できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

2245冊目~2248冊目:現代日本社会のあり方を考える新書4冊

2016-02-29 10:00:44 | 本と雑誌

引き続き、2月中に読んだ新書本4冊の紹介を。今度はどちらかというと、現代日本社会のあり方を考える新書本ですね。

ちなみに読んだ本の紹介をブログで行う時に、この方法のほうがいい感じでまとめられそうだと思ったら、今後も4~5冊まとめてブログに記事を書く方法をとりたいと思います。単発で今まで1冊1冊紹介してきましたが、けっこうめんどうに思う時があるので。

<2245冊目>

金菱清・大澤史伸『反福祉論―新時代のセーフティーネットを求めて』(ちくま新書、2014年)

この本は内容よりも、「タイトルのつけ方」に違和感を覚えた。

内容はむしろ私が読んだ限り、「福祉や社会保障の「制度的(政策的)限界」というものをどう見極めて、その「枠の外」に出てしまう人びとの暮らしをどう支えていくのか?」ということと、「その「枠の外」に出てしまう人びとの暮らしを支えていく具体的な実践のなかから、本来の福祉的な実践がはじまってくるのではないか?」ということ、この2点を論じた本のように思う。

たとえばかつて在日朝鮮人の集落が伊丹空港に隣接する土地に「不法占拠」のようなかたちでつくられたが、そこに暮らす人々が行政と交渉して立ち退いていく経過をまとめた章だとか。あるいは、たとえば障害者、高齢者、児童福祉、生活保護等々の制度で縦割りになった福祉施策の網の目からこぼれおちるようなニーズをあえて拾っていくために、社会福祉法人化せずにNPOとして活動している団体のことを書いた章だとか。他にも、横浜寿町でキリスト教の伝道をする団体が、さまざまな福祉ニーズを持つ人々と福祉諸制度を「つなぐ」役割を果たしていることを扱った章だとか。そして、東日本大震災で被災した漁村が、あえて「船を沖に出す」ことで津波から船を守り、ワカメ養殖に村をあげて取り組むことで復興を果していくことを綴った章だとか。いずれも、既存の福祉諸制度・施策の枠から「外」に出ているような営みではあるけれども、人びとの暮らしを実際に支えてきた営みのように思われる。

だから「反福祉」ではなくて、「制度にもとづく福祉の限界と本来の福祉的実践の関係」を考察したものである。もちろん、「制度にもとづく福祉」の限界を問うという意味では、「反福祉」とは言えなくもないのだが。でも、やはり何か誤解を招くタイトルのように思ってしまった。

<2246冊目>

金子勝・児玉龍彦『日本病 長期衰退のダイナミズム』(岩波新書、2016年)

経済学者と医学(生命科学)の研究者との共著で、日本社会・経済が長期低迷から衰退に至る悪循環のスパイラルについて考察した本。

たとえば景気低迷する経済の現状に対して、誤った事実認識に沿って、誤った方法を用いて景気刺激策を用いると、一時的には景気指標は回復しても、長期的にはより状況は悪化しかねない。それは医学の世界で、誤った病状診断にもとづいて、誤った治療法(投薬等)を行うと、かえって病気が悪くなるのと似ている。こういうかたちで、医学(生命科学)の世界で論じられていることにヒントを得ながら、日本経済の現状と課題について考察を深めていこうとしたのが、本書である。

それこそ、景気回復が遅れていること=構造改革が立ち遅れていることと考えて、次々に規制緩和や行政改革などの「構造改革」を推進するとか。あるいは、景気指標の回復が思ったよりも伸び悩んでいること=市場に出回る資金量の不足と考えて、なおいっそうの金融緩和策をとるとか。こういったことが、「誤った事実認識に沿って、誤った方法を用いて景気対策や経済政策を行っている」と考えられる例になる。

これに対して、本格的な内需拡大策であるとか、あるいは庶民生活の向上をはかるような施策として、たとえば教育や福祉、社会保障に関する政策の充実をはかり、庶民にお金が行きまわるようにする。庶民生活に直接お金がいきわたることを通じて家計消費の拡大をはかり、庶民生活に密着した産業が発展し、徐々にさまざまな物品・サービスの需要と供給が釣り合うようにしていく。そういう政策のすじ道がありうることも、この本から読むとよくわかる。

そして、こういう本書のような立場からすると、アベノミクスなんてとんでもない・・・ということになるだろう。

<2247冊目>

新崎盛輝『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書、2016年)

敗戦後日本の政治、特に外交・防衛政策における沖縄の位置づけを歴史的にふりかえり、保守系の勢力も含めた「オール沖縄」で日本政府に対峙する今の情勢ができあがってきた背景をていねいに論じたのが、この本。学生たちにぜひ、読ませたいなと思う一冊である。

特に本書では、「象徴天皇制・非武装国家日本」と「沖縄の米軍支配」とが一体となった敗戦後日本の占領政策のあり方から議論をすすめる。これは「構造的沖縄差別」が、現行憲法と日米安保条約をふまえた日本の外交・防衛政策のなかから、日本政府とアメリカ政府の間で戦後70年にわたってつくりだされ、維持されてきたという著者の問題意識と深く結びついている。特に「非武装国家」としての日本が、日米安保条約によってアメリカにとって「目下(めした)の同盟国」に変化したものの、沖縄社会にとっては、日本政府の外交・防衛の基本的な枠組みは敗戦直後以来、大きく変わっていない。著者のこのような問題意識が本書全体に貫かれているように思う。

また、沖縄社会においても、特に近年、記憶の「風化」の危機にさらされながらも、世代や政治的立場のちがいを越えて沖縄戦の悲劇を継承し、歴史の忘却や歪曲に対抗していこうとしてきた姿も、この本では描かれている。そのような「歴史の忘却や歪曲への対抗」が、いまの政権与党の沖縄に対する政策に対して、保守系の勢力を含めた「オール沖縄」での対抗とつながっていることは、あらためて言うまでもない。

<2248冊目>

危険地報道を考えるジャーナリストの会編『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか―取材現場からの自己検証』(集英社新書、2015年)

2015年1月にIS(いわゆる「イスラム国」)によって殺害されたジャーナリストらのことをふまえて、世界各地の紛争(戦場)地域での取材に携わったジャーナリストらが、危険地取材・報道の重要性とその継続を訴えるために書かれた本。

日本政府の行う外交・防衛政策の結果、たとえば紛争地のPKO活動などに自衛隊が派遣されたとする。その派遣された自衛隊が現地で何をしているのか、その派遣によってかえって紛争が混迷をふかめていないか、等々。そういったことを誰が取材して、誰が紛争地から日本社会に向けて正確な情報を発信し、日本政府の外交・防衛政策の検証を行うのか。

あるいは、今後「戦地」に日本から自衛隊が派遣されたとする。そこで日本の自衛隊が現地の人々に対して行った行為について、あるいは自衛隊員の戦闘状況やそこでの「戦死」者のことについて、誰が取材し、正確な情報を日本社会に伝えるのか。

そうしたことを考えても、現在、我が身を命の危険にさらしながらも、フリーのジャーナリストの方々が取材活動を通じて紛争地域で果たしている役割は、日本社会に暮らす私たちにとって、とても重要かつ大きいものであると言わなければいけない。そのことがよく理解できたのが、本書である。



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2241冊目~2244冊目:リスク・コミュニケーションや不祥事対応のあり方を考える新書4冊

2016-02-29 08:45:34 | 本と雑誌

今度も2月中に読んだ本のなかから、主に新書本4冊を紹介します。

今回紹介する4冊の新書本は、どれもリスク・コミュニケーションや不祥事対応のあり方を考えることにつながる本ですね。

<2241冊目>

佐藤健太郎『「ゼロリスク」社会の罠 「怖い」が判断を狂わせる』(光文社新書、2012年)

この本は主に食品や医療・健康の領域での事例を取り上げつつ、「ゼロリスク」を目指すためのリスク回避のさまざまな営みが、かえって別の形でのリスクを招きこんだり、膨大なコストを生じさせて、かえって人々の暮らしを不自由にしたり、困難に直面させている例があることを紹介している。

なぜそうなってしまうのか? その背景として、著者は「人はリスクを読み誤る生き物」(24頁)という観点から、たとえば「嫌いなものは、間違っている(はずだ)!」というバイアスなど、人びとのリスク認知にかかるバイアスの存在を指摘する。また、著者はマスコミがリスクに関する情報を「商品」として流通させるために、そのセンセーショナルな報道が人びとの感情をあおってしまう傾向や、ネット上でのリスクに関する情報は同じような考え方を持つ人どうしで増幅される傾向があることなどについても指摘する。

こうした傾向は、昨今の一連の「組立体操(通称・組体操)」問題についても言えることではないか。

つまり、「危険な組体操」なるものを指摘する言説(この時点で、それを指摘する人自身の「(学校教育がやっていることで自分が)嫌いなものは間違っている(はず)」という思いこみが反映している危険性あり)が、ネットやマスコミなどでセンセーショナルに取り上げられ、そのことを疑問視したり不安に思う人びとの感情を煽り、同じような考え方・感じ方をする人どうしで増幅してしまい、あたかも「すべての組体操=危険」という流れを作ってしまったのではないか、と思われるのである。

こういうリスク・コミュニケーションに関する議論を学べば学ぶほど、一連の「組立体操(通称・組体操)」問題に関する言説の「おかしさ」がいろいろと見えてきて、「安易にあれに乗らずによかった」と思う今日この頃である。

<2242冊目>

岩田健太郎『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』(光文社新書、2014年)

今度は感染症対策を専門とする医師の立場から、「感染症パニック」を防ぐためのリスク・コミュニケーションのあり方について論じた本。

ちょっと編集のしかたが気になるというのか、「第一部」「第二部」ならわかるのだけど、リスク・コミュニケーションのあり方をていねいに論じた章(第一章)と、具体的な感染症流行の事例を取り上げて「こういう説明をすべき(だった)」と論じた章(第二章)との分量がアンバランスなように感じた。

ただ、内容はとても興味深いもの。特に第一章での感染症流行を例に取上げながら、医学的なリスク情報の発信のしかたについて具体的に説明したところは、今後、学校事故・事件に関する情報発信のあり方を考える上でもとても参考になる。

たとえばリスクをどのように見積もるかという、「リスク・アセスメント」の重要性。具体的にいうと「起こりやすさ」と「起きると大変」をごっちゃにしないこと、だとか。

あるいは一見クールに物事を論じているように見えても、その背後に強固な感情や信念が潜んでいたり、パニックを起こしている心情を正当さ化するために、ロジックでごまかしているケースもあること、だとか。

さらに、何をリスクと考え、どのようにそれに対処するのかという部分には、それぞれの国や社会の文化のあり方、人びとの意識のあり方などが深く関わっているのではないか、ということだとか。

このように、リスク管理に関する情報を適切に発信し、適切な方向で人びとの対処を促していくためには、「その情報を受け取る側」と「情報を発信する側」の双方に対する冷静な考察・検討が必要不可欠だということ。

昨今の一連の「組立体操(通称・組体操)」の危険性を訴える言説についても、その訴える側は「リスク」という言葉を使いながらも、実は「リスク・コミュニケーション」のあり方についての深い考察を欠いていたのではないか、と思われてならない。そのことが今、さまざまな問題・混乱を招いていると思われる。

<2243冊目>

菊池誠・松永和紀・伊勢田哲治・平川秀幸・飯田泰之+SYNODOS編『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書、2011年)

こちらは東日本大震災と福島第一原発の事故が発生した直後に書かれた本。

「原発は安全だ」と言い続けてきた科学技術の専門家への信頼があの原発事故によって崩壊したあとで、もう一度、科学技術と社会の関係を問い直すために、どのような観点から何を論じなければいけないのか。そういうことを扱った本だといってよい。

そうなると、たとえば「そもそも科学的であるとはどういうことか?」「科学的なものとそうでないものは何で線引きできるのか?」とか。

あるいは、「人々の生活の場や具体的な課題解決の場から生まれてきたローカルな知(科学)は、古典的な知(科学)とどのような関係にあるのか?」とか。

さらに「科学的な知見に関する情報は、人びとに正確な理解を促すように、マスメディアなどを通じて発信され、適切な形で社会的に共有されているのか?」とか。

そして、「私たちの暮らしのなかで科学技術が果たしている役割の増大と、その科学技術の適切な管理のために政治・行政が果たしている役割の増大を前にして、私たちはどのように科学技術と政治・行政の関係について、民主的に開かれた議論を構築できるのか?」ということ。

こうした4つの大きな論点(これ以外にもきっとあるのだろうけど)が浮上してくる。この4つの論点が、本書ではそれぞれ、ひとつひとつの章になって論じられている。

おそらく「組立体操(通称・組体操)」の危険性に関する言説も、一方で「リスク」や「科学的」といった言葉を使いながら、こういう学校批判・教育批判の言説に関するリスク・コミュニケーションや科学技術社会論、科学哲学的な深い考察を欠いてきたのではなかろうか。そのことが持つさまざまなマイナス面が、今、いろんな形で浮上しているように思われる。

<2244冊目>

郷原信郎『思考停止社会 「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書、2009年)

元・検事で、企業や官庁の不祥事に際して調査・検証委員会等の取り組みにかかわる弁護士の立場から、「コンプライアンス=法令遵守」という発想の問題点や、検察・司法・マスメディアのこの問題に対する取り組み方の問題点などを指摘した本。

要するに「目の前の法令を守っていたかどうか」という観点から、守っていなかった企業などをバッシングするだけの議論では、「その法令自体が今の社会情勢に適合しているのか?」という切り口からの議論がかえってできなくなること。

また、本来論じなければいけないことは、さまざまな問題が浮上した企業や官庁がどのような構造的な(あるいは体質的な)問題を抱えていて、それを改善していくためには、「どのようなルールを新たに創造すべきか?」という観点からも議論が必要であること。

こうしたことを、この本の著者は言いたかったのではないか、と思われる。

もしも本書の主張がこのような点にあるのならば、私も納得する。

いじめ自殺や「体罰」その他の学校事故・事件報道などでも、子どもや教職員に何か問題があったのかなかったのか、あるいはその教職員の対応が教育法令にもとづくのかどうかばかりが問題になっている傾向がある。しかし、本当に考えなければいけないのは、「どうしてこのような実践が行われたのか?」「なぜ教職員はこのような子どもとのかかわりしかできなかったのか?」ということ。学校や教職員をただバッシングしているだけの議論では、もはや何も解決することはないだろう・・・と、このごろつくづく思う。

 

 


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2237冊目~2240冊目:4冊まとめて紹介

2016-02-29 08:13:38 | 本と雑誌

今回は2月中に読んだ本のうち4冊をまとめて紹介します。2237冊目~2240冊目です。

<2237冊目>

諏訪清二『防災教育の不思議な力 子ども・学校・地域を変える』(岩波書店、2015年)

阪神淡路大震災のあとの兵庫県において、たとえば県立舞子高校環境防災科の立ち上げなど、防災教育の旗振り役的に活躍してきた現職高校教員の書いた本。内容的には『高校生、災害と向き合う』(岩波ジュニア新書)の続編というところだろうか。

ただ、防災教育の必要性そのものは認めるとして、現行の学校のカリキュラムのなかにどのように組み込めばいいのだろう?

たとえば、著者がいうように、防災教育の土台づくりという面から見て、高校理科教育の「地学」や、高校地歴科・公民科教育での「地理」の学習の重要性は、まったくそのとおり。ただ、これらの科目は大学入試とはあまり関係がないということで、高校教育ではあまり大事にされてこなかった面がある。防災教育の推進のためには、高校と大学との接続関係も見直さなければいけない。そういう面でも、著者がいう入試のあり方の見直しは、防災教育の推進という面から見ても、とても大事な課題なのではないかと思う。

<2238冊目>

阿部利洋『真実委員会という選択 紛争後社会の再生のために』(岩波書店、2008年)

じっくりと再読・熟読しなければならないような、そういう一冊。

(法)社会学の立場から、各地の民族紛争や人種対立などの調停・関係調整のために、紛争後に立ち上がる「真実委員会」の取り組みに注目し、その役割や意義などについて考察した一冊。特にこの本では南アフリカ共和国のアパルトヘイト終結後に立ちあがった「真実委員会」の営みに注目し、検討を加えている。

この本で論じられている諸テーマのうち、たとえば第2章「多元的な真実認識」でいう「法的ないし史実としての真実」「個人的ないし物語としての真実」「社会的・対話的な真実」「修復的ないし癒しとしての真実」の4つの真実認識は、学校事故・事件の問題でも必要な認識なのではないか。

<2239冊目>

仲正昌樹『寛容と正義 絶対的正義の限界』(明月堂書店、2015年)

2004年に『正義と不自由』というタイトルで出た本の新装改訂版。どことなく「前に読んだ」という気がしていたのは、そのせいか・・・。

ただ、この本で論じられていた「左派」からの社会批判の限界、問題点は、今まさに顕著に表れているように思う。

要するに庶民層の生活要求などを「左派」が捉え損ねていて、ある種「エリートの文化」みたいになっている側面があるということを、この本は言いたかったのではないか。

<2240冊目>

鈴木庸裕編著『スクールソーシャルワーカーの学校理解 子ども福祉の発展を目指して』(ミネルヴァ書房、2015年)

研究会などでごいっしょするみなさんが書かれた一冊。主に教育学のなかでも生活指導や臨床教育、子どもの人権論関係者と、スクールソーシャルワークの実践者(社会福祉士など)が中心になってまとめられている。

社会福祉の実践の場としての「学校」をどうとらえるのか。このことがスクールソーシャルワーク論において問われてくるのだが、でもその「学校」は長年にわたって教員たちが子どもと向き合い、さまざまな実践を積み重ねてきた場でもある。また、教育学がさまざまな形で研究、議論を積み重ねてきた場でもある。その教育学の蓄積してきた議論や、あるいは学校現場において教員たちが積み重ねてきた実践的な知見をふまえないで、社会福祉の側から「自分たちの専門的な技法をあてはめたら問題は解決する」と思っていたら、大きな過ちを犯すかもしれない。そういう危機意識がこの本に現れているように思われる。


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