スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑦-3&スピノザの意図

2014-03-10 19:01:03 | ポカと妙手etc
 有名な将棋の格言に両取り逃げるべからずというのがあります。⑦-2の第2図はまさにそんな局面。後手は△3九飛と打ち下ろしました。
                         
 王手ですから受ける一手。▲8八玉は怖いのでがっちりと▲6九銀。後手も桂馬を取って駒損を甘受する場面ではありませんから△7六歩と追撃。▲8八銀と壁の方に逃げました。すると今度は△4六歩。放置すると△4七歩成~△5八銀が生じるのでこれも受けるほかありません。▲5六銀と上がりました。そこで△5五歩。
                         
 ここで▲6七銀と逃げてしまうと△8四飛と浮かれて両取りが受かってしまいます。なので▲8二角成△5六歩と進むことになりました。
 それでも先手がリードしていることに変わりはないでしょう。ただ,前回の第2図のときに感じたほどの差がなかったことははっきりしたように思いました。

 最高に完全であるということがスピノザにとってなぜ神の定義の要件を満たしていないのかということは,スピノザが神は最高に完全であるということを導出するその論証過程のうちにすでに含まれています。スピノザは神が最高に完全であるということを,神が絶対に無限であるということから演繹的に導きます。つまり神の性質として,絶対に無限であるということが本性に該当し,最高に完全であるということは,その本性から帰結する特質であることになっているのです。定義は定義される事物の特質ではなく,本性を含まなければなりません。だから神の定義は,絶対に無限であるのでなければならず,最高に完全であってはならないのです。
 僕はこの部分には,スピノザの意図が見え隠れしているように感じていました。神が最高に完全であるという点で,デカルトとスピノザは一致するといいましたが,これはとくにこの両者の間での共通見解であるというよりは,神というものについての一般的な認識であったと思えます。つまりもしも神が存在するのであれば,それは最高に完全なものでなければならないということは,とくに証明されるべき事柄であるというよりは,むしろ暗黙の前提のような内容であったと思うのです。そしてそのゆえに,デカルトはこのことを神の定義とした,いい換えれば神の定義はそれで十分であると考えたと推測できるのです。
 スピノザはそれでは不十分であると考えたのですが,神が最高に完全であるという暗黙の前提に関しては,さすがにそれを否定することはできないとも考えたのではないかと僕は思うのです。そこで第二部定義六で完全性を実在性と等置し,神が最高に完全であるということを帰結させることを可能にしたのだろうと僕はやや漠然とですが把握していたのです。
                         
 しかし,河合徳治が展開している論述に出会い,その内容について改めて考えているうちに,ここの部分にスピノザの何らかの意図があったのだと理解するのであれば,これとは別の,もっとスケールの大きさで上回るような意図があったと理解するべきではないのかと思うに至りました。絶対に無限と,最高に完全との間には,決定的な亀裂があるからです。
コメント
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