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三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

さいたま市見沼代用水の平成桜に行って来ました。

2021-03-30 10:21:47 | 日記・エッセイ・コラム
2021年3月29日(月)にさいたま市見沼代用水脇の平成桜に行って来ました、上尾市の瓦葺から東西に分かれる見沼代用水の東縁をたどり見沼自然公園・サギヤマ公園に行って来ました。

見沼代用水東縁を下り見沼自然公園に近づく平成桜の碑があります、用水の土手脇の桜並木は結構見事なものですよ。

見沼自然公園には見沼代用水を作った井沢為永の像がありますね8代将軍吉宗の命です、利根川から川口までの60kmの用水を6カ月で築いたのです・・・この用水の特徴は高低差が無いのです、見沼の溜池を田んぼに変えたので水源が無くなったので代わりの用水。

土手下からしばらく見上げますね。





此処はサギ山公園の池です。

見沼代用水の土手上から見た桜。





素晴らしい桜並木なのです、今日は大変暑く、桜も早散り始めていますね。



蓮田の慶福寺に行って来ました(江戸彼岸桜ライトアップ)。

2021-03-20 10:22:25 | 日記・エッセイ・コラム
2021年3月19日(金)に蓮田の慶福寺の夜桜に行って来ました、明日から天気が下り坂なので折角ですから夜桜見学に。

ライトアップによる江戸彼岸桜枝垂れです。

昼間見るのとは又違う風情ですからネ。

どうでしょうか?。

真下から。



幽玄の世界でしょうか??。

如何でしょうか?、立派な枝垂れ桜ですね。

蓮田の慶福寺に行って来ました(江戸彼岸桜・枝垂桜)。

2021-03-18 07:48:39 | 日記・エッセイ・コラム
2021年3月17日(水)に埼玉県蓮田市の慶福寺に行って来ました、毎年この時期に咲くので今日は暖かいのでどうかな・・・年年歳歳花相似たりですね。

咲いていましたね、近所の方々も見に来ていました。

枝垂れが以前は土まで垂れ下がっていたのですが、手入れでカットしているのでしょうかネ?。

この花は将軍桜の名前がある、江戸彼岸桜の枝垂桜です、三代将軍徳川家光が江戸城紅葉山御殿から川越の喜多院へ移植した桜を大正14年に分けて頂いた桜だそうです・・・・もう100年ものですよ。









毎年奇麗に咲いていますね、まだ少し早いのでしょうね、昨年も二度にわたり見ましたが出来ればもう一度?。

原市沼川の源流へ(川と橋・・・準用河川)。

2021-03-03 10:52:43 | 日記・エッセイ・コラム
2021年2月24日(水)に原市沼川の上流を訪ねました、上尾市瓦葺の合流点から柳津橋までが一級河川・・・今回はその上流へ向かいます。

原市沼川右岸より柳津橋方面(下流)を望む、左側奥が昔のガンセンター側です、現在この辺の川幅は狭いですが昔は(今も)大雨が降ると横幅が広がったのでしょうね、原市沼へ溜まったのでしょう(今は下の調整池)、この辺の原市沼川は悪水路で公的な名称は無かったとか(悪水路・・川幅が狭く、川底が浅く、勾配が緩い)。

上流をみます、平塚橋(8)です。

平塚橋?(8)、橋に名前がありませんでしたので?、右側が現在の埼玉県立ガンセンターがあります、左側は上尾駅まで行きますね。

平塚橋上流です、此処からはかなり狭い川となりますね。

途中上尾側(右岸)サッカー競技場から川の見える位置に入り込みました。

原市沼側左岸から見た橋(9)ですが、名称は?・・・左側の建物はトヨペットの配送センターです。

上の写真を下流側から上流を見ます・・・小さな橋になりましたね。

少し上流ですが、あちらこちらから支流?が合流?・・・太めの本流を遡りますね。

右岸から上流を見ます、石の橋が・・・この辺は橋脇まで流された枯草が大雨で道が冠水するのですね。

橋(9)名は?この辺は民家もありませんが、昔からの道なのでしょうね・・・趣もあります。

川を少し登れば蛇行した小川の風情が見て取れました。

川脇には清水でしょうか?、畑にやる水汲み場所が・・・ますます風情が。

脇の川原(原市沼川)を覗いて見ました。

右側方面にセキチュー上尾のお店があります、此処は左右とも上尾市ですね伊奈町の境界線は?、橋(10)も名称は?。

橋の中央から上流を見ました、農業用排水路の作りですね<この下までが川と呼べる雰囲気でしょうかネ。

次の橋(11)です。

突き当りですが左側が本流ですね。

左折御又右折しますね、これも橋(12)。

農業排水路ですね、区画整理したのでしょう。

これも橋(13)。

この辺は???、上尾市の端ですね、菅谷地区あたりですネ。

念のために此処まで来ました、桶川市ですね(葵の園辺り)、ほぼ川は見当たらず下水路と化しています、

途中に農業用の整地した碑がありました、上尾市の上平地区(菅谷・須ケ谷)です、この辺りが源流ですね・・・・今は整地し農業排水路に源流が変移していました。








原市沼川に行って来ました(川と橋(下流編))。

2021-02-28 09:56:24 | 日記・エッセイ・コラム
2021年2月24日(水)に近所の原市沼川を遡りました、原市沼川は埼玉県上尾市と伊奈の町ほぼ境界を隔てる川で綾瀬川に合流します、綾瀬川合流点は蓮田市に接します、約5・5kmの小さな川を今回源流を求めて遡りました、原市沼川は合流点から柳津橋まで(2・5km)が一級河川でその上流は準用河川(法定外河川・・市とかが管理)だそうです、今回は柳津橋まで)・・・・なかなかコロナ禍で人込みには遊びに行けないので。

今回のスタート地点です、綾瀬川の立会橋(0)です、こちら側が上尾市瓦葺・対岸が蓮田市蓮田です、見沼代用水の瓦葺掛樋公園は左側です。

綾瀬川(下側と右側)原市沼川(左側)の合流点です、真ん中が伊奈町の南橋ですね。

合流点少し先に一番目の橋が・・・・橋名はありませんね、人道橋です・・・意外と新しいのです、左右に調整池が構築された際に出来ました。

人道橋(1)を左岸上流より、後の森?はつつじ苑の斎場です。

左岸から見た原市沼川上流です、左右とも調整池です川が氾濫しないよう水を脇に落とし込む仕組みですね。

少し遡ると志の崎橋(2)が見られます、今は伊奈町の栄ですが旧名は”志の崎”だったのでこの名前かな?。

これは以前の大雨の時の写真です、奥の調整池まで一杯の状態が解りますね。

右岸から見た志の崎橋(2)と原市沼橋(3)です県道さいたま栗橋3号線に架かりますね。

原市沼橋と県道です向こう側が伊奈町です。

右岸から下流に向かい撮った所、左側が上の調整池側です。

少し上から見た調整池。

その少し上から見た調整池・・・右側は最近出来ました、右奥は鷹の台高校・・・以前私が住んでいたのが小平市鷹の台でした・・・・徳川の狩場だったとか?。

右岸から見た栄橋(4)奥が新幹線の架線、右奥側が伊奈氏屋敷跡です、この橋は東北の震災で壊れ掛けられました、以前はこの辺りにカンバンがありシジミが取れたとか?。

左岸から見た栄橋(4)です。

栄橋から見た上流です、水門と新幹線の架線。

左岸からの水門と栄橋・・・チョット絵になりますね。

これは右岸(上尾市の看板)でこちら側の一部が伊奈氏の領地とありました、多分川が蛇行していたのでしょうね。

左岸から見ました、この少し右側向こう側が古代ハスの場所です。

北陸・東北新幹線の架線橋(5)です、先程の川沿いからは架線橋したを抜けれません、回り込んできました、今は左岸(伊奈町)です。

少し離れて、この辺りは原市沼です。

左岸から上流を見ました、右側が原市沼なのです。

左岸上流に沼橋(6)橋に名前はありませんでしたが、沼橋と呼ばれているみたいなので?。

左岸から下流方面を沼橋(6)と新幹線架線をこの辺りは草茫々でしたが砂利が入れられて奇麗な道に・・・・散歩道にでもするつもりかも?。

左岸から上流を見る・・・この辺りまでは魚が見えますね・・・結構大きなコイが泳いでいましたよ。

柳津橋です、此処までが原市沼川一級河川です、この先は準用河川だそうです。

伊奈町側から見た柳津橋(7)・・・ここも大雨が降ると冠水し水浸しになりますね、手前奥が以前の県立ガンセンターです、ガンセンターは高台で1300年前の奈良・平安時代の製鉄炉が発掘されていますね・・・現地には何も案内はありませんが大山遺跡とか。

此処まで原市沼川で来ましたが、昔は沼落川とも呼ばれていたみたいです、原市沼がこの下流一帯でそこに注ぎ込む川だったのですね。

柳津橋から上流を見ます、此処からは準用河川だそうです、市町の管理に代わるのです・・・源流はいかに?、次回上流編へ乞う期待?。


















伊奈氏屋敷跡に行って来ました(発掘現場ー障子堀)。

2021-02-21 17:20:44 | 日記・エッセイ・コラム

2021年2月19日(金)に散歩道の一つ伊奈氏屋敷跡に行って来ました、丁度発掘現場の乾燥の為ブルーシートをはがしていました嬉しいですね、今回はその発掘調査現場写しましたので・・・。

やはり散歩の途中で見つけたマンサク(我が家のマンサクも咲き始めましたが)、まず最初に咲くのでマンサク・・・梅が早いですね。

伊奈氏屋敷跡の全景です、今回は浅間神社脇から、こちら側は原市沼の反対東側ですが湿地帯です、左側が大手門側で東側は二の丸側です。

縄張り図が無いと解りずらいので、上の写真は右側からです、発掘調査は裏門跡の跡の文字辺りです。

折角ですから二の丸脇の堀底路から左側が本丸の土塁、右側が二の丸です・・・写真では下側中央の太線です。

裏門の障子堀跡です・・・白線が埋め戻した跡、今回は奥の所です、裏門脇の土塁下です。

新しくできた北側散策路から見た所。

左側下から反時計回りに見ていきますね、左側のブルーシートははがしてありません?、穴の中の色の違う場所が障子堀の桟ですね、この角度はわかりにくいですが。

少しアップで桟の部が解りますかネ。

今回の発掘は全面的に泥をどかしてありませんね、障子堀があるのと規模(大きさ)まででしょうか?、右側の位置が奥行きと深さですね、梯子の部分の泥はどかしてありませんね。

この位置がわかりやすいでしょうかネ、奥は土塁の下まで深さは土塁上まで3m?位でしょうかネ。

横から見た所です、結局土塁側の泥をどかしたイメージの障子の枠、左側は階段状に掘り進めただけかな?。

此処もわかりやすいですね、・・・できればもう少し掘り進めてたらわかりやすいのですがね・・・・遺構が壊れてしまうのでしょうか?。

土塁の上から見た所です、ブルーシートの先の土が無い状態ののですね、結構深く急な斜面なので、ハシゴでも持参しないと攻めるのは厳しいのでしょう?。

これは北条の山中城の遺構です、桟はもっと細いのですが崩れるので厚くしてあります、障子堀はいつの時代のものかは?閼伽井坊の北条とは私は考えられないのですが・・・誰が作ったのかな?。

原市沼川に行って来ました(粗大ゴミとカワセミ)。

2021-02-20 12:06:05 | 日記・エッセイ・コラム
2021年2月19日(金)に散歩道の原市沼川・綾瀬川に行って来ました、またもゴミの放棄が・・・粗大ごみで処理が出来ないのでしょうかネ?。

此処は綾瀬川と見沼代用水が交差する見沼代用水掛樋史跡です。

史跡には案内板もあります。

公園に説明の模型図が昔は川を交差するのに樋を掛けたのですネ、今は綾瀬川を潜って交差しています、アユが此処まで遡上したみたいですね以前よりは奇麗になったのでしょうが。

此処は綾瀬川ですが、200m位上で綾瀬川が右側から、左側から原市沼川から合流します・・・大分土砂が堆積したので本年度の予算で土砂を覗く工事が進められます。

これは原市沼川の調整池側ですが、2020年12月29-30日に捨てられた粗大ゴミ(ソフア)でしたね、年明けにはかたずけてくれましたね・・・小さなゴミもついでに?捨てられていましたね・・・年末自分の家だけ奇麗にしたかったのでしょうか?。

粗大ゴミをアップでカバーは解らない様?はいでありました?。

今度は2月17-18日でしょうか、またも粗大ゴミが・・・昼間は釣り人散歩者がいるので夜間でしょうかネ?。

やはりアップでバギー車でしょうかネ、以前ゴミ掃除で自転車が3-4台捨てられていましたね奇麗にしたのですがね。

この川はそんなには奇麗ではありませんが、カワセミが結構見られます、カワセミも見ていました。

カワセミも泣いていましたね。

吉野原合戦跡に行って来ました(大宮)。

2021-02-07 12:11:00 | 日記・エッセイ・コラム
2021年2月5日(金)に近所の合戦跡である、吉野原に行って来ました。

ここは国道16号バイパス?、さいたま・栗橋線のさいたま市より上尾の原市端です、この先に芝川があり少し高台です、船橋の地名があり見沼の端です・・・・この右の所に次の看板があります。

船橋の由来・・・大永4-5年(1524-25)河越城主上杉朝興は岩槻城を攻撃するため3000余騎を率い平潟川(旧利根川)を渡り上尾宿の南吉野原(大宮)へ対する岩槻(岩付)城主太田資頼は1200余騎は原市に着陣、多数の死傷者を出し戦意を失い上杉勢は河越に退いたとの事・・・・岩槻巷談の話の看板です。

この話は年号対戦相手的にややこしく?、元々太田資頼は扇谷上杉に仕えていた家老職ですが、大永4年(1524)北条氏綱に寝が入り岩付城をせめおとし、再度攻められて扇谷上杉に降伏、大永5年(1525)には北条氏綱に攻められ岩付城は落城、資頼は石戸城へ、享禄2年(1530)太田資頼により岩付城を奪還、天文6年(1537)河越城主上杉朝興が病死・・・すかさず北条氏綱は上杉朝定から河越城を取る流れの中での、この話は主君を寝が入った頃の最初の方の戦い見たいですね?。

陸橋のうえから吉野原方面を見ました。

同じく国道大宮方面を芝川がありその先に東北新幹線とニューシャトルの吉野原駅があります・・・・この駅名が吉野原です。

陸橋下のバス停名が船橋で見沼添いの狭い個所に船の橋を渡した名前みたいです。

芝川です、新幹線が見えますね、向こう側は大宮の工業団地となっています、この先と右側がが原市側です。

ニューシャトル吉野原駅です、この辺りが古戦場なのでしょうかネ?。

今の工業団地吉野原です。

芝川に架かる吉野橋の名前も今に残りましたね、さらに天文15年(1546)扇谷上杉朝定は山内上杉・古河公方連合で河越城を攻めましたね、有名な河越夜戦です、この戦いで扇谷上杉は滅亡、山内上杉は越後に武蔵は北条のものになりましたね。

我が家の花、年年歳歳花相似たり(サギソウ)。

2020-08-07 09:46:11 | 日記・エッセイ・コラム
2020年8月7日(金)昨日までGOTO・・・で出かけていました、花が心配でしたが咲いていました。

夕顔(ユウガオ)一部は枯れてしまいましたが・・・・夜に開くのです(朝顔とちがいます)。

もう旬は過ぎましたが、紫陽花が・・・。

サギソウです、花言葉・・・無垢・清純・夢でもあなたを思う。

毎年2月に植え替えします、1株でヤギの糞みたいな球根が2個・・・・一時期1株になりましたが、それ以後毎年増やして12株へまだ満開ではありませんが無事開花。

何となく涼しげなので癒されますね、サギソウの話ご存知ですかネ、世田谷城城主吉良頼康に嫁いだ常盤姫の悲劇のお話がありますね。

サギソウは田んぼの畦道に咲く水が好きな花なのですが、今年は雨が多く心配しましたが、無事に根腐れせず咲きました、来年も又咲いてほしいので植え替えを忘れずに。

蓮田慶福寺の江戸彼岸桜に行って来ました(枝垂れ桜2度目)。

2020-03-22 06:10:25 | 日記・エッセイ・コラム
2020年3月21日(土)に二度目の蓮田慶福寺の枝垂れ桜(江戸彼岸桜)に行って来ました、今が満開ですね。

慶福寺本堂を覆い隠すようにおよそ100歳の江戸彼岸桜が咲き誇っています。

棚の下から見上げました、大分棚の隙間からも下がっていますね。

本堂側から見た所、1本の木で大きく広がっています。

よりアップでの江戸彼岸桜の枝垂れです。

もう一度棚下から枝垂れを堪能です。