組み体操 「ピラミッド」と「タワー」大阪市教委が禁止に (毎日新聞2016年2月9日配信)
http://mainichi.jp/articles/20160209/k00/00e/040/196000c
組み体操 文科省が年度内に対応方針提示へ (NHKニュースWEB 2月9日配信)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160209/k10010403351000.html
組み体操タワーとピラミッド禁止、新年度から…「重大事故に至る危険性」 大阪市教委、組み体操自体の可否も検討 (産経WEST 2月9日配信)
http://www.sankei.com/west/news/160209/wst1602090038-n1.html
こういうニュースが出ますと、すぐに「これを歓迎する・評価する」みたいなコメントが、学校事故のリスク管理論の「専門家」あたりからもネット上で出そうなので、あえて今のうちから次のことを書いておきます。
以下に書く内容はフェイスブックやツイッターにも書いたことと重なるんですが、転載して加筆修正しておきます。
さて、世の中で注目を集めていることに対して、その注目を集めている程度に応じて、自分に矢が飛んでこない形にするために対処する(=それは学校現場を悪者にする、負担を押し付ける、ということでもあるのですが)。
これが、この数年、大阪市教委や文科省を見ていると気付くことです。
本気で組体操の危険性を指摘して事故防止を求めてきた側と、こういう方針を通知にして現場におろす教育行政側とでは、こうした大阪市教委のように、危険な技禁止の方針が出ると見かけ上「一致」しているように見えます。
でも、実は思惑に大きな違いがあるように思われます。
少なくとも後者には「これ以上騒がれるのが嫌なんで」とか「後々誰かから文句言われるのが嫌なんで」という思惑が、少なくとも私にはありありと伝わります。
特に「選挙」が近い時期なんかだったら、なおさらそういう思惑があるんじゃないですかねえ。
今の文部科学大臣、そういうことに敏感そうだし。
政権与党の国会議員や元閣僚・現職閣僚をめぐるさまざまな問題(金銭問題を含む)が発覚したり、あるいはアベノミクスがうまくいっていないような経済指標なども出てきたりもしましたからね。
去年の安保法案成立以来の安倍政権に対する根強い不信感もありますし、「何かここらで選挙前に、小さなことでも国民の要望を聴いて対応してますよってポーズを示したい・・・」なんてこと、政権与党の政治家だったら発想しそうです。
本気で事故防止に取り組みたいから組体操の規制というのではなくて、「何やらメディアを通じて大騒ぎしている人が増えたし、国会にまで批判の声が届いたから、とにかくガイドラインでも出しておこうか」というレベルの規制というのは、これ、教育行政の「その場しのぎ」でしかないですからね。
そういう政治的な文脈について、危険な組体操の規制を求める側って、考えてきたのかしら?
要するにこれって「事態を早期に沈静化させるために、とにかく、何か手を打ちました」ということにしたいだけかもしれないんですよね。
本気で組体操の事故を防ぎたかったら、熱心にやってきた学校を一つ一つ誰かががまわって、①事故の危険性がどの程度あるのかを説明する、②代替プランとして運動会でどんなことするのか一緒に考える、③そのための教職員研修等の時間確保やアドバイザーを派遣できるための条件整備を行う、が必要。
そういうことがこれから、どこまで文科省や大阪市教委から打ち出されるかを見なければ、彼らが本気で事故防止に取り組む気があるのかどうかが見えないように、少なくとも私には思えます。
それと、今までは「みんなでできた達成感や感動」を強調する形でやってきたことを、今度は「事故の危険性」を強調する形で規制するということ。
実はこれ、片方は「達成感や感動」もう片方は「不安・恐怖」という形で、なんらかの感情が背景にある議論ではないかと。
そういう面でいえば、どちらも教育行政は何らかの人々の感情を基盤にして教育実践を規制したり、あるいは自由にやらせたりしている・・・ということになりますよね。
でもそれって、今後も人びとの感情のベクトルの向き次第では、また方向が変わりかねない危うさを秘めてます。
それでいいのですかね?
要するに何か「教育とはかくあるべし」という思考、原理などに基づいて判断しているというよりも、「世論の風まかせ」というか「その場の空気次第」で対応を変えるという体質は何も変わっていないわけで。
あと、たとえ「数字」をいっぱいちりばめていても、その「数字」がどのようにして成り立ってきたのか、また、その「数字」をどのように解釈するのかという次元では、冷静な思考にもとづく話よりも「感情」が勝る話になることもしばしばあります。
たとえば産経WESTの記事のなかに、「比較的危険度が低いとされてきた「倒立」や「サボテン」などの技でも、昨秋、骨折だけで33件の負傷事故が発生」という文章があります。
この論理の延長線上には、たとえば「彫刻刀で手指を傷つける負傷が〇件あるから図工で彫刻刀使用は禁止」「アルコールランプの火で髪の毛燃えた事故は〇件あるから、理科の実験は禁止」や、「登下校時に事故あるから学校は行かない」って話が出そうです。
また、こんな感じで、今まで「危険度が低い」と言われたものでも「実際○件の負傷が」という筋で「○○という教育実践は規制(実態としては「やらないでおく」こと優先)」という話は、論理的にはいろんなものに適用可能かと思われます。
それでほんとうにいいのでしょうか?
このような次第で、私は危険な組体操の問題については、危ないことを推進する側にも、その規制を求める側にも、どちらの動きにもかなり距離を置いて見ていこうと思ってきました。
今後もその姿勢は崩さないようにしようと思っています。
そのほうが、学校事故の防止に関するさまざまな論点と、これが問題として浮上してくる社会構造のありよう、そして教育運動と教育行政の関係、子どもの安全を求める側自身ではなかなか気づきにくい自らの議論の問題点等々が、比較的クリアに見えますから。