スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドストエフスキー 謎とちから&デカルトの認識

2014-03-07 19:16:42 | 歌・小説
 ロシアのキリスト教について僕に大きな示唆を与えてくれたのは,亀山郁夫の『ドストエフスキー 謎とちから』でした。
                         
 亀山は2007年の6月と7月に,東京外国語大学のオープンアカデミーで計6回の講義を行いました。それがこの本の出発点。ただ,講義時間は1回が2時間近くということで,その分量では新書の枠には収まりません。そこで新たに語り下ろしをして,それがこの本として成立したとのこと。ドストエフスキーは口述筆記で後半,1866年以降の小説を書いていましたが,スタイルだけでいえば同様に完成した一冊ということになります。
 この本は大きくはふたつの部分に分けることができます。第1章から第3章まではドストエフスキーの長編小説を理解するための前提として必要なことの説明。このうち第一章はドストエフスキー自身の人生の体験,第三章はドストエフスキーと同時代のロシアのキリスト教についての言及で,第二章ではドストエフスキーの作家生活前半の短編が何冊か紹介されます。
 第四章から第八章までが長編の読解。章ごとに一作品となっていて,順に『罪と罰』,『白痴』,『悪霊』,『未成年』,『カラマーゾフの兄弟』の五作品です。
 読解の中心になっているのは,小説そのものの内部に隠されている,というのはこれは現代人にとって隠されているという意味であり,当時のロシア人にとっては何も隠されているものなどなかったのかもしれませんが,歴史や文化との関係を表面化させること。したがって,規範的な,あるいはスタンダードなドストエフスキー解説書というのとは内容を異にします。
 僕にとっては,この本を読まなければ分からなかったであろうことが多く含まれていました。僕はそうしたことが小説読解のために絶対に必要なことだとは必ずしも考えないのですが,必ずや新たな発見というものが得られるであろうことは間違いないと思います。

 スピノザがデカルトの哲学をどのように理解していたのかを精査することはそうも難しいことではありません。スピノザの存命中に発刊された『デカルトの哲学原理』は,いわばスピノザによるデカルト哲学の再構成であり,スピノザの理解はすべてそこに含まれています。また,この本は事情により中途で終了してしまっていますが,延長に関わる部分は校了していますから,僕の考察にとっては何ら問題はありません。
                         
 スピノザによるデカルトの理解といっていますが,たぶんこの本は,デカルト哲学の解説書として最も優秀な部類の一冊です。つまりそこにはスピノザの独断が含まれているわけではありませんし,まして偏見などはまったく含まれていません。むしろデカルトの哲学を最もよく理解したのはスピノザであったといってそんなに過言ではないだろうと僕は思っています。
 この考察との関係で,最も重要な部分は,第二部の公理九で,ここではすべての延長が分割可能であるとされています。もうひとつが第一部の定義八で,そこでは最高に完全なもの,他面からいえば欠陥や不完全性が認識され得ないものについて,それを神というとされています。
 これらはスピノザはどちらも認めません。ただ,デカルトのような認識を前提とすると,神が物体的ではないということが帰結します。あるものが分割可能であるということは,そのものの不完全性を意味し,不完全であるものを神と主張することは不条理だからです。これは第一部の定理十六に出てきます。
 このゆえに,延長的事物が神の本性に属するということをデカルトは認めません。このことは定理としては証明されていませんが,第一部定理二十一の証明で言及されています。ただしこの定理は,延長的実体が実在するということを証明するための定理です。そして実体については第二部定義二で,その存在のために神の協力だけを必要とするものといわれています。つまりデカルトの哲学では,神の協力のみによって存在する延長的実体があり,しかしそれは神の本性は構成しないということになっているのです。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする