スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典ダイオライト記念&不可分性と可分性

2014-03-19 19:09:20 | 地方競馬
 力量差があまりにはっきりしていると感じられた第59回ダイオライト記念
 トウショウフリークの逃げは想定通り。大逃げも考えられたところですが,今日は抑えも効いたようで,直後にサミットストーン。ムスカテールとニホンピロアワーズがその後ろで併走。高知から遠征してきた2頭を除くと,それ以外の馬もほとんど集団といっていい隊列に。最初の1000mは62秒5で,それでもハイペースの部類でしょう。
 前にいた組ではムスカテールが3コーナーを過ぎたあたりから追走に手一杯。残る3頭は同じ隊列のまま直線に。3頭の最も外からニホンピロアワーズが伸び,逃げ粘るトウショウフリークを捕えて優勝。トウショウフリークが2馬身差で2着。3馬身差で流れ込んだサミットストーンが3着。これは健闘といえるでしょう。
 優勝したニホンピロアワーズは前々走の東海ステークス以来の重賞7勝目。ここは実績が断然で,取りこぼせないレースと思っていました。2番人気だったのは意外ですが,順当な優勝といえるでしょう。メンバー次第のところはありますが,大レース2勝目も狙えるだけの力がまだあるように思います。母の父はアドマイヤベガ。三代母がミルカレント
 騎乗したのは酒井学騎手,管理しているのは大橋勇樹調教師。共にダイオライト記念初勝利。

 デカルトが延長の属性を神の本性を構成する属性であると考えられなかったこと,いい換えれば物体的実体を神とは別の実体として措定したことの理由は,物体的であるものはどんなものであれ,少なくとも思惟によって分割可能であるからということでした。要するにデカルトは,物体的なものであれば,たとえそれが実体であったとしても,分割可能であると判断していたことになります。
 スピノザが延長の属性を神の本性を構成する無限に多くの属性のうちのひとつと考えることができたのは,いい換えれば物体的実体とは実体としてみれば神にほかならないと考えることができたのは,分割可能な属性であってもそれは神の本性を構成し得ると判断したのだからではありません。逆にたとえ物体的なものであっても,実体である限り,それは分割不可能であると理解したためです。おそらく同時代の思想家は,この点を正しく把握することが困難であったのだろうと思います。
 実体が分割不可能であるということは,第一部定理一三系が示していることですから,ここではもうそれ以上の説明は付しません。重要なのは,この系からはさらにひとつの帰結事項が生じてくるということです。
 第一部公理一の意味は,自然のうちには実体と様態だけが存在するということでした。そしてこのうち,実体はいかなるものでも分割不可能です。よって,もしもあるものが分割可能であったとすれば,それは様態であるということになります。けれども現実的に問題となるのは,ある種の形相的な意味で把握されるようなこの事柄ではありません。むしろ知性が客観的に可分的であるか不可分であるかを認識するという場合なのです。この帰結から理解できるように,もしも知性があるものを可分的であると認識したならば,知性はそのものを様態として認識しているということになります。ここにこの面でのスピノザのデカルト批判の中心があるといえます。つまりデカルトは物体的実体は分割可能であると主張していますが,スピノザからいわせればこれは,物体的実体を様態として把握しているということの証明にほかならないのです。つまりそれは実体の十全な認識ではありません。
コメント
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