スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羽生 「最善手」を見つけ出す思考法&差異の所在

2014-03-11 19:11:32 | 将棋トピック
 将棋関係の書籍も紹介していきましょう。ただ,僕は現在は指しませんので,入門書や詰将棋も含め,戦術に関する本は読みません。なのでそういった類の書籍の紹介はありません。また,このシリーズは敬称略でいきます。第1回は保坂和志の『羽生 「最善手」を見つけ出す思考法』です。
                         
 光文社知恵の森文庫の1冊。初版の発行は2007年6月。僕が所有しているのは翌月発行の第3刷。ただしこの本は,1997年に朝日出版社から発行された『羽生 21世紀の将棋』を文庫化したもの。それがすべて収録されている上に,文庫化にあたってのまえがきと茂木健一郎の解説も収録されていて,価格はこちらの方が安価です。まだ手にされていない方は,こちらの文庫本を購入することをお勧めします。
                         
 保坂の手法は,羽生の自戦記をテクストとして読解することによって,羽生の将棋観を明らかにすることです。ですから指し手の解説などはありません。文芸評論の方法に近いものであり,将棋関連の書籍としては際立った異色作といえるでしょう。解説の茂木は,これは「将棋の本」ではないと断言しているくらいです。
 保坂が注目する大きな点は,羽生の自戦記は事実の積み重ね,いい換えれば実際に指された手の集積を中継しているようではないということと,一読した限りでは羽生自身が先手か後手かが分かりにくいということです。保坂が出す結論についてはここでは明示しませんが,これらを手掛かりとして,羽生に独特といえる将棋観,あるいは勝負観を帰結させています。
 保坂の結論が正しいのかどうかはだれにも,おそらく羽生にすら分からないのではないかと僕は思います。ただ,シリーズの第一弾にこの本を選んだのは,少なくとも僕が読んだ将棋関連の書籍の中で,最も面白かったものは何かと問われたならば,迷わずにこの本をあげることができるようなものだからです。

 スピノザがデカルトの神の定義を認めないように,デカルトもまたスピノザの神の定義である第一部定義六を認めないであろうと僕は判断します。そしてデカルトがスピノザの神の定義を認めないということと,スピノザがデカルトの神の定義を認めないということの間には,意味の上で大きな差異があるだろうとも判断します。スピノザはただ,神が最高に完全であるということは,神の定義の要件を満たしていないというだけで,それが真理ではないとはいいません。しかしデカルトは,神が絶対に無限であるということは,認められないであろう,いい換えればそれを虚偽ないしは誤謬とみなすであろうと思われるからです。
 神が絶対に無限であるとしたら,少なくとも思惟によって認識し得る属性に関しては,そのすべてを神に帰す必要が生じます。ある特定の属性は神の本性を構成しないとするならば,そのことによって神が絶対に無限であることは不可能になるからです。そしてデカルトは物体的実体が存在するということは認めました。それはスピノザの哲学に翻訳したならば,延長の属性が存在することを認めているのと同じことだと僕は理解します。しかしデカルトは,物体は少なくとも思惟によって分割可能であるから,物体的実体は完全性を欠くものであり,ゆえにそれは神の本性を構成しないと考えました。つまり延長の属性は神の属性ではないと主張しているのと同じことであり,そうであるなら神が絶対に無限であるということはないということになります。
 一方,スピノザは絶対に無限であるという本性から最高に完全であるという特質が帰結すると考えているのですから,神が最高に完全であるためには,その前提として神が絶対に無限である必要があると主張していることになります。そしてそのためには,延長の属性が神の本性を構成しなければならないのです。
 これでデカルトとスピノザの差異の所在がよく分かります。デカルトは神が最高に完全であるためには,延長の属性が神の本性を構成してはならないと考えました。スピノザは逆に,神が最高に完全であるために,延長の属性が神の本性を構成しなければならないと考えたのです。
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