タイトルのこと、耳にします。
たしかに。
なんとなく世間が賑やかになりそのムードになることが、なんてことないんですが、耳障りというか不快というか辛いというか・・・。
あまりそれは感じなくなってきましたが、昨日は家族で出かけ、クリスマスムードになんとなく憂鬱になりました。
明るく見えるのが辛いんですね。
暗くなっているところに、いくら勇気付けても気持は上がらないものです。
それでまた自分を責めてしまう。それはしょうがないことなんですね。
なかなか自力でそういう世界との分離をするのは難しいかもしれないけど、必要以上に物事を考えず、世間はいいな~なんて思わないようにすることが良いのでしょう。
辛いな~と思いながらも出かけられたので、それは良かったんだが、そんなところから思ったんだけど、何か物事が進められないこととか、やらなきゃいけないことができないとか・・。
もちろん、怠けもあるでしょうが、それが酷いのって、病んでることですよね?
例えば、勉強をしなければならないけどしない。ここまでは怠けでしょう。
でも、しようと思っても手がつけられない・・・この域に来ると、少し病んでるのかな?
セールスの仕事をしたとしましょう。
それが自分に合っていれば、進めます。
しかし、元来、そういうのが苦手な場合、苦手意識が先行してやらないのは、少々怠けかもしれません。
でも、やりました。、いくらやってもお客さんと話せない。そしてそれが「苦」になる。
その「苦」になった時はやんでるんですよね。
合わないものをやってできることもあるでしょうが、できなければ、適正ではありません。
頑張って克服する人もいるでしょうが、そうでない人の方が多い。
勤務している以上やらなきゃという重圧もある。そしてその重圧が出社拒否などになる。
甘いという考えもあるでしょうしそれも正論でしょうが、もうそうなった時は、いくらそこで栄養剤を注いでもむりなんですよね?
そこで、重要なことと直面する。会社を辞めたいという。
会社によっては適正に合わない場合、部署の変えもみてくれる所もあるでしょうが、多くは進退を考えなければならなくなる。
そういう社会構成になってるんですね。
自分は営業を中心にやってましたが、ある時期に全く手付かずになりました。
そして、報酬体型も完全歩合に変わり、収入が酷い時は月5000円なんてなり、出した結論は
辞め。
適材でないと自分で判断したもので、その後、色々重なり鬱になりました。
バブルの頃は200時間のサービス残業や、数日帰れないなどは良くあった話。
過労死も社会問題になっていたころですが、世間が忙しく、なかなか社会性鬱は取り沙汰されなかったが、結構、病んでいって、そのまま会社に来ないなんていうのはいました。
今でこそ、鬱と言うものは認知されていますが、社会の水に合わないと怠けとレッテルを貼られていた事も事実ですね。
鬱などの精神疾患は、ストレスから来る。それは何か?と分析した時、いまのように、会社の仕事が手がつかないとか、会社にいけなくなったとか、そういうことから起因することは実際に多いことは事実で、そうなった時、自分に厳しくは勿論悪いことではなかったんですが、そのことで日常生活ができなくなるんだったら、それはもう病んでいる証拠でしょう。
最近、回想します。
飛び込みセールスをやっていた時の頃。
成績はまあまあでも、気が進まないことが多多出てくる。
そして、説明することすらできない。
訪問は出来て、仕事は取れても、そのことが、「憂鬱」。強い鬱ではないが、営業は憂鬱。
実は、ずっとそいうだった。
でも、若さ、多少の自信、経験などでカバーできたが、実際は、自分はそういうのには向かず、とてもその時は神経を使っていた。
ルートセールスであっても足が進まないこともあった。
それは、怠けもあるのかもしれないけど、既にその時点で病んでいたんでしょうね。
精神疾患はそういうところから来ることもあります。
仕事が出来ないことを「苦」にして自殺なんていうことも聞きますが、その「苦」でいかに止めるかが重要ですね。
若い頃の自分を振り返ると、決して懸命ではなかったけど、怠けでもなかった。
背伸びしていたんだな~と。
今になって社会現象のように捉えるけど、そういう取り沙汰されない時に、散って行った人達もや挫折して復帰できなかった人も、病んでいたことは事実なんでしょうね。
たしかに。
なんとなく世間が賑やかになりそのムードになることが、なんてことないんですが、耳障りというか不快というか辛いというか・・・。
あまりそれは感じなくなってきましたが、昨日は家族で出かけ、クリスマスムードになんとなく憂鬱になりました。
明るく見えるのが辛いんですね。
暗くなっているところに、いくら勇気付けても気持は上がらないものです。
それでまた自分を責めてしまう。それはしょうがないことなんですね。
なかなか自力でそういう世界との分離をするのは難しいかもしれないけど、必要以上に物事を考えず、世間はいいな~なんて思わないようにすることが良いのでしょう。
辛いな~と思いながらも出かけられたので、それは良かったんだが、そんなところから思ったんだけど、何か物事が進められないこととか、やらなきゃいけないことができないとか・・。
もちろん、怠けもあるでしょうが、それが酷いのって、病んでることですよね?
例えば、勉強をしなければならないけどしない。ここまでは怠けでしょう。
でも、しようと思っても手がつけられない・・・この域に来ると、少し病んでるのかな?
セールスの仕事をしたとしましょう。
それが自分に合っていれば、進めます。
しかし、元来、そういうのが苦手な場合、苦手意識が先行してやらないのは、少々怠けかもしれません。
でも、やりました。、いくらやってもお客さんと話せない。そしてそれが「苦」になる。
その「苦」になった時はやんでるんですよね。
合わないものをやってできることもあるでしょうが、できなければ、適正ではありません。
頑張って克服する人もいるでしょうが、そうでない人の方が多い。
勤務している以上やらなきゃという重圧もある。そしてその重圧が出社拒否などになる。
甘いという考えもあるでしょうしそれも正論でしょうが、もうそうなった時は、いくらそこで栄養剤を注いでもむりなんですよね?
そこで、重要なことと直面する。会社を辞めたいという。
会社によっては適正に合わない場合、部署の変えもみてくれる所もあるでしょうが、多くは進退を考えなければならなくなる。
そういう社会構成になってるんですね。
自分は営業を中心にやってましたが、ある時期に全く手付かずになりました。
そして、報酬体型も完全歩合に変わり、収入が酷い時は月5000円なんてなり、出した結論は
辞め。
適材でないと自分で判断したもので、その後、色々重なり鬱になりました。
バブルの頃は200時間のサービス残業や、数日帰れないなどは良くあった話。
過労死も社会問題になっていたころですが、世間が忙しく、なかなか社会性鬱は取り沙汰されなかったが、結構、病んでいって、そのまま会社に来ないなんていうのはいました。
今でこそ、鬱と言うものは認知されていますが、社会の水に合わないと怠けとレッテルを貼られていた事も事実ですね。
鬱などの精神疾患は、ストレスから来る。それは何か?と分析した時、いまのように、会社の仕事が手がつかないとか、会社にいけなくなったとか、そういうことから起因することは実際に多いことは事実で、そうなった時、自分に厳しくは勿論悪いことではなかったんですが、そのことで日常生活ができなくなるんだったら、それはもう病んでいる証拠でしょう。
最近、回想します。
飛び込みセールスをやっていた時の頃。
成績はまあまあでも、気が進まないことが多多出てくる。
そして、説明することすらできない。
訪問は出来て、仕事は取れても、そのことが、「憂鬱」。強い鬱ではないが、営業は憂鬱。
実は、ずっとそいうだった。
でも、若さ、多少の自信、経験などでカバーできたが、実際は、自分はそういうのには向かず、とてもその時は神経を使っていた。
ルートセールスであっても足が進まないこともあった。
それは、怠けもあるのかもしれないけど、既にその時点で病んでいたんでしょうね。
精神疾患はそういうところから来ることもあります。
仕事が出来ないことを「苦」にして自殺なんていうことも聞きますが、その「苦」でいかに止めるかが重要ですね。
若い頃の自分を振り返ると、決して懸命ではなかったけど、怠けでもなかった。
背伸びしていたんだな~と。
今になって社会現象のように捉えるけど、そういう取り沙汰されない時に、散って行った人達もや挫折して復帰できなかった人も、病んでいたことは事実なんでしょうね。
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