スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&第三部定理四八

2014-10-25 19:34:04 | 将棋
 昨日の第45回新人王戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で阿部光瑠四段の先手で佐々木勇気五段が横歩取りへ。後手がうまく戦機を捉えた将棋であったようには思えます。
                         
 先手が反撃の飛車を打ち込んだ局面。後手はと金をうまく使いたいところ。△8八とを読んでうまくいかないので△8二銀と逃げたのですが,△7九とと使う手はあって,そう指すべきであったようです。先手は当然▲7ニ飛成。
 そこで△7六飛と打ったのですが,これは疑問で,△7三飛と下から打って千日手を狙いにいくべきであったよう。▲同龍△同角のとき,先手から▲8四角と打つ手があったためです。
 ここまで進むと△7三銀▲同角成△6六桂▲4八玉△7八桂成とするのは仕方ないように思います。そのときに先手は▲5一馬△同王▲7一飛と王手角取りを掛けました。
                         
 この角を取られて後手の攻めが細くなりました。しっかりと受けて駒を蓄えた先手が,最後は即詰みに討ち取って勝っています。
 阿部四段の優勝。棋戦初優勝です。

 人間の現実的本性から避けることができない悲しみとの遭遇に,どのように対処するのが適当なのでしょうか。その指針のヒントはいくつかあるのですが,第三部定理四八はそのひとつであると僕は考えます。
 「愛および憎しみ―例えばペテロに対する―は,憎しみが含む悲しみおよび愛が含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には消滅する。また両者[愛および憎しみ]は,ペテロがそのどちらかの感情[喜びあるいは悲しみ]の唯一の原因でなかったことを我々が表象する限りにおいて減少する」。
 愛は外部の原因の観念を含む喜びで,憎しみは外部の原因の観念を含む悲しみなのですから,この定理はきわめて当然のことをいっているにすぎません。喜びや悲しみの原因がペテロでなくパウロであったとしたら,ペテロへの愛はパウロへの愛へ変るでしょうし,ペテロへの憎しみはパウロへの憎しみに変ずるであろうからです。また,喜びや悲しみの原因が,ペテロだけでなくペテロとパウロのふたりであったとしたら,愛や憎しみの原因は分散されますから,ペテロへの愛は減少し,その分だけパウロへの愛が生じることになりますし,憎しみに関しても同様であるからです。
 ではなぜこれが指針のヒントになり得ると僕が考えるのかといえば,そこに原因の観念が含まれているからです。もちろん僕たちがある悲しみとの遭遇を経験したとき,その悲しみの原因としてAを表象したならば,これはAへの憎しみという,別の悲しみが発生してくるだけであって,悲しみを除去したり軽減したりできるわけではありません。また,念のためにいっておけば,この定理は愛,すなわち喜びに関しても,表象と結び付けられていますから,受動的な愛,受動的な喜びに関してのみいわれているのです。それでも,原因の観念が変化することによって,感情のありようが変ってくるということ,それが確かであるということは,この定理から明白になっているといえます。そしてこのことが,指針のヒントとなり得る要素を含んでいると僕は考えるのです。なぜなら,第一部公理三から,僕たちの悲しみとの遭遇にも,必然的な原因というものがあるからです。
コメント
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