引き続き、2月中に読んだ新書本4冊の紹介を。今度はどちらかというと、現代日本社会のあり方を考える新書本ですね。
ちなみに読んだ本の紹介をブログで行う時に、この方法のほうがいい感じでまとめられそうだと思ったら、今後も4~5冊まとめてブログに記事を書く方法をとりたいと思います。単発で今まで1冊1冊紹介してきましたが、けっこうめんどうに思う時があるので。
<2245冊目>
金菱清・大澤史伸『反福祉論―新時代のセーフティーネットを求めて』(ちくま新書、2014年)
この本は内容よりも、「タイトルのつけ方」に違和感を覚えた。
内容はむしろ私が読んだ限り、「福祉や社会保障の「制度的(政策的)限界」というものをどう見極めて、その「枠の外」に出てしまう人びとの暮らしをどう支えていくのか?」ということと、「その「枠の外」に出てしまう人びとの暮らしを支えていく具体的な実践のなかから、本来の福祉的な実践がはじまってくるのではないか?」ということ、この2点を論じた本のように思う。
たとえばかつて在日朝鮮人の集落が伊丹空港に隣接する土地に「不法占拠」のようなかたちでつくられたが、そこに暮らす人々が行政と交渉して立ち退いていく経過をまとめた章だとか。あるいは、たとえば障害者、高齢者、児童福祉、生活保護等々の制度で縦割りになった福祉施策の網の目からこぼれおちるようなニーズをあえて拾っていくために、社会福祉法人化せずにNPOとして活動している団体のことを書いた章だとか。他にも、横浜寿町でキリスト教の伝道をする団体が、さまざまな福祉ニーズを持つ人々と福祉諸制度を「つなぐ」役割を果たしていることを扱った章だとか。そして、東日本大震災で被災した漁村が、あえて「船を沖に出す」ことで津波から船を守り、ワカメ養殖に村をあげて取り組むことで復興を果していくことを綴った章だとか。いずれも、既存の福祉諸制度・施策の枠から「外」に出ているような営みではあるけれども、人びとの暮らしを実際に支えてきた営みのように思われる。
だから「反福祉」ではなくて、「制度にもとづく福祉の限界と本来の福祉的実践の関係」を考察したものである。もちろん、「制度にもとづく福祉」の限界を問うという意味では、「反福祉」とは言えなくもないのだが。でも、やはり何か誤解を招くタイトルのように思ってしまった。
<2246冊目>
金子勝・児玉龍彦『日本病 長期衰退のダイナミズム』(岩波新書、2016年)
経済学者と医学(生命科学)の研究者との共著で、日本社会・経済が長期低迷から衰退に至る悪循環のスパイラルについて考察した本。
たとえば景気低迷する経済の現状に対して、誤った事実認識に沿って、誤った方法を用いて景気刺激策を用いると、一時的には景気指標は回復しても、長期的にはより状況は悪化しかねない。それは医学の世界で、誤った病状診断にもとづいて、誤った治療法(投薬等)を行うと、かえって病気が悪くなるのと似ている。こういうかたちで、医学(生命科学)の世界で論じられていることにヒントを得ながら、日本経済の現状と課題について考察を深めていこうとしたのが、本書である。
それこそ、景気回復が遅れていること=構造改革が立ち遅れていることと考えて、次々に規制緩和や行政改革などの「構造改革」を推進するとか。あるいは、景気指標の回復が思ったよりも伸び悩んでいること=市場に出回る資金量の不足と考えて、なおいっそうの金融緩和策をとるとか。こういったことが、「誤った事実認識に沿って、誤った方法を用いて景気対策や経済政策を行っている」と考えられる例になる。
これに対して、本格的な内需拡大策であるとか、あるいは庶民生活の向上をはかるような施策として、たとえば教育や福祉、社会保障に関する政策の充実をはかり、庶民にお金が行きまわるようにする。庶民生活に直接お金がいきわたることを通じて家計消費の拡大をはかり、庶民生活に密着した産業が発展し、徐々にさまざまな物品・サービスの需要と供給が釣り合うようにしていく。そういう政策のすじ道がありうることも、この本から読むとよくわかる。
そして、こういう本書のような立場からすると、アベノミクスなんてとんでもない・・・ということになるだろう。
<2247冊目>
新崎盛輝『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書、2016年)
敗戦後日本の政治、特に外交・防衛政策における沖縄の位置づけを歴史的にふりかえり、保守系の勢力も含めた「オール沖縄」で日本政府に対峙する今の情勢ができあがってきた背景をていねいに論じたのが、この本。学生たちにぜひ、読ませたいなと思う一冊である。
特に本書では、「象徴天皇制・非武装国家日本」と「沖縄の米軍支配」とが一体となった敗戦後日本の占領政策のあり方から議論をすすめる。これは「構造的沖縄差別」が、現行憲法と日米安保条約をふまえた日本の外交・防衛政策のなかから、日本政府とアメリカ政府の間で戦後70年にわたってつくりだされ、維持されてきたという著者の問題意識と深く結びついている。特に「非武装国家」としての日本が、日米安保条約によってアメリカにとって「目下(めした)の同盟国」に変化したものの、沖縄社会にとっては、日本政府の外交・防衛の基本的な枠組みは敗戦直後以来、大きく変わっていない。著者のこのような問題意識が本書全体に貫かれているように思う。
また、沖縄社会においても、特に近年、記憶の「風化」の危機にさらされながらも、世代や政治的立場のちがいを越えて沖縄戦の悲劇を継承し、歴史の忘却や歪曲に対抗していこうとしてきた姿も、この本では描かれている。そのような「歴史の忘却や歪曲への対抗」が、いまの政権与党の沖縄に対する政策に対して、保守系の勢力を含めた「オール沖縄」での対抗とつながっていることは、あらためて言うまでもない。
<2248冊目>
危険地報道を考えるジャーナリストの会編『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか―取材現場からの自己検証』(集英社新書、2015年)
2015年1月にIS(いわゆる「イスラム国」)によって殺害されたジャーナリストらのことをふまえて、世界各地の紛争(戦場)地域での取材に携わったジャーナリストらが、危険地取材・報道の重要性とその継続を訴えるために書かれた本。
日本政府の行う外交・防衛政策の結果、たとえば紛争地のPKO活動などに自衛隊が派遣されたとする。その派遣された自衛隊が現地で何をしているのか、その派遣によってかえって紛争が混迷をふかめていないか、等々。そういったことを誰が取材して、誰が紛争地から日本社会に向けて正確な情報を発信し、日本政府の外交・防衛政策の検証を行うのか。
あるいは、今後「戦地」に日本から自衛隊が派遣されたとする。そこで日本の自衛隊が現地の人々に対して行った行為について、あるいは自衛隊員の戦闘状況やそこでの「戦死」者のことについて、誰が取材し、正確な情報を日本社会に伝えるのか。
そうしたことを考えても、現在、我が身を命の危険にさらしながらも、フリーのジャーナリストの方々が取材活動を通じて紛争地域で果たしている役割は、日本社会に暮らす私たちにとって、とても重要かつ大きいものであると言わなければいけない。そのことがよく理解できたのが、本書である。