「アクト・オブ・キリング」という映画を観ました。
(Amazonリンク→アクト・オブ・キリング[Blu-ray])
ちょっとすごい映画でしたね。。言葉を失うくらい。
たぶん衝撃度で言えば「カシム・ザ・ドリーム」を観た時以来。
インドネシアで起こった大虐殺について、その大虐殺を行った人たちにそれを再現ドラマとして演じてもらうというドキュメンタリー(なぜそんなことが起こっているのかについては非常に複雑な話なのでぜひ映画をご覧くださいませ)なんだけど、恐怖という意味で言えば「カシム・ザ・ドリーム」よりも怖かった。
虐殺を行った人たちは元々はダフ屋だとかストリート・ギャングだった。彼らは思想も無くただ儲けるためにそれを行った。
見ながら本当に恐ろしいと思ったことは「もし自分が彼らと同じ立場だったら、同じことをやっていたのではないか?」ということ。大虐殺事件から数十年経って、そのクーデターを行った人々が政府の中枢にいるので彼らはまったく罰されていない。むしろ町の名士として生活している。「何をやっても罰されない、むしろこれからの生活を保障される」と言われたら、彼らが再現している「残虐なこと」を自分もやったのではないか。
そう考えると本当に恐ろしい。
比べるのはちょっとどうかと思うけど、先日の大阪での住民投票。僕はもちろん東京から見ていたんだけど、少しだけ恐怖を感じた。もちろん住民投票自体にはまったく問題無いし地方自治について住民が決めるというのは素晴らしいことだと思う。
だけどたまにTwitterを見ると「ほんとうにこんなことが起こっているのか?」と感じたことがあった。賛成派・反対派どちらかがどちらかを誹謗中傷していたり。もちろんそれは一部なんだろうしそもそもTwitterなんてそんなもんだよ、と言われればそうだろう。
マスコミについても数十年かけて完全に信頼を失っているんだな、と感じた。ネットを見ていると誰もマスコミを信じていない。その是非はおいておくとして。
ふと僕はゲッペルスのことを思い出した。ゲッペルスというのは大二次世界大戦のころのナチス・ドイツの宣伝大臣。「プロパガンダの天才」と言われ様々なものを活用してプロパガンダを行った。大衆を扇動し刺激的な言葉と宣伝で誘導した。
なぜ思い出したか、と言うともちろん大阪をあの時のドイツと比べたいわけじゃない。そんなの大阪にとって失礼だと思う。
思い出したのは「もし自分が賛成/反対どちらかにいたらゲッペルスみたいなことを嬉々として行っていたかも知れない」と思ったから。
ゲッペルスほどのスケールではないけど、僕の仕事だってある種、人の考えを操る、と言ってしまうと語弊があるかも知れないけど、人の考えにまつわることではある。
法に反することはもちろんやってないけど、どうやって商品を宣伝するかとかどうしたら効果的に売れるか、ということはもちろん考えている。それが仕事だし。そしてそういう仕事、好きだし楽しくやっている。
もし僕が大阪にいて今回の投票にまつわる仕事をしていたらもう楽しくて楽しくてジュルジュルよだれを垂らさんばかりにプロパガンダの仕事をしていたかも知れない。
三国志とか戦国時代とか幕末物を読んでても僕が「ああ、面白いなぁ」と思うのは戦いそのものよりもそれにまつわる駆け引きだからね。
もしかして戦時中になったら、、、僕はそこでもプロパガンダの仕事を何も疑問も持たず、いやむしろ楽しんで、やってしまうかも知れない。
そう考えると「アクト・オブ・キリング」で描かれた、「楽しんでやった人々」、更に「それを自慢気に語る人々」を僕は「これはひどい、こんなの自分は絶対やらない。これは自分とは違う人達だ」とは言い切れない。
ニーチェはこういう言葉を残している。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」
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ちょっとすごい映画でしたね。。言葉を失うくらい。
たぶん衝撃度で言えば「カシム・ザ・ドリーム」を観た時以来。
インドネシアで起こった大虐殺について、その大虐殺を行った人たちにそれを再現ドラマとして演じてもらうというドキュメンタリー(なぜそんなことが起こっているのかについては非常に複雑な話なのでぜひ映画をご覧くださいませ)なんだけど、恐怖という意味で言えば「カシム・ザ・ドリーム」よりも怖かった。
虐殺を行った人たちは元々はダフ屋だとかストリート・ギャングだった。彼らは思想も無くただ儲けるためにそれを行った。
見ながら本当に恐ろしいと思ったことは「もし自分が彼らと同じ立場だったら、同じことをやっていたのではないか?」ということ。大虐殺事件から数十年経って、そのクーデターを行った人々が政府の中枢にいるので彼らはまったく罰されていない。むしろ町の名士として生活している。「何をやっても罰されない、むしろこれからの生活を保障される」と言われたら、彼らが再現している「残虐なこと」を自分もやったのではないか。
そう考えると本当に恐ろしい。
比べるのはちょっとどうかと思うけど、先日の大阪での住民投票。僕はもちろん東京から見ていたんだけど、少しだけ恐怖を感じた。もちろん住民投票自体にはまったく問題無いし地方自治について住民が決めるというのは素晴らしいことだと思う。
だけどたまにTwitterを見ると「ほんとうにこんなことが起こっているのか?」と感じたことがあった。賛成派・反対派どちらかがどちらかを誹謗中傷していたり。もちろんそれは一部なんだろうしそもそもTwitterなんてそんなもんだよ、と言われればそうだろう。
マスコミについても数十年かけて完全に信頼を失っているんだな、と感じた。ネットを見ていると誰もマスコミを信じていない。その是非はおいておくとして。
ふと僕はゲッペルスのことを思い出した。ゲッペルスというのは大二次世界大戦のころのナチス・ドイツの宣伝大臣。「プロパガンダの天才」と言われ様々なものを活用してプロパガンダを行った。大衆を扇動し刺激的な言葉と宣伝で誘導した。
なぜ思い出したか、と言うともちろん大阪をあの時のドイツと比べたいわけじゃない。そんなの大阪にとって失礼だと思う。
思い出したのは「もし自分が賛成/反対どちらかにいたらゲッペルスみたいなことを嬉々として行っていたかも知れない」と思ったから。
ゲッペルスほどのスケールではないけど、僕の仕事だってある種、人の考えを操る、と言ってしまうと語弊があるかも知れないけど、人の考えにまつわることではある。
法に反することはもちろんやってないけど、どうやって商品を宣伝するかとかどうしたら効果的に売れるか、ということはもちろん考えている。それが仕事だし。そしてそういう仕事、好きだし楽しくやっている。
もし僕が大阪にいて今回の投票にまつわる仕事をしていたらもう楽しくて楽しくてジュルジュルよだれを垂らさんばかりにプロパガンダの仕事をしていたかも知れない。
三国志とか戦国時代とか幕末物を読んでても僕が「ああ、面白いなぁ」と思うのは戦いそのものよりもそれにまつわる駆け引きだからね。
もしかして戦時中になったら、、、僕はそこでもプロパガンダの仕事を何も疑問も持たず、いやむしろ楽しんで、やってしまうかも知れない。
そう考えると「アクト・オブ・キリング」で描かれた、「楽しんでやった人々」、更に「それを自慢気に語る人々」を僕は「これはひどい、こんなの自分は絶対やらない。これは自分とは違う人達だ」とは言い切れない。
ニーチェはこういう言葉を残している。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」
かなりリアルな予告編でした。。
秘密保護法でやりたい放題になる将来が思い浮かびました。
更に非常に怖いのは「ちょっと笑える」ところもあるんですよね。
「恐怖を突き詰めると笑いになり、笑いを突き詰めると恐怖になる」ってほんとだなぁと思いました。。