2233冊目はこの本。
谷田貝公昭編著『不器用っ子が増えている 手と指は[第2の脳]』(一藝社、2016年)
この本の著者たちは長年にわたって、たとえば服のボタンの留め方、お箸の持ち方、包丁の使い方、鉛筆の削り方、ハサミの使い方といった手先を使うような子どもの生活技能や、このような技能を必要とする子どもの生活習慣などの実情について調査を行ってきた。
この本で取り上げられているさまざまな生活技能は、実は幼稚園・保育所・小学校での生活のなかで、あるいは図工や家庭科などの教科の学習のなかで必要とされているものばかり。そういうことがなかなかできなくなっている子どもたちの実情が、この本のなかで述べられている。
ただ・・・・。そういうことをすぐにこの本において、全て「脳の発育」に影響を与える等々の話に結び付けてしまうのには、やや閉口するのだが。むしろ学校生活への適応や、学業達成(つまり学力の獲得)にさまざまな支障が出る・・・といったほうが、私としてはスッキリする。「脳」のことは、まだまだ脳科学の研究でもわからないことは多々あるようだから。
それはさておき。この本で重要なのは、子どもに危ないことをなんでもやめさせていくような「消極的安全教育」は、かえって別のところで子どもの危険を生むとはっきり指摘しているところ。むしろ、ケガをする危険性もある活動のなかでで、それがどうすれば防げるかを、おとながきっちりと教え、子どもがおとなから学ぶ機会をつくっていく「積極的安全教育」のほうが大事であることを主張していること。
この点は、昨今話題の「組体操」問題についても、危険な技を規制するのはいいとしても、「組体操」全部やめてしまうような「消極的安全教育」にはむしろ弊害が多いという見方ができることを示している。
少々すりむいたり、転んだりするくらいの「組体操」の技であれば、むしろおとなが子どもとともに「どうすればそれが防げるか?」を考えるほうが、「積極的安全教育」につながるのではなかろうか。
そこで、本書の122~123ページの文章を引用しておく(若干、引用部分に「誤記では?」と思われる箇所もあるが、そのままにしておく)。
<以下、引用部分>
○「消極的安全教育」の蔓延
そこで、刃物を例に、考えてみましょう。
現代の子どもたちは、ナイフに限らず、ノコギリ、ハサミといった刃物は、使えなくなってしまいました。その現状たるや、想像を絶するものがあります。
ナイフが、子どもの世界から姿を消したのは、1960年代頃からと言われています。60年安保闘争をはじめ、ハガチー事件(1960年6月)など、血なまぐさい事件が多発した時代でもありました。
中でも、浅沼稲次郎日本社会党委員長(原文ママ)が、未成年の山口二矢に視察された事件(1960年10月)などが引き金になり、警察庁が全国の学校教育機関に対して、子どもにナイフを持たせないように指導したというのです。要するに、ナイフは危険だから持たせないで、学校は鉛筆削り器を設置せよ、というわけです。また、それに迎合した市民運動も起きたといいます。
いいかえれば、大人が子どもからナイフを取り上げることによって、安全を確保しようとしたのです。「消極的安全教育」の徹底を図ったのです。その結果、警察庁が期待したようになったでしょうか。答えは否です。
ナイフや、そのほかの刃物を使った子どもの事件は後を絶たないどころか、一向になくなる気配さえもありません。刃物を正しく使ったことがないから、刃物が持っている利点も、恐ろしさも、分からないのです。
長い間、「肥後守」で鉛筆を削る調査をしてきたのですが、最近では大学生でも、これを「ひごのかみ」と読める人は極めて少ないし、どういうものかも分かりません。
小学生の3分の1は、「肥後守」のどこに刃があるのかさえ分からない始末ですから、調査の際には、かなり神経を使います。
○小さなケガは子どもの勲章
刃物などの道具は、「危ないから」と大人が逃げて、子どもに使わせずにいれば、いつまで経っても安全に扱うことはできません。その子どもにとっては、「いつまでも危険」なままです。
危険を避けようとすることより、危険を克服することの方が、いつも実りの多いことを、思い起こしてほしいものです。
刃物の危険性は、ケガと痛みとの関係で、理解させる必要があります。ケガをさせてはいけないと、いつまでも使わせないでいるのは、過保護以外のなにものでもありません。
子どもが、刃物を、正しく自由に使えるようになるということは、それ以後の生活において、手を創造的に使う基礎になるということを、忘れてはなりません。ですから、大人は子どもの小さなケガを恐れてはならないし、それは、子どもがまともに育っている証であるし、勲章なのです。
ここでも大切なのは、「積極的安全教育」です。
<以上、引用おわり>