自分は劣等感が強く、自己否定型です。
劣等感が強くなったのは6歳のころで、全治一年の交通事故を起こしたときから。
小学校の入学は間に合わず、2学期からの出席、いきなり勉強がついていけません。足にボルトが入ってるため、約3年はまともな体育の授業を受けることができず、以後、中学卒業まで、通信簿(のちにあゆみ)は1若しくは最低でした。
もともと、運動神経が鈍いのではなく、幼稚園の時は徒競争は速く、ドッヂボールも得意でした。
しかし、交通事故で、約4か月寝たきり、4か月後に、歩くことはできません。家では「ハイハイ」です。
この入院は半年、通院が半年。これは成長期の子供には大きな影響があります。
すべてにおいて、ビリ。ついていけない。半年外界から遮断されると、人との付き合いもできず、また、言葉も発達に影響します。
いじめもあったし、それの腹いせでいじめもした。性格はまるでだめ。授業中は急にいなくなる。遠足でもいなくなる。
そんな幼少期でしたから、いまでいうならば、既に発達障害とみなされるものでしょう。いや、事実、あまりにもついていけない、宿題を忘れるなどから、いまであれば大問題になるでしょうが、担任が毎日訪問し、特殊学級を奨めてました。
ここで、さらなる問題が起き、宿題を忘れると、と特殊に送るぞとか、1年降格といって、1年下のクラスに送り込まれたり、これって、パワハラですよね。このころから、「下級生」からのイジメびあり、15歳くらいまでが深刻でした。
家庭環境も、表向きにはお坊ちゃんですが、父のええかっこしいが問題で、外には金をばらまき、家は決して裕福ではない。
それでいて、仕事そっちのけで、ボウリングに毎晩行き、当然私も連れて行かされるから、宿題なんかできない。
なんで、毎日立たされるのか。宿題で怒られるのか、成人にいなって叔母から言われて気づいたものです。
自分には子供ながらしたいこともたくさんありました。
野球、相撲、バレーボール。野球は町内野球に入りましたが、それ以外はことごとく反対。相撲が好きなんで、隣人が、相撲部屋に連れて行ってくれるとか、巡業を観に行くとか、相撲道場を紹介されても、当時か細く、病弱だったこともあり、親は賛成しません。
せめて、ちびっこ相撲の行司をやりたいといったら、反対さました。親はとにかく反対。気分悪くなると、ヤツ当たる。こんな生活でした。
コレクションが好きで、仮面ライダーカード、切手、古銭などを取集しても、くだらないと言って棄てられたものです。
少し大きくなり、鉄道模型に凝りだしても、いつも捨てられ、成人するまでは、これすらもできなかったです。
そんなんで、自慢できるものはない。特技がない、勉強、運動はまるでだめ。どうやって優越感が芽生えるでしょうか?
高校進学の際、こちらではアチーブメントテストというのがあり、中2の3学期でおおむねの進路が決まってしまう。そのテストが最悪で、すでに2年で公立高校は諦めという状態。
ならば、私立一本で3教科を集中し、人並み以上の成績になったけど、私立は3教科が基準なのに、体育が1だから、ムリとか変な理由をつけられ、なんと14歳で、お前は進学はムリ、就職活動をしろと担任に言われ、14歳にして、工場などの職場訪問をしたものです。
ただ、この経験はのちに生きてくるもので、当時は屈辱的でしたが、今は自慢話になってます。
こういう幼少から青年期を過ごし、しかも発達が遅れている、背丈も小さい。自慢なんかありません。
高校は結局はなんでここ?とみんなに不思議がられましたが、県下最低の高校。
九九や割り算ができないような人の集まり。今思えば、多くが学習障害だったんでしょうね。
こんな自分でも、向上心が出て、希望に満ち溢れ、自信ついてきたときもありました。
それは浪人1年目。成績は上がり、人に見せても恥ずかしくないレベルまで行き、他の有名高校の友達なんかとも進路を話す際、模擬の結果を見せると、え~~~がんばってる!と「おまえがここまでやる?と笑いながら褒められたもの。
行きたい大学が手が届くくらいにまでなり、万全を期して望んだ受験も滑り止めも滑る。全崩壊。しかし、親は2浪を認めてくれ、2浪に入ります。前半は好調も、世間の友達はみんな大学生。うざいほど遊びに来る。勉強どころじゃない。隠れて勉強してましたが、そんな窮屈なことしたら、精神的に参る。最初の鬱は25歳でしたが、恐らく、ここで鬱になっていたんでしょう。夏過ぎてから、一切勉強しなくなり、麻雀、パチンコにのめりこみ、
しかも倦怠感がすごい。糖尿の検査などしても異常なし。この際、医者から、精神科への検査を勧められるが、自分はそうしたかった。親が世間体がという理由で、反対してね。
学力維持が精いっぱいでも、なんとか、最後の模試では、希望校が射程距離に入るも、これまただめ。1校引っかかり、そこに進学したんだが。
卒業しても、家業があると言うのが常に引っかかり、自信もってなにかに打ち込むことはできなかった。
こんな中でも、先述の1浪時代は唯一夢いっぱいで、幸せだったんでしょう。初めて、人と対等に話せたじだいだったのかもしれません。
この時に優越感を感じたこともあるが、それが唯一の優越感でしょう。
劣等感の理由は、先に書いた幼少期の交通事故や、小学校での環境だと思いますが、手先が不器用、ぎごちなさは、幼稚園の頃からはありました。
折り紙ができません。絵が描けません。
劣等感の塊の中、人生を変えたひと言があります。
高校受験の際、県下最低高校か?自分の志望高校か?悩んでた際に、いまでも付き合いがありますが、勉強を3日間診てくれた先生がいます。
小学校レベルなものに、出来ない自分を見て、少々驚いた顔をしつつも、こういうことを言ってくれました。「今日覚えていっちゃおう。明日から楽になるでしょ?」
わからなきゃ、今勉強すればよい。この一言で、勉強嫌いが勉強好きになりました。
ちなみに、娘もデキは悪かったから、この先生に診てもらったところ、おかげさまで、学寮は上がり、高校受験は難なく終わりました。
恩師とはこういう人ですね。
いまでも、この精神は大切にしてます。
自信ない、ぎごちない、不器用。環境が問題糸カウンセラーはや主治医は指摘しましたが、どうもそうじゃない。ずっと気にしている発達障害が、いまになっても引っかかる。それで、心理学やADHDの本を読み、発達障害と取り組むようになってます。
今後、来年あたり、仕事で本当に悩む時が再び来るでしょうが、今は、この治療開始も影響してるのか、精神的に安定化に進んでます。
うまくこのリズムに乗れれば、多少、劣等感は和らぐかな?と思います。
要領の悪さからくる一人相撲が少なくなりました。
ゲシュタルトでは、今ーここという視点に立ち、気づきの大切さを強調します。どんな障害や、衰えも、気づくという事が一番大切ですよね。まずは気づいたら、次のステップ。
ただ、でたらめに年月は過ぎ去り、もう何年もすれば「初老」ステージになります。それは悔しく思うもの。だからじゃありませんが、いまさらながらのADHD取り組みですが、これも機会と思い、真剣に考えていきたいと思います。
あまり優越感で支配される人間にはなりたいとは思わないけど、自信は持ちたいね。
劣等感が強くなったのは6歳のころで、全治一年の交通事故を起こしたときから。
小学校の入学は間に合わず、2学期からの出席、いきなり勉強がついていけません。足にボルトが入ってるため、約3年はまともな体育の授業を受けることができず、以後、中学卒業まで、通信簿(のちにあゆみ)は1若しくは最低でした。
もともと、運動神経が鈍いのではなく、幼稚園の時は徒競争は速く、ドッヂボールも得意でした。
しかし、交通事故で、約4か月寝たきり、4か月後に、歩くことはできません。家では「ハイハイ」です。
この入院は半年、通院が半年。これは成長期の子供には大きな影響があります。
すべてにおいて、ビリ。ついていけない。半年外界から遮断されると、人との付き合いもできず、また、言葉も発達に影響します。
いじめもあったし、それの腹いせでいじめもした。性格はまるでだめ。授業中は急にいなくなる。遠足でもいなくなる。
そんな幼少期でしたから、いまでいうならば、既に発達障害とみなされるものでしょう。いや、事実、あまりにもついていけない、宿題を忘れるなどから、いまであれば大問題になるでしょうが、担任が毎日訪問し、特殊学級を奨めてました。
ここで、さらなる問題が起き、宿題を忘れると、と特殊に送るぞとか、1年降格といって、1年下のクラスに送り込まれたり、これって、パワハラですよね。このころから、「下級生」からのイジメびあり、15歳くらいまでが深刻でした。
家庭環境も、表向きにはお坊ちゃんですが、父のええかっこしいが問題で、外には金をばらまき、家は決して裕福ではない。
それでいて、仕事そっちのけで、ボウリングに毎晩行き、当然私も連れて行かされるから、宿題なんかできない。
なんで、毎日立たされるのか。宿題で怒られるのか、成人にいなって叔母から言われて気づいたものです。
自分には子供ながらしたいこともたくさんありました。
野球、相撲、バレーボール。野球は町内野球に入りましたが、それ以外はことごとく反対。相撲が好きなんで、隣人が、相撲部屋に連れて行ってくれるとか、巡業を観に行くとか、相撲道場を紹介されても、当時か細く、病弱だったこともあり、親は賛成しません。
せめて、ちびっこ相撲の行司をやりたいといったら、反対さました。親はとにかく反対。気分悪くなると、ヤツ当たる。こんな生活でした。
コレクションが好きで、仮面ライダーカード、切手、古銭などを取集しても、くだらないと言って棄てられたものです。
少し大きくなり、鉄道模型に凝りだしても、いつも捨てられ、成人するまでは、これすらもできなかったです。
そんなんで、自慢できるものはない。特技がない、勉強、運動はまるでだめ。どうやって優越感が芽生えるでしょうか?
高校進学の際、こちらではアチーブメントテストというのがあり、中2の3学期でおおむねの進路が決まってしまう。そのテストが最悪で、すでに2年で公立高校は諦めという状態。
ならば、私立一本で3教科を集中し、人並み以上の成績になったけど、私立は3教科が基準なのに、体育が1だから、ムリとか変な理由をつけられ、なんと14歳で、お前は進学はムリ、就職活動をしろと担任に言われ、14歳にして、工場などの職場訪問をしたものです。
ただ、この経験はのちに生きてくるもので、当時は屈辱的でしたが、今は自慢話になってます。
こういう幼少から青年期を過ごし、しかも発達が遅れている、背丈も小さい。自慢なんかありません。
高校は結局はなんでここ?とみんなに不思議がられましたが、県下最低の高校。
九九や割り算ができないような人の集まり。今思えば、多くが学習障害だったんでしょうね。
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学力維持が精いっぱいでも、なんとか、最後の模試では、希望校が射程距離に入るも、これまただめ。1校引っかかり、そこに進学したんだが。
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こんな中でも、先述の1浪時代は唯一夢いっぱいで、幸せだったんでしょう。初めて、人と対等に話せたじだいだったのかもしれません。
この時に優越感を感じたこともあるが、それが唯一の優越感でしょう。
劣等感の理由は、先に書いた幼少期の交通事故や、小学校での環境だと思いますが、手先が不器用、ぎごちなさは、幼稚園の頃からはありました。
折り紙ができません。絵が描けません。
劣等感の塊の中、人生を変えたひと言があります。
高校受験の際、県下最低高校か?自分の志望高校か?悩んでた際に、いまでも付き合いがありますが、勉強を3日間診てくれた先生がいます。
小学校レベルなものに、出来ない自分を見て、少々驚いた顔をしつつも、こういうことを言ってくれました。「今日覚えていっちゃおう。明日から楽になるでしょ?」
わからなきゃ、今勉強すればよい。この一言で、勉強嫌いが勉強好きになりました。
ちなみに、娘もデキは悪かったから、この先生に診てもらったところ、おかげさまで、学寮は上がり、高校受験は難なく終わりました。
恩師とはこういう人ですね。
いまでも、この精神は大切にしてます。
自信ない、ぎごちない、不器用。環境が問題糸カウンセラーはや主治医は指摘しましたが、どうもそうじゃない。ずっと気にしている発達障害が、いまになっても引っかかる。それで、心理学やADHDの本を読み、発達障害と取り組むようになってます。
今後、来年あたり、仕事で本当に悩む時が再び来るでしょうが、今は、この治療開始も影響してるのか、精神的に安定化に進んでます。
うまくこのリズムに乗れれば、多少、劣等感は和らぐかな?と思います。
要領の悪さからくる一人相撲が少なくなりました。
ゲシュタルトでは、今ーここという視点に立ち、気づきの大切さを強調します。どんな障害や、衰えも、気づくという事が一番大切ですよね。まずは気づいたら、次のステップ。
ただ、でたらめに年月は過ぎ去り、もう何年もすれば「初老」ステージになります。それは悔しく思うもの。だからじゃありませんが、いまさらながらのADHD取り組みですが、これも機会と思い、真剣に考えていきたいと思います。
あまり優越感で支配される人間にはなりたいとは思わないけど、自信は持ちたいね。