鬱オヤジのストレス苦闘日誌

鬱オヤジといいます(他のブログでは違うHNですが・・・)
主にストレスやうつ病について書きます。
くらいですよ~~

熟睡感はあるけど眠い

2010-08-30 10:21:23 | Weblog
熟睡感はあるけど、眠い。

普通のサラリーマンなら普通のことでしょう。

これを知らずウチに何十年も続ける。通る人も居れば、通れない人も居る。

後者は純粋に不調が顕れるということでしょうか?


私の睡眠時間は8,5~10時間。


寝すぎの感じもするが、これでも寝足りない。


熟睡しているようで、実は深くは寝れて居ない?或いは、疲れが蓄積し疲れが取れない?


いままでも、職を失って数日間、爆睡したことあるが、それだけでは蓄積したストレスは取れませんでした。

でも、疲れを取るのは寝るしかありません。

寝て、それでも不調が続くなら、環境を変えるなどして、身体だけでなく、心も休めたほうが良いのでしょう。


睡眠が取れるようになり、熟睡感も出てきた。

でも、まだまだ、朝目覚めの感覚は「疲れた~~」と思う日が多い。

朝の不調は幼いころからの症状だが、これは生きている間の永遠の課題なのかな?と思います。


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気持ちが前進しないとき・・・

2010-08-29 09:33:07 | Weblog
勉強でも仕事でも「仕方なく」やるものは身になりません。

その辺を理解したうえで、勉強や仕事の力の入れようを考えないとだめですね。


最低限やらねばならないことは出来ればやるようにしたい。


しかし、なかなか気が進まない時ってだれでもある。それが時々の人は時々だからこそ、サボリも一手でしょう。


それが年中の人は根本的に原因を追究しましょう・なんで出来ないのか?
サボリ心のいたずらか・・いや病気なのか・・・


「うつ」になるとわかりますが、当然に出来ることができなくなるんです。

鼻をかんだり、蓋を開けたりなどの日常生活自体が辛く、悲しいものになります。


そういう時は、少し間を置いてゆっくりやっり、達成をさせたほうが前に進みます。


前に進めないとき、それが慢性的な場合、もはや正常ではありません。

ムリをしてはいけません。


ここで、ムリをすると、蓄積するもので本当に何もできなくなります。


昨日も「大切な仕事」が気が乗りませんでした。

しかし、少し視点を替え、散歩する感覚に気持ちを切り替えたり、終わった後に自分に褒美を与えたりで少し切り替えをすると、出来ちゃうものです。

出来ることがとても凄いことなので、こういう前進が少しでもできるようになったら、ここでもムリせず、そのときの自分の速度で事を行うのがいいんだろうな~~と思うようになったものです。


毎日、まだまだ原因不明の「落ち込み」があります。

そういう時は「引きこもり」をします。


それがその後、結構よい方向に進む「リラックスタイム」と称してます。


こんな進み方で今は仕方ないかな?と考えての毎日です。

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現在の自分

2010-08-27 11:00:06 | Weblog
その後27歳に入った会社は滅茶苦茶忙しく、毎晩帰れません。

しかし、在職した会社の中では一番まともだったのでしょう。


その会社在職中に父より、家業継承の話が来ます。

とても悩んだ挙句、継承を考え退職をするのですが、退職したら、今度は父が雇えないと言います。

失業した上に歳も30歳。慌てて就職活動するも、バブルはじけてなかなかありません。


父も、バブルで売り上げに対し労力が着いてゆけずの願いだったのでしょうが、バブルはじけ、動きが悪くなり、雇えないという無責任発言をします。


やっとみつけた会社は運送会社のドライバー。


とても重労働でしたが、寝るだけが楽しみのような仕事で、初めて熟睡というのにありつけます。

そして、あのイヤな3つの夢も見なくなります。

過労で倒れたり、職種が事務系に変わったりしても、居心地がよく、この会社では頑張れました。

しかし、親会社が倒産し、この会社にも影響が出始めます。

そんなタイミングで、またしても父が家業継承を持ちかけますが、最初は無視していました。


そうしたら、親戚や私の友人まで動かし始め、自分も考える態勢になってきます。


いよいよ、会社の一部所有物が押さえられる等、問題が深刻化し、会社を辞める前に、父と、前回のようなことの無いように念を押し、会社を退職します。このあと3ヵ月後、この会社は一度解散します。


父と運営も、やはり意見はあいません。

これが置きうることがイヤで家業の継承はためらっていたものです。


そして、母が急病で倒れます。

倒れた時に、父は取り乱し、更にいろいろ意見が合わなくなり、追い出されるような形で家から離れることになります。


このとき、カミサンはお腹の中に子供が居ます。

里帰りし、戻っても、無職の私に嫌気をさし、再び田舎に帰っちゃいます。


そんなこんなしているうちに、前職から「戻って来い」の話があり戻ります。


しばらくは、独りで会社の倉庫みたいなところで生活します。

すごく惨めでしたが、なんとか生活はすることはでき、この会社で働きました。


だが、再び、会社倒産の危機にさらされ、これはちょっと考えなきゃというときに、宅地建物取引主任者の試験を再度受け、合格します。


引き抜きもあったんですが、ますます転職モードになっちゃいます。


ただ、免許には過去の在職証明が必要で父にその証明を書いてもらう時に「戻らないか?」に返事をしてしまいました。


会社を辞め、家業に戻りますがちょっと軽率でしたね?自分が。


父は潔く、離れ私が代表になります。


痴呆の入った母と2人でただひたすら前を見て進んだつもりです。

3年くらいは午前様でした。


で、気がついたら無気力になり、店を数日開けることが出来なくなりました。


これが精神科に再度通うことになるきっかけです。


燃え尽きた症候群という言葉が流行りましたが、まさにそれでしょう。


何にもできなくなっちゃいました。


また、この少し前から、「金縛り」「無呼吸」の治療を受け、無呼吸症候群の病名もつき、これの治療もしていました。


何を言いたいか?


精神的疾患は単発的なことでは起きないということです。

自分が生まれ育った環境、長く持っているストレス、睡眠障害などが重なり、ガス欠になるということです。


心身が不調の方、自分を見つめなおしましょう。

きっと蓄積した原因があることが判るとと思います。


まさに、燃え尽きた(バーンアウト)と、年齢から来る精神力、体力の衰え、そして、私の場合は長らくあった睡眠障害。


何もなければガス欠などは起きません。


きっと辛いものが長く連れ添うことにより、発生するのでしょう。


自分の決断力や舵取りの失敗に自分を責めました。

生きてゆくことも辛く感じます。


でも、それはダレが悪いとかよりも、すでに自分に限界が来ていることなんでしょう。

ここで、もう一ふんばり!なんて考えると、本当にガス欠どころか廃車に追い込まれます。


自分を見つめなおし、そして、それが苦痛であれば病院などに通い少し自分をリフォームすべきでしょうね?


今のわたしは、まさにその通りの状態なんでしょう。


やっと自分を見つめなおす心の余裕が出てきたからこういうことをブログにも書けるのでしょうが、自分が情けなく何十年も自分が嫌いでたまりませんでした。

でも自分だけの問題でないこともたくさんあります。だからこそ、本当に自分が悪いのか?何が悪いのか?どうすれば気持ちが治まるのか・・・


冷静に考えるのが大切なんでしょう。それが、いまの自分の状態だと思います。






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26歳の自分

2010-08-26 09:55:25 | Weblog
大学卒業後、とんでもない会社に入ってしまし、僅か4ヶ月で退社します。

飛び込み営業で、対抗するライバル会社とのトラブルが絶えなく、過去に多くの「死傷者」を出し、改善命令がでたことがあると、後に知りました。

私自信も相手側と取っ組み合いをし、シャツビリビリで会社に戻ったことがあります。

更には、公共物無断使用で業務停止、自分の見込み客は全部上司が持ってゆくなど、滅茶苦茶な組織に耐えられず、最後は上司とモメ、退社。


本部からは退社後に「受理拒否」の連絡が入り、所属転換での慰留もあったのだが、すでに自分についた、社会の厳しさが離れず、受けずに退社。


その後、カード会社の「代理委託業務」契約を結ぶも、最初は手取り50万円あったものの、度重なる業務変更や、終わっているの遡ってノルマをつけたり、法外なことが多く、最後はフルコミッション、ツールの買取強要などで、借金を作ってしまい、これも約2年で解約。


これはかなり心の傷となり、以後、就職に対し、不安を感じます。


自信をなくした私は、夜勤の荷物仕分けのアルバイトをしますが、このことがいろいろ問題になります。

母は、厳格な父に恐れ、「仕事やめたことを」父に言うなといいます。
それは、もし知れたら、母に八つ当たりをするからなんですね。


それで、やったことは・・・

夜勤なんで・・・
18時半~5時半が定時。

6時から、父が家を出る8時まで外に隠れ、18時、父が戻る少し前に家を出る。


これ、半年やったら、頭おかしくなり、友人から「お前おかしいぞ」と指摘され、友人の車で初めて「精神病院」に行きます。

「うつ」の診断がくだされました。


これが初めての「うつ」です。

就職活動しても、何か妨害が入ったり、車は連続していたずらされる、バイクは盗まれるなど、この通院を始めた頃、よからぬことが沢山おきます。


昼夜逆転なので寝れない、朦朧としている。


友人が悪遊びを誘います。

テレクラでも言って女友達でも作ったら?


つきあってもらって、そのテレクラに行きます。

なんか、凄い陰険な場所。でもアポが取れ、知り合います。



だが、しっかり「病気」が移されてしまい、これまた、心にダメージを与えます。

精神科に性病科・・・洒落になりません。


根本的な生活リズムの改善が必要だと感じ、夜勤を辞め、友人の紹介でちゃんとした会社に入り、いつしか、病院も通院が終わってました。


この年はいろいろありすぎ、いまだに、一番辛かった1年と思います。

今の「うつ」状態より辛かったかもしれない。


やればなにか失敗を呼ぶ。

なので、友人からは外に出るからいけないんだよ、家でじっとしろ!といわれるも、父には仕事やめた事を内緒にしている。だから外に居なきゃいけない。


毎日、世の中が灰色に見えたものです。


父には後年、このことは告げました。母が倒れた時にです。

些細なことで口論になり、その時に、いままで、父の顔色見ながら家族が過ごしてきたことを激しく伝え、大口論に。

まあ、とにかく、自分が舵取れないのが悪いのですが、あまり平穏な人生を送ってはいませんね。


その後、いろいろと家庭をめぐるトラブルが多発し、今から3年前、本当にギブアップ!という気持ちになります。


次回は、2度目の「うつ」と、なんでこんなことを書いていったかを書いて、この人生の振り返りは終わりにします。

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18歳の自分

2010-08-24 09:17:32 | Weblog
大学を希望し、浪人生活が始まります。

勉強嫌いだった自分が勉強しても、そのやり方を間違っている為に、ある一定のレベルまでは行きますが、それ以上が望めません。

今は国家試験など受けても、勉強方法が違う為、なんとか資格が取れますが、当時は勉強=暗記と思い込んでいた為に、限界というものが来ます。

暗記だけに頼らず、予習復習の繰り返しが勉強の基本でしょう。そして、そうすることにより、「覚える」のでは無く「体得する」が早道です。



浪人時代には一生懸命にやったつもりも、実になりません。

また、悪夢や金縛りも激しく掛かり、段々苦痛になります。


18歳の秋、全く無気力になります。

食欲不振、睡眠障害、脱力感など・・・。


外に出るのも億劫。

10月から12月まで、一番大切な時期に、何も出来なく引きこもってしまいました。

やっとの思い、11月頃から、せめて、散歩でもと思い、予備校までは行くが授業を受ける気になれない。

代々木から渋谷まで散歩することにします。


それを何回か繰り返すうちに、やる気が出てきます。


しかし、12校受けるも全滅。2浪になります。



その少し前、1月だったと思います。

まだ、馬力も完全でない時、その日も一日ゴロゴロしていました。


昼寝から覚め、何気にNHKをつけると、相撲がやっていました。

S56年1月場所。


相撲は幼いころ、好きでしたが、しばらく観ていません。


取り組みは黒姫山ー青葉山。

あれ?もうそんな時間??そう思ったのは、幼いころは、この2力士は三役に居て、オオモノ食いで知られていました。なので、幕内の中盤~後半だと思ったんですね。

で、場内アナウンスを聞くと、「黒姫山、西十両筆頭・・・十両最後の一番です」


え~~?十両に落ちていたんだ???


確かに、相撲に気が入っていません。


青葉山は塩を大量に撒く力士でしたが、その量が少なくなってます。


あっけない相撲で終了。


杉山アナが、精彩が欠けた2人です。青葉山は糖尿などで不調の解説がありました・・・



俺って、そういう病気かな?この倦怠感は・・・


そう思い始めました。



2浪し、最初こそ頑張れたものの、5月頃から再び不調。


青葉山もどんどん番付落とし、黒姫山もこの場所だったかな?引退します。

私は友人の影響もあり、パチンコに嵌り始め、勉強もしなくなります。



あまりにも出てくる毎日の倦怠感、金縛りにかかりつけの内科で診てもらいますが、「貴方には霊はついていないよ」という診断(汗)

ただ、先生が仰ったことは、精密検査は異常ないので、精神面だと思います。

「うつ」などの可能性があるので、あまりにも長引くようならば、紹介状書くから診て貰いなさいでした。


親に相談しますが、「精神病院なんて、みっともない、世間のハジ」などといい、行かせてくれませんでした。


自分がそこまで行きたいと思うくらい、辛かったことに、それを押し切ってまで精神科に行く意志が無かったのでしょう。


このときに、診て貰っていたら、その後現れる、精神的な悩みも多少は抑えられていたのかもしれません。


ただ、今のようにまだ、「うつ」が病気としての確立が完全なされていない、金縛りは病気でないという時代です。

そして、精神科に行くことがとても恥ずかしい時代です。

放置する原因にもなったんでしょうね?



大学は、希望大学ではありませんが、進学すること出来ました。


しかし、大学4年間も、なんかやる気の無い4年で終わり、バブル期の良い時代に、うまくその波に乗れなかったため、その後、生活面でいろいろな悩みにぶつかります。

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14歳の自分

2010-08-22 09:41:15 | Weblog
早生まれなので14歳で中学3年。

受験です。


しかし、先生からは「行ける高校は無い」と言われ相談に乗ってくれません。

それは、鼻ッから公立を諦め、私立に絞ったことが気に入らないようでした。


5段階で、英数国は4-3-3。ただ、他のもので1や2がありました。

勉強はついてはいっていませんが、3教科に限り、人並みでした。


そして、その秋、いける所が無いといわれ、14歳にして就職活動を「させ」られます。


近くの工場にアポを取り、服装、しゃべり方を指導され、ただ、友人が見てられないとつきそうに来てくれます。


今となれば非常に良い経験でしょうが、当時は屈辱でした。


やっと、高校受験も相談に乗ってくれ、そこからは担任も親身ではありましたが、希望じゃない高校に入ることになります。


これがカンフル剤になり、この学校で終わらせたくないという気持ちが沸き、この辺から勉強嫌いからは脱出することにおはなります。


県最低のレベルの私立学校。不良の集まり。

3年生の時は、2年のときに、「生徒会会長」を断ったという理由で、問題児だけのクラスにいれられます。

なんか、先生からも相当嫌われてましたね。


3年になり、クラス替えのとき、あまりにも怖い教室に、ものの数秒で出てきます。
怖いので教室に入れない。

新担任が来て、早く入れというので、友人数名と怖くて入れませんというと、とにかく入れというのでしぶしぶ入ります。

家に戻り、高校を辞めたいということで、親に相談し、親が学校に相談しますが、学校は何かあったときはしっかり見ますからという回答。

でも、「食わず嫌い」だっただけで、次の日、おっかない仲間は返って気を遣い、いろいろ話しかけてくれます。

「俺のことビビッる?怖くないから優しいからよろしく!」だって。


授業は滅茶苦茶でした。まさに「ごくせん」の3年D組です。

なので、楽しかった(爆)。


でも、とても団結があり、人には悪さしない。

この学校らしい「悪」の環境を良い意味で体験し、卒業時には浪人決まっている私に「絶対に大学入れよ!」と言ってもらったもの。


無事高校は卒業し、浪人生活に入りますが、ここで、いろいろまた出てきます。

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9歳の自分

2010-08-20 23:06:23 | Weblog
借家住まいだったわが家族、家主の勝手な理由により、引越しを余儀なくされます。

今の法律ならば、許されないことでしょう。


たまたま、宅地建物を持っていた父の「別宅?」に引っ越します。

方位を数年前に見てもらったら、これが方位を犯したとも言われましたが、当時はそんなことなどわかりません。

学区外通学となったのので、転校を私は希望するも、親は強引に転校させません。



仕事に忙しく、なおかつ遊びにも忙しい両親。

おりしも、このときにボウリングブームにあり、両親は夢中になります。


おかげで、毎晩零時までつき合わされ、おまけに宿題などやる時間なし。


睡眠不足、勉強不足で、段々と、着いてゆけなくなります。

朝は寝坊の為、朝食は無く、学校では常にボーーッとしている。


そして、この頃から、異常な息苦しさを感じます。

病名は「扁桃腺肥大」

耳鼻科に行き通院するも、よくなりません。


夜は、いつも見る変な夢にうなされ、この頃から呼吸が苦しく眠りがつけません。


さらに、9歳の終わり、金縛りに掛かるようになってからは、益々体調を崩します。

親は、交通事故を起こした後の変調としか見ていませんが、明らかに9歳でありながら、異常に気付きます。


あまりにも苦しく、様子が変に気付いた担任が、家に来ます。

そして病院などをめぐるも、当時は相手にされません。


悪霊が居ないとか、扁桃腺を直せば大丈夫とか・・・


いまの医学なら、この扁桃腺肥大、無呼吸、金縛りですぐに病名が付くでしょう。



ここから、ずーーっと眠れず、朝から不調、勉強が付いていけないなどの悩みが付いてまわります。


この9歳の時も人生の中では重要なことだったんでしょう。


気の強い母は、学校から連絡を受ける内容も、自分風に解釈し、そのため、常に学校で怒られます。

「私服遠足」というのに「体操着」を着させ、違うといっても耳をかたむけない。

「給食がない」という日なのに、弁当を作り忘れたり・・・


遠足でも弁当を入れてくれなかったり・・・
酷い時は弁当箱だけという時もありました。当然イジメに遭い始めます。


親は仕事と遊びに夢中、そんな私を姉や親戚は気遣いますが、気の強い両親は周りが何か言うと、反論してやみません。


辛かったですね。

正論言っても「口答え」としかとられない。


宿題は常にやる時間が無い。


毎日それで廊下に立たされる。


担任までがイジメに入ります。


4年生の私を3年に1日「落第」させます。


そのことが中学卒業まで、バカにされましたね~~~


ちっとも楽しくない小学校でした。


担任も怖い先生が3年から6年まで同じだし・・・。


辛いのは身体も。


とにかく、体育は体力が無く付いてゆけず、頭も全然回らない。


夜は悪夢にうなされる・・・・・。


9歳ながら「人生が辛い」と感じたもの。


体育は苦手、勉強は落ちこぼれ・・・


唯一の楽しみはなぜか熱帯魚と園芸。


学区外で普段はボウリング場、家に帰ってもだれも遊びに来ない。


たまたま、祖母が留守番していたので、熱帯魚の餌と園芸の水は見てもらっていましたが・・・。

そういう孤独な趣味しかもてなかったんですね。


祖母もボウリングについてはかなり母に言及していましたが、とにかく毎日ボウリング。

そして、外食。


さすがに10歳のころからは姉や祖母がみてくれるようにはなりましたが、完全、学力体力は置いてきぼりになりましたね。


つら~い少年期の始まりでした・・・。


次はもうちょい大きくなった自分を。


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6歳の自分

2010-08-17 15:37:17 | Weblog
とにかくこの歳は悲劇な年でした。

年頭に、近所のおじいさんが亡くなりました。

亡くなるちょっと前に消防車の模型を作ってくれました。

なので、急死は6歳ながらショックではありました。


そして、この年より、30歳まで毎晩同じ夢を見るようになりました。

同じ夢は3種あるんですが、あとでまとめます。


2月の頭でした。このころは自宅と事務所が別で、殆ど自宅に一人でいたものです。

2月の頭、間違い電話が掛かります。

これが何十と何時間も続きます。おかげで事務所には電話できない、近所の親戚にも電話掛けれない。怖くて出かけようとしたときに、押し売りが来て、親が帰るまで待つというのです。

どうにもすることができなく、泣いていたらお巡りさんが来て、その押し売りを排除してくれたのですが、間違い電話はずーーっと続き、お巡りさんに出てもらうことに。

これで、解決したんですが、この前に進めないこと、人の妨害が入ることに凄く恐怖心を感じ始めました。


2月11日。建国記念日。

この日はめずらしく、姉がいました。

友達も来るというので、この日だけはなぜか事務所につれてゆくと母親が言うのですが、とても行きたくない気持ちで引きづられるように行きました。

姉は居ていいと言ってくれたのですが、信念を曲げない母親は連れてゆきます。

しかし、この日、忙しいようで、父親は私が来たことに機嫌が悪いです。

昼ごはんも食べれないで、いたたまれない気持ちだったので、裏の友人と文房具屋にいくことにします。


ここで、悲劇が。


横断歩道を渡ろうとすると、車が左から走ってきました。

止まりそうなかんじなので、渡りかけたら、加速して私は跳ねられてしまいます。

友人は私を助けず逃げてゆきます。

立ち上がろうとしても骨折し、目は頭から出る血で見えません。

怖かったです。

音で慌てて両親が飛んできますが・・・。



近くに外科がありそこに運ばれますが、休診。

ここで、救急車が来ます。


人だかりができる、なんだかよくわからない。

もうダメだと思いました。


救急隊が「坊や大丈夫だからね」と励ましますが、この責任をめぐり、救急車の中で夫婦喧嘩が始まり、大声で「ぼくが悪いんだから喧嘩しないで!」と叫んだ記憶があります。

なんか全て僕が悪いんだ・・・そう思いましたね。



大手術のうえ、全治1年の大怪我。


幼稚園も卒園できず、入学式も行けない。

とても辛い年でした。


この前年、「3億円強盗事件」がありました。

ラジオはその話題ばかり。これがずーーっと自分の頭から忘れないことになります。


つまり、この頃から同じ夢を見るのは、今話した3つの事件に関わる物。


1)作ってもらった消防車が先に居ます。自分はその消防車に向うのですが、風船のように丸くなり、消防車までたどり着くと、梯子の上から飛ばされ、段々小さくなり元に戻ります。そこは横浜市内にあるあまり自分には縁のない公園。
こういう意味不明の夢が1つ。

2)間違い電話が掛かる為、やろうとすることが出来ず、前に進めず1日が終わってしまう夢。

3)3億円強盗事件の白バイの少年が、私を追っかけてくる夢。


この3つを毎日、30歳くらいになるまで、実に24年も見続けます。


これは後に、精神医に相談したことがありますが、こういう夢を見るため、退院後脳波の検査などをするも異常なしと診断。


この変な夢に毎晩うなされるようになります。


こんな年で、2学期から学校通うも、授業は追いつかない、体育は足に金属が入っているので見学。


スタートから思い劣等感を背負いの小学校生活が始まります。




これはいまだに人生にとっての不要な出来事でしたね・・・。
でも、それを引きずった自分を後年責めたものです。


幼い頃にいろいろと辛い思いをしますが、なんか人生は山アリ谷アリというが、常に谷に感じていたのもこの頃からですね・・・。

次も小学生の頃のことかな。その年も転機だったのかも??

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3歳の自分

2010-08-13 10:44:18 | Weblog
2歳の頃からの頭突き、我の強さなどを親は気にし、3歳のときに、「お灸」をすえられます。

「お灸」=まさにホンモノのお灸でした。

忘れもしない3歳のときの夏、夜の9時でした。


それまで、「第三京浜国道」で時間をつぶされ、当時は銭湯が当たり前だったので、銭湯に行き、そおして、近所の灸ができるおばあちゃんに灸をされます。


恐怖、暑さがよぎり、今でもあの恐怖は思い出します。


そして、それでも治らないのので、疳の虫に効くという薬をふりかけとともにご飯に掛けられ、強引に食べさせられたもの。


この頃から、大人が怖くなり、言うことは聞いていたものと思います(笑)

また、この時に行った「第三京浜国道」が怖く、そこを走るだけで泣いていたようです。


なぜ、この話題、このような恥ををさらけだすのか?



実は、大学、社会人と経るにあたり、いままでの精神不安定の謎がわかってきたからなんです。

3歳のときの疳の虫(かんのむし)は、いろいろの説がありますが、所謂精神疾患と言われます。

セロトニンの正常な分泌ができない、睡眠障害、そして、水分などの不足で発生しやすいという記事を読みます。


まさに、それじゃん?セロトニンの異常!・・・うつ病の典型的な症状(大汗)
そのときの生活は、これにあてはまります。

このときから、実は精神的な何かがあったんでしょうね?



疳の虫は実際それが身体につき、悪さする・・・あるいは、回虫などが悪さするなどの説もあり、これも肯定されています。

なので、こういうこともあったんでしょう。

ただ、誰のせいとかにはできませんが、3歳という幼児期にしては、結構厳しい経験をしていたのでは?とは思います。

とても厳しい親でした。ただ、自分を生んでくれた親だからこれも親の愛情ととるべきでしょうが、最初にうつ病に掛かった時は幼少時のなにか虐待的なものがあったとか?登校拒否などがあったかの質問はありました。


この時期はまだ精神的な安定は当然に無いでしょうが、悪く言えば、家が自営をしていて、かなり、裏の部屋で放置されていたことは事実で、この自営業のことでの生活への影響は以後もあり、振り替えながらも姉や親戚からはこの仕事に関しての環境を良くないことだったと言うものです。


今は自営を継いで7年経ちますが、この継ぐことにも相当悩み多きものでした。


継いだら継いだで、全く経営がなっていない状態に苦しんでいるし、どうもこの自営が良かれ悪かれ、自分の生活に大きな影響を与えていたことと、いつしか、思うようになったものです。


自分にとって転機と思われるときのことをしばらく書きます。
次は「6歳の自分」です。



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2歳の自分

2010-08-11 00:30:41 | Weblog
過去の事はあまり振り替えたくないけど、今の心身不調は幼い頃から原因はあつたものと判断をするのと、自分を振り返る余裕が少し出てきたのえ、今までに自分に降りかかった不思議なことなどを書いてゆきます。

2歳の自分? 2歳の記憶なんてあるんかい?

まあ、辛いことなどは刻印し、記憶に残るのでしょう。


2歳の時、すでに自傷行為がありました。

家が自営の為、忙しい時は放置されます。

なので、お腹がすいた、トイレに行きたいということを意思表示したくても、言葉をい覚えていないから、声は出ません。泣くしかありません。本能えすよね?


でも、仕事が忙しい両親はかまいません。


そんなとき、とても辛くなり、大人の心で表現するには「生きてゆくのが辛い」というのに当てはまるんでしょう。


柱に頭を頭突きし、血まみれになるまえそれを続けました。


そうすると、親は逆切れし、体罰を与えます。


鮮明に覚えていますが、とにかく、辛い、思い通りにならにことにも辛い。

思い通りと言っても、お腹がすいたとかそういうことですからね~~~




とても辛かったです。2歳なのに。


で、こういう自分にお灸がすえられます。


それは3歳の自分で書きます。



家庭環境や育ちの中になにかしくじったポイントはあるはず。

恥じしのぎ、人があまり体験しない特異なことを書いてゆき、結論は「睡眠障害」に至るまでということになるでしょう。


参考になるようなこともあると思うので・・・。

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