スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&善悪の判断

2014-10-11 19:04:27 | 将棋
 8日の第45回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は佐々木勇気五段が1勝,阿部光瑠四段が0勝。
 振駒で阿部四段が先手。佐々木五段の横歩取り。後手が序盤に工夫を凝らしました。
                         
 この後手の構えは早い段階から強く戦うことを志向するもの。狙いは△2四飛とぶつけることですが,△9五歩とこちらの端の位も確保。先手の▲3六歩を見て△2四飛を決行しました。
 先手は飛車交換を避ける順もありますが,気合不足の感もあるので▲同飛と取りたいところ。当然△同角。
 この局面で▲2三歩と打ち,△同金なら▲3二飛と王手するのは部分的な手筋。ただこの場合は3六に飛車が成り返れないので,後手もその順にできます。つまり▲3六歩を見てから△2四飛とぶつけるのが工夫です。
 ▲2三歩はつまらないとみた先手は▲8四飛。このときに桂馬が取られないようになっているのが,第1図が後手が早い戦いを目指すことの根拠。それでも角取りは受ける必要があり,△2五飛と打つのが定跡のような手なのですが,△5一角と引きました。これが第二の工夫。
                         
 狙いは△7四歩~△7三角の転換。先手はこれを防ぐことができないので,その手順が実現しました。
 これは勝敗を決するような構想ではありませんが,この将棋の白眉であったと思います。将棋も後手が勝ちました。
 佐々木五段が先勝。第二局は17日です。

 単純に考えるならば,人間は喜びだけを追求し,すべての悲しみを忌避しようとするということになります。そして自己満足というのは最高の満足,いい換えれば最高の喜びですから,人間は自己満足を最も追求することになるでしょう。すると,部分的には悲しみを感じることがあったとしても,その結果として自己満足を得ることができるのであれば,人間はむしろその悲しみを忌避したりせず,むしろ追求するであろうということが帰結します。とりわけ理性から生じる自己満足は,人間が手にし得る最高の満足なのですから,とくに理性はこのように作用することになります。理性による認識は十全な認識です。つまり人間が理性によって自己満足を得ることができると認識したならば,確実にその自己満足を得ることができます。だから場合によっては理性は,自己満足を得る手段として,悲しみを感じることを肯定するのです。そして同じことが,理性的でない場合,受動的な場合にも成立することになるでしょう。僕が奇妙な事態といったのは,このことです。
 これは,善悪が事物に備わる属性ではなく,人間の精神のうちにのみ存在する思惟の様態であるということと関係します。このために,大きな悪を避けるための小さな悪は,悲しみをもたらしても善と認識され得ます。同様に大きな善を妨げる小さな善は,たとえ喜びをもたらすものであったとしても悪とみなされ得るのです。したがって,大きな善を入手する手段となるような小さな悪は,一時的な悲しみであったとしても善であると認識され得るということになるでしょう。同様に,もしも小さな善を得る結果として後に大きな悪に襲われなければならないのだとしたら,その小さな善というのは,一時的には喜びすなわち満足をもたらすものであったとしても,悪であると認識されることになります。
 ここまでは一般論です。いい換えればこれはだれにでも適用されます。しかし,具体的に何に自己満足を感じるのかということ,とりわけ自己満足の一種である名誉については,何を名誉と感じるのかということが,現実的に存在する諸個人によって異なります。そこで僕の名誉を説明します。
コメント
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