2019年12月4日(水)に山口の岩国城跡に行って来ました、広島の毛利一族の本拠地高田郡山城を散策後、この山口のJR岩国駅へバスで錦帯橋へ此れから岩国城です。
岩国の錦川の山沿いに岩国城があり、お城と城下町を繋ぐ橋があの有名な錦帯橋です。
錦川に架かる錦帯橋です、石積の橋脚が4個に5連の太鼓橋が釘を使わず木造の橋で有名なのです。
橋の向こう側の横山山頂にお城が見えますね・・・岩国城です、橋は1673年三代藩主吉川広嘉が城下への橋が川の増水で流失するので流されない橋を指示で来たそうです。
川から見上げた岩国城です、毛利家は関ケ原の戦いの後で周防・長門2カ国に減封、ここ岩国城は毛利両川と言われた、吉川元春の子広家が築いたお城です、慶長8年1608年完成した山城で山麓には御土居と呼ばれる通常の生活空間をもった中世の城郭なのです、しかし、元和元年1616年の1国1城令により破却されたお城なのです・・・刀な狩りとか結構軍縮が進んだのですが・・・例外も幾つかありましたがね。
もう一度橋の真ん中より、この正面のロープウェーから山頂へ今は登れるのです。
山麓にある藩庁跡です石垣水堀に囲まれた城郭です、櫓に見立てた錦雲閣。
ロープウェーから御土居の水堀・錦雲閣、左側一帯が岩国藩藩庁。
上から見た錦帯橋なのです。
岩国城縄張り図です、山頂を削平した山城で大きく三個に分かれた曲輪ですね。
本丸西側下にある井戸、水の手郭です。
水の手郭の横から登・・本丸と二の丸の間にでます。
二の丸ですね。
本丸です、三層四階の上に物見を置く建物で上の階が下の階より張り出した桃山風南蛮造りと呼ばれるそうです。
50m程奥に当時天守台石垣がありました、岩国城を復元するにあたり錦帯橋から見える位置にお城をずらしたのです、この奥右側が空堀・北の丸方面です。
天守台石垣方面から見た岩国城です。
此処が北の丸です、右側が空堀。
空堀(堀切)左側が北の丸、右側が本丸です。
天守から見た錦川、錦帯橋・・・左側が御土居(御舘)の辺りですね。
もう一枚岩国の町と瀬戸内海。
もう一枚岩国城。
二の丸の虎口。
二の丸虎口を下、右側の石垣の向こう側からも同じような虎口があり、両方から挟む作りとか。
これは二の丸西側に有る石垣で当時の石垣も随所にみられるとか・・・北の丸方面にもあるみたいですね、城は破却したが積極的ではなかったみたいですね、明日は福山城・三原城・新高山城を散策し帰路に・・・・・でもアクシデントが発生・・・。
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