみは人間の受動だけに関係します。したがって,人間は現実的に存在している限り,いくらかの悲しみから逃れるということは不可能です。他面からいえば,悲しみと遭遇せずに生きていくということは,人間にとって不可能です。
こんなことはだれでも経験的によく知っていることですから,改めて論理的に説明するまでもありません。しかし僕がここであえてそのようにしたのは,このことから,生きていくときの指針とでもいうべきものが発生してくるからです。
悲しみは必然的に受動ですから,これを精神とだけ関係させて説明すれば,混乱した観念だけが関連して,精神の能動に属する十全な観念は無関係であることになります。だから,混乱して認識している事柄を,十全に認識すればよいのかといえば,実はそうではありません。これはスピノザ哲学の指針にはなり得ないのです。なぜなら,第四部定理一が示しているように,真なるものが真であるということだけでは,虚偽は消滅しないからです。別のいい方をするなら,Xの混乱した観念がある人間の精神の現実的有の一部を構成しているとき,この同じ人間が,Xを十全に認識したというだけでは,Xの混乱した観念は,Xの精神の現実的有のうちから除去されません。つまり同じ人間の精神のうちに,Xの十全な観念とXの混乱した観念が,一般的な意味において同時に存在し得るのです。
このことは,混乱した観念は混乱しているので,それを認識する知性の本性を十全には説明しないけれども,本性を含んでいる観念であるということに関係します。ごく簡単にいえば,悲しみは実在性,すなわち力という観点からみた本性が,より大なる状態からより小なる状態へ移行することですが,それでも実在性であるという点に変りはありません。人間が悲しみを感じる場合にも,そこには自分の本性が,部分的ではあっても必ず含まれているのです。