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京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

2241冊目~2244冊目:リスク・コミュニケーションや不祥事対応のあり方を考える新書4冊

2016-02-29 08:45:34 | 本と雑誌

今度も2月中に読んだ本のなかから、主に新書本4冊を紹介します。

今回紹介する4冊の新書本は、どれもリスク・コミュニケーションや不祥事対応のあり方を考えることにつながる本ですね。

<2241冊目>

佐藤健太郎『「ゼロリスク」社会の罠 「怖い」が判断を狂わせる』(光文社新書、2012年)

この本は主に食品や医療・健康の領域での事例を取り上げつつ、「ゼロリスク」を目指すためのリスク回避のさまざまな営みが、かえって別の形でのリスクを招きこんだり、膨大なコストを生じさせて、かえって人々の暮らしを不自由にしたり、困難に直面させている例があることを紹介している。

なぜそうなってしまうのか? その背景として、著者は「人はリスクを読み誤る生き物」(24頁)という観点から、たとえば「嫌いなものは、間違っている(はずだ)!」というバイアスなど、人びとのリスク認知にかかるバイアスの存在を指摘する。また、著者はマスコミがリスクに関する情報を「商品」として流通させるために、そのセンセーショナルな報道が人びとの感情をあおってしまう傾向や、ネット上でのリスクに関する情報は同じような考え方を持つ人どうしで増幅される傾向があることなどについても指摘する。

こうした傾向は、昨今の一連の「組立体操(通称・組体操)」問題についても言えることではないか。

つまり、「危険な組体操」なるものを指摘する言説(この時点で、それを指摘する人自身の「(学校教育がやっていることで自分が)嫌いなものは間違っている(はず)」という思いこみが反映している危険性あり)が、ネットやマスコミなどでセンセーショナルに取り上げられ、そのことを疑問視したり不安に思う人びとの感情を煽り、同じような考え方・感じ方をする人どうしで増幅してしまい、あたかも「すべての組体操=危険」という流れを作ってしまったのではないか、と思われるのである。

こういうリスク・コミュニケーションに関する議論を学べば学ぶほど、一連の「組立体操(通称・組体操)」問題に関する言説の「おかしさ」がいろいろと見えてきて、「安易にあれに乗らずによかった」と思う今日この頃である。

<2242冊目>

岩田健太郎『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』(光文社新書、2014年)

今度は感染症対策を専門とする医師の立場から、「感染症パニック」を防ぐためのリスク・コミュニケーションのあり方について論じた本。

ちょっと編集のしかたが気になるというのか、「第一部」「第二部」ならわかるのだけど、リスク・コミュニケーションのあり方をていねいに論じた章(第一章)と、具体的な感染症流行の事例を取り上げて「こういう説明をすべき(だった)」と論じた章(第二章)との分量がアンバランスなように感じた。

ただ、内容はとても興味深いもの。特に第一章での感染症流行を例に取上げながら、医学的なリスク情報の発信のしかたについて具体的に説明したところは、今後、学校事故・事件に関する情報発信のあり方を考える上でもとても参考になる。

たとえばリスクをどのように見積もるかという、「リスク・アセスメント」の重要性。具体的にいうと「起こりやすさ」と「起きると大変」をごっちゃにしないこと、だとか。

あるいは一見クールに物事を論じているように見えても、その背後に強固な感情や信念が潜んでいたり、パニックを起こしている心情を正当さ化するために、ロジックでごまかしているケースもあること、だとか。

さらに、何をリスクと考え、どのようにそれに対処するのかという部分には、それぞれの国や社会の文化のあり方、人びとの意識のあり方などが深く関わっているのではないか、ということだとか。

このように、リスク管理に関する情報を適切に発信し、適切な方向で人びとの対処を促していくためには、「その情報を受け取る側」と「情報を発信する側」の双方に対する冷静な考察・検討が必要不可欠だということ。

昨今の一連の「組立体操(通称・組体操)」の危険性を訴える言説についても、その訴える側は「リスク」という言葉を使いながらも、実は「リスク・コミュニケーション」のあり方についての深い考察を欠いていたのではないか、と思われてならない。そのことが今、さまざまな問題・混乱を招いていると思われる。

<2243冊目>

菊池誠・松永和紀・伊勢田哲治・平川秀幸・飯田泰之+SYNODOS編『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書、2011年)

こちらは東日本大震災と福島第一原発の事故が発生した直後に書かれた本。

「原発は安全だ」と言い続けてきた科学技術の専門家への信頼があの原発事故によって崩壊したあとで、もう一度、科学技術と社会の関係を問い直すために、どのような観点から何を論じなければいけないのか。そういうことを扱った本だといってよい。

そうなると、たとえば「そもそも科学的であるとはどういうことか?」「科学的なものとそうでないものは何で線引きできるのか?」とか。

あるいは、「人々の生活の場や具体的な課題解決の場から生まれてきたローカルな知(科学)は、古典的な知(科学)とどのような関係にあるのか?」とか。

さらに「科学的な知見に関する情報は、人びとに正確な理解を促すように、マスメディアなどを通じて発信され、適切な形で社会的に共有されているのか?」とか。

そして、「私たちの暮らしのなかで科学技術が果たしている役割の増大と、その科学技術の適切な管理のために政治・行政が果たしている役割の増大を前にして、私たちはどのように科学技術と政治・行政の関係について、民主的に開かれた議論を構築できるのか?」ということ。

こうした4つの大きな論点(これ以外にもきっとあるのだろうけど)が浮上してくる。この4つの論点が、本書ではそれぞれ、ひとつひとつの章になって論じられている。

おそらく「組立体操(通称・組体操)」の危険性に関する言説も、一方で「リスク」や「科学的」といった言葉を使いながら、こういう学校批判・教育批判の言説に関するリスク・コミュニケーションや科学技術社会論、科学哲学的な深い考察を欠いてきたのではなかろうか。そのことが持つさまざまなマイナス面が、今、いろんな形で浮上しているように思われる。

<2244冊目>

郷原信郎『思考停止社会 「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書、2009年)

元・検事で、企業や官庁の不祥事に際して調査・検証委員会等の取り組みにかかわる弁護士の立場から、「コンプライアンス=法令遵守」という発想の問題点や、検察・司法・マスメディアのこの問題に対する取り組み方の問題点などを指摘した本。

要するに「目の前の法令を守っていたかどうか」という観点から、守っていなかった企業などをバッシングするだけの議論では、「その法令自体が今の社会情勢に適合しているのか?」という切り口からの議論がかえってできなくなること。

また、本来論じなければいけないことは、さまざまな問題が浮上した企業や官庁がどのような構造的な(あるいは体質的な)問題を抱えていて、それを改善していくためには、「どのようなルールを新たに創造すべきか?」という観点からも議論が必要であること。

こうしたことを、この本の著者は言いたかったのではないか、と思われる。

もしも本書の主張がこのような点にあるのならば、私も納得する。

いじめ自殺や「体罰」その他の学校事故・事件報道などでも、子どもや教職員に何か問題があったのかなかったのか、あるいはその教職員の対応が教育法令にもとづくのかどうかばかりが問題になっている傾向がある。しかし、本当に考えなければいけないのは、「どうしてこのような実践が行われたのか?」「なぜ教職員はこのような子どもとのかかわりしかできなかったのか?」ということ。学校や教職員をただバッシングしているだけの議論では、もはや何も解決することはないだろう・・・と、このごろつくづく思う。

 

 


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