<ルネの変声>
ルネが来るべき変声期に備え、様々なジャンルの曲に挑戦したり、ヴォイス・トレーニングを積んでいたことは、日本のファン・クラブ「メープル・メイツ」の会報にも記載されておりました。
ルネの日本の曲に「サヨナラ少年時代」という曲がありますが、少年時代の声は必ず失われるもの。だからこそ、繊細で美しく特別なもの。ルネの「天使の歌声」が失われてしまう時がいつ来るのか、変声後はどんな声に変わるのかは、当時のファンにとっても私にとっても、不安と期待の入り交じった最大の関心事だったと思います。
そして、その時が来たことは、1975年 7月 1日に発売された「去年の夏」で明らかになります。サビの高音部はそのままでも、低音部は変声が始まってハスキーな声に・・・・!私は、ついにこの時が来てしまったと、レコードを聴きながら泣きました。でも、変声してもずっとルネ・ファンでいようと固く誓ったのでした。
しかし、不思議なことに、その後発売された「みんなあなたに」(1975. 9.21)と「第21回モントリオール・オリンピック大会テーマ曲モントリオール讃歌」(1976.7.21)は変声前の声でした。
<モントリオール・オリンピック>
モントリオール・オリンピックの開会式でルネがテーマ曲の「モントリオール讃歌」を歌うことを、ファン・クラブ情報で知っていた私は、早起きしてテレビにかじりついていました。でも、それを見ることは出来ませんでした。新聞にその記事が載るのではないかと、オリンピックの関連記事は隅々まで目を通しましたが有りませんでした。その後、ファン・クラブの会報では開会式でルネが歌ったという記事を載せていましたが、全国紙のものではありませんでした。しかし、日本であれだけのブームを巻き起こしたはずのルネが歌うというのに、あまり話題になっていなかったのは事実です。
モントリオール・オリンピックでは、女子体操のナディア・コマネチが史上初の10点満点の演技で話題をさらい、一躍スターになりました。コマネチがルネに似ていると、非公認の福岡のファン・クラブでちょっと盛り上がって、ルネを見られなかった鬱憤を晴らしていましたが・・・・。
<ルネのドーピング疑惑>
その後、「メープル・メイツ」もカナダのファンクラブも閉鎖してしまい、ファン活動のエネルギーをもてあましていた私は、友人とルネの来日を呼びかける署名活動を始めます。
その友人は、当時流行った「ちびっ子物まね歌合戦」の関西地区チャンピオンで、「ルネの再来」を売りにデビューする予定でした。「スチュワーデス物語」で一世を風靡した堀ちえみと同期でデビューする予定でしたが、ヴォイス・トレーニング中のどを痛めデビューを断念。しかし、芸能界にコネがあり、その関係で私もルネの妹ナタリーと会うことが出来たのでした。
彼女が芸能界のコネクションを使ったのが良かったのか、署名の効果か、はたまたただの偶然かは分かりませんが、ルネは東京音楽祭世界大会の特別ゲストとして招かれ、私も彼女と共にアルファーレコードに行きました。しかし、私はルネには会えずじまいでした。(もちろん彼女の方は東京音楽祭に行き、ルネと空港で会っています。)
その時、彼女から聞いた情報が「ルネのドーピング疑惑」。彼女は芸能関係者から「ルネはホルモン剤を使って変声を遅らせたのに、それでも好きなのか」と言われたそうです。確かに前述の「去年の夏」以降に発売された2枚のシングルは変声前の声でした。
今でこそ違反行為で大問題ですが、当時のスポーツ界で「外国の女子体操選手が男性ホルモンの注射をして成長を遅らせている」ということは当たり前のように報道されていましたし、ドーピングで金メダルを剥奪されたベン・ジョンソンもカナダ人。責任感が強く、歌手としてのプロ意識が人一倍強かったルネが、モントリオール・オリンピックを前に変声してしまった時、ホルモン剤を注射することに踏み切る決断を下したのは、火を見るより明らかな気がして、私は複雑な気持ちでした。
しかし、このブログを始めてから入った情報では、ルネのごく身近なスタッフの話によると、ルネの変声はとても緩やかに訪れたのだそうです。変声というと、ある日突然いきなりやってくるイメージがあります。そのため、「ドーピング」の噂が日本の音楽関係者の間で流れたのでしょう。また、オリンピックがモントリオールで開催されることは、前大会の開催前から決まっていることですから、テーマ曲も、それを歌う歌手も、早くから作られたり審議されているはずです。日本で発表される曲の順番が入れ替わっても不思議はありません。やはりルネは、ドーピングなどしていなかったのだと、私は確信しました。
今でも現役のルネ・ファンの私にとって、今では懐かしい思い出ですが、このブログを読んで、あなたはどう思われましたか?
ルネが来るべき変声期に備え、様々なジャンルの曲に挑戦したり、ヴォイス・トレーニングを積んでいたことは、日本のファン・クラブ「メープル・メイツ」の会報にも記載されておりました。
ルネの日本の曲に「サヨナラ少年時代」という曲がありますが、少年時代の声は必ず失われるもの。だからこそ、繊細で美しく特別なもの。ルネの「天使の歌声」が失われてしまう時がいつ来るのか、変声後はどんな声に変わるのかは、当時のファンにとっても私にとっても、不安と期待の入り交じった最大の関心事だったと思います。
そして、その時が来たことは、1975年 7月 1日に発売された「去年の夏」で明らかになります。サビの高音部はそのままでも、低音部は変声が始まってハスキーな声に・・・・!私は、ついにこの時が来てしまったと、レコードを聴きながら泣きました。でも、変声してもずっとルネ・ファンでいようと固く誓ったのでした。
しかし、不思議なことに、その後発売された「みんなあなたに」(1975. 9.21)と「第21回モントリオール・オリンピック大会テーマ曲モントリオール讃歌」(1976.7.21)は変声前の声でした。
<モントリオール・オリンピック>
モントリオール・オリンピックの開会式でルネがテーマ曲の「モントリオール讃歌」を歌うことを、ファン・クラブ情報で知っていた私は、早起きしてテレビにかじりついていました。でも、それを見ることは出来ませんでした。新聞にその記事が載るのではないかと、オリンピックの関連記事は隅々まで目を通しましたが有りませんでした。その後、ファン・クラブの会報では開会式でルネが歌ったという記事を載せていましたが、全国紙のものではありませんでした。しかし、日本であれだけのブームを巻き起こしたはずのルネが歌うというのに、あまり話題になっていなかったのは事実です。
モントリオール・オリンピックでは、女子体操のナディア・コマネチが史上初の10点満点の演技で話題をさらい、一躍スターになりました。コマネチがルネに似ていると、非公認の福岡のファン・クラブでちょっと盛り上がって、ルネを見られなかった鬱憤を晴らしていましたが・・・・。
<ルネのドーピング疑惑>
その後、「メープル・メイツ」もカナダのファンクラブも閉鎖してしまい、ファン活動のエネルギーをもてあましていた私は、友人とルネの来日を呼びかける署名活動を始めます。
その友人は、当時流行った「ちびっ子物まね歌合戦」の関西地区チャンピオンで、「ルネの再来」を売りにデビューする予定でした。「スチュワーデス物語」で一世を風靡した堀ちえみと同期でデビューする予定でしたが、ヴォイス・トレーニング中のどを痛めデビューを断念。しかし、芸能界にコネがあり、その関係で私もルネの妹ナタリーと会うことが出来たのでした。
彼女が芸能界のコネクションを使ったのが良かったのか、署名の効果か、はたまたただの偶然かは分かりませんが、ルネは東京音楽祭世界大会の特別ゲストとして招かれ、私も彼女と共にアルファーレコードに行きました。しかし、私はルネには会えずじまいでした。(もちろん彼女の方は東京音楽祭に行き、ルネと空港で会っています。)
その時、彼女から聞いた情報が「ルネのドーピング疑惑」。彼女は芸能関係者から「ルネはホルモン剤を使って変声を遅らせたのに、それでも好きなのか」と言われたそうです。確かに前述の「去年の夏」以降に発売された2枚のシングルは変声前の声でした。
今でこそ違反行為で大問題ですが、当時のスポーツ界で「外国の女子体操選手が男性ホルモンの注射をして成長を遅らせている」ということは当たり前のように報道されていましたし、ドーピングで金メダルを剥奪されたベン・ジョンソンもカナダ人。責任感が強く、歌手としてのプロ意識が人一倍強かったルネが、モントリオール・オリンピックを前に変声してしまった時、ホルモン剤を注射することに踏み切る決断を下したのは、火を見るより明らかな気がして、私は複雑な気持ちでした。
しかし、このブログを始めてから入った情報では、ルネのごく身近なスタッフの話によると、ルネの変声はとても緩やかに訪れたのだそうです。変声というと、ある日突然いきなりやってくるイメージがあります。そのため、「ドーピング」の噂が日本の音楽関係者の間で流れたのでしょう。また、オリンピックがモントリオールで開催されることは、前大会の開催前から決まっていることですから、テーマ曲も、それを歌う歌手も、早くから作られたり審議されているはずです。日本で発表される曲の順番が入れ替わっても不思議はありません。やはりルネは、ドーピングなどしていなかったのだと、私は確信しました。
今でも現役のルネ・ファンの私にとって、今では懐かしい思い出ですが、このブログを読んで、あなたはどう思われましたか?