ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

シンフォニーホール

2008年01月18日 | 今日この頃
               梅
        蕾がこんなに膨らんできました
       去年 大阪城の梅園の売店で求めた
            梅の一つです
        春は其処まで来てるようです

昨日は、大阪フィルの稽古場に行き、オーケストラと初めて練習しました。この練習場も私は3度目なんですが、やはり何となく、上手になったような気がして嬉しいものでした。

3年前とメンバーが変わって、若返っているように感じました。大阪フィルにも何組かの班があるでしょうから、なんとも言えませんが、以前はもっと年を取った方が多かった記憶があります。やはり定年もあるのでしょうね。女性が増えていました。

この人たちは、自分の選んだ道の成功者なんだな~と見ていました。音大からは毎年何人もの方が卒業するわけですから、本の一握りの人が、○○フィルと言うようなオーケストラに入団できるのでしょう。

この人たちは自分の選んだ楽器で、努力し、報われた人達なんだな~と、羨ましいような気持ちで若者を眺めておりました。オーケストラの編成人数はどのように決めるのかは知らないのですが、7.80人居られたと思います。やはり女性はバイオリン、フルートなど、持ち運び可能の楽器でした。例外はハープでしょうか。

今日は本番です。12時頃、早昼を食べて出かけました。阪急に寄って、練習と本番の間に食べるお弁当を買ってから会場に向かいました。

衣装は上が白下が黒と言うコーラスの定番です。上にコートを羽織るので、家から着て行きました。その様にしている方が多かったようです。

舞台で稽古が始まりました、オーケストラの皆さんは、まだ私服です。稽古が終わり2時間の間にお弁当を食べる事になりました。クラスのくりむらさん、ごとうさんご夫妻とご一緒させていただきました。

シンフォニーホールの楽屋では食事は禁止です。知ってか知らず食べている人がいました。隣のビルの部屋を3室借りてありましたので其処で食べました。4人ともお弁当では物足りない(私は箱寿司6個入り)し、時間が余っています。その上に人数が多いものですから、食べた人はシンフォニーの楽屋に戻って、次の人を食事させてあげてくれと言われましたので、コーヒーでも飲もうと言う事になり町に出ました。

お店に入って、私の大好きなホットケーキセットを頼みました。セットで500円、紅茶もホットケーキもまあまあのお味でした。私を除いた3人はヨーロッパ行きの常連さんですから、お互いの事は良く知っておられます。今日は私の住む町から唱歌の学校への道のりとか、趣味とかが話題になりました。

時刻が刻々と迫ります。お客様が少ないと心配していましたが、10分前頃には大勢のお客様がおいでくださいました。私のお友達も来てくださっています。始まる前に、座席の私に声を掛けに来てくださいました。

指揮をしながら先生が苦笑するという場面もありましたが、どうにか歌い終えました。

お友達が入り口で待っていてくれました。懐かしい方々です。しかし時刻は既に9時です。もっとお話をしたいのは山々ですが、遠方から来てくださっていますし、その場でお別れする事にしました。私はご近所の友人と帰ってきました。帰宅時間は10時を過ぎていました。お友達はまだご自宅に着いてないのではないかと案じました。

オーケストラで歌う楽しみと友情に支えられた楽しい一日が終わりました。
                          (610回)



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その程度の認識か?

2008年01月17日 | テレビから
          アロエの花(見~つけた)
            マンションの外に
           色鮮やかに咲いていた
      別種ですが我家のアロエは花をもちません

大震災の日、一足遅く目覚めました。6時になっていました。13年前の今頃、まだ何も解っていませんでした。大きな地震があったことは解っていましたが、神戸が空前絶後の状態にあるなんて思いもしませんでした。

重いテレビが前に落ち、納戸では箪笥がお互いに支えあい、居間の熱帯魚の鉢が壊れ、絨毯が水浸しになっていた。台所の食器は不思議に無事でした。引き戸だったからでしょう。ただ開閉のドアと言うドアは全て開き中のものが落下していましたが。家の中を履物で歩いた日々・・・。

でもでも神戸があんなになっているとは・・・。幸いな事に電気は数時間の後に点きました。急いで点けたテレビに無残に生田神社の拝殿の大屋根がズド~ンと地にへばりついてるさまが映し出されています。わが目が信じられませんでした。

当時1人暮らしだったたまちゃんに電話しても通じません。数日後、関東のようちゃん(たまちゃんの無二の親友)からも「たまちゃんと連絡が取れない」と電話が来る。お互いに解れば知らせあうと約束で電話を切った。ようちゃんと話したのは其れが最後だった。ようちゃん自身は数ヶ月後にあの世に旅立ってしまった。3回忌の時は友人数人も列席して法事があり私も参列した。去年の13回忌は代表としてたまちゃんだけが参列したとの連絡があった。


今日は一日中、13年前の震災関連のお話。その一つにこんなのがありました。

何処の地方のお話だか途中から見たので解らないのですが、地震がおきたら、1人暮らしの方を連れて一緒に逃げようという事らしい。訓練と言うのでのんびりと「○○さん行きましょうか・・・」と1人暮らしの人の家の戸を開けている。次の場面では4,5台の車椅子に付き添った人が写っている。車椅子の上の人も当然と言う顔をしている。世話する方の人も「こうして慣れておけば、いざと言う時に役立つでしょう」と言うようなことを言っている。

こんな訓練を計画した人、其れがいざと言うときの役に立つと思っている人、車椅子で連れて逃げてくれるのは当然と思っている方・・・。一寸待ってください。

地震はそんなに生易しいものではありません。13年前のあの恐ろしさを経験して、この映像を見た人は、きっとそう思ったはずです。

大震災は数秒間で6434人の命を奪ったのです。年齢に関係なくです。地面が揺れているのです。亀裂が入るのです。家が傾ぎ戸は開かないかも知れません。隣に、数センチの所にいても助ける事が出来ないのが地震なのです。我が身を守る事も出来るかどうかわからないというのが、大震災なのです。

あの揺れでは立つ事もままならなかったんです。「○○さん行きましょか~」何て状態ではないのです。そして道路に亀裂が入れば1人で車椅子を押すなんて無理な事です。まして映像では老老介護の年代の人たちでした。放送局も何を思ってこの映像を流したのでしょう。経験が生かされた良い練習をしていると思ったのですか?きっと企画した人も震災を知らない人でしょう。

行政の人も考え直してください。たとえ1人暮らしでも自分の事は自分で守る。其れを指導するのが本当の親切と言うものです。あの映像を見て、経験の無い人の認識ってこんな程度かと腹立たしく情けなくなりました。あのテレビを見る限り、経験は生かされていないと思いました。

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尊属殺人

2008年01月16日 | ネットニュースから
            紅 車(寒小菊)
          我家のニューフェイス

鏡開きのおぜんざいも、小正月のあづき粥も今年は作りませんでした。あづき粥のほうは余り好きではないので作らないのですが、おぜんざいは、温かいのも、冷たくなっても好きですから、毎年作っていました。今年はあづきを買うのを忘れてしまいました。今月中には作りたいな~とは思っています。

人間の嗜好は変わるのでしょうか?あんなに好きだったお餅を余り食べたいと思わなくなりました。食道と気管の弁の開閉が時々狂いますね。咳き込んだ時の苦しい事。それにお行儀悪く横になったまま食べ物を口に入れる事もいけませんね。寝転んで物を食べる事はめったに無いのですが、先日おかきを口に入れたまま、ソファーにコロンと横になって、本を読もうとした拍子に、喉がおかしくなって、慌てて起き上がりました。昨日までできた事が、突然出来なくなるというのが年を取るという事でしょうか。

今日も報じられていましたが、子が親を殺す、尊属殺人について「親を殺すような子供に育てた親が悪い、自業自得だ」って書かれているのを見て、何ていう事を言うのだろうと思いました。

母親はと月とう日お腹に抱え、一心同体です。身二つになってから、独り立ちできるまで、幸せな人生であってくれと一生懸命育てるんです。どのような行き違いがあったのか、夫々の理由があるのでしょうが、親殺しをする子に育てているなんって人は居ませんよ。故人に対して何と酷い言葉だろうと思いました。

子供には金をかけずに声を掛けろ。子供に贅沢をさせるな。自分達親はクーラーの効いた部屋部屋で、子供達は無しの部屋にしろ。親は高級品のアイスを食べても子供には100円のアイスを食べさせろ。あ~世の中には色んな人がいるんだわ。其処まで差を付けなくてもいいんじゃないと思いました。

それに子供だから安い食べ物でいいとは思わないんです。見栄を張ることはありませんが、食べ物だって着る物だって、その家で賄える程度の、いいものを着せて食べさせるのがいいと思うのです。そういう事は大切な事だと思うのです。

息子達はどのように感じているかは知らないのですが、又家庭の中では其れをするのは主婦ですから、直接的には私の意志は続いていないかもしれませんが、息子達には潜在意識として定着していると思っています。

昔はお父さんの書斎がありました。今は子供部屋が最優先で、お父さんの書斎は無い家が多いようです。我家の場合主人は(勤め人の時)家は寝るだけのものでしたから、書斎はありませんでした。姑の部屋と子供の部屋、私達の部屋は寝室で、私は居間と台所をウロウロしていたように思います。

今は息子達の部屋で、彼らの机で、こうしてパソコンを弄っています。一応、主人の書斎という事になっています。私は相変わらず、居間で本を読んだり、編み物をしたリしています。台所に立つ時間はだんだん短くなってきています。

尊属殺人や、小学生の人殺しや、動機の不明な異常犯罪は戦前からあったそうです。尊属殺人については、統計によると昭和31年ごろが最高で134人次が1970年ごろが103人と統計の最後1995年には75人となっています。今は、それから鰻のぼりに増えているのではないでしょうか。

1995年といえばあの阪神淡路大震災の年です。明日1月17日午前5時46分多くの人命を奪い、人生を変えました。我家ではお墓が被害を受けました。あの重い一番上の石碑が転がり落ちていたのには驚きました。

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遙か昔・・・

2008年01月15日 | 気にかかる
              寒 菊
         我家の名無しの権兵衛さん

たまちゃんからメールが入りました。「私達の頃にはまだ成人式は無かったと思うよ。何しろ遠い昔の事で忘れたよ」って。「では成人式の始まりを調べてみるわ」って返事を出しました。

たまちゃんは幾ら言ってもパソコンを使おうとしないのです。「携帯でもブログ見れるから見て」って言いました。私の一番若い友人のやすこさんに「如何したら携帯で見る事が出来るのか、方法を教えてください」と頼みました。教えられた様にたまちゃんの携帯に入れようとしたのですが、入らないのです。

理由は不要メールが入るのが嫌でご家族のほかは数人の友人しか受け取らないようにセットしてあるからです。私はそのセットを解く事は出来ませんから、お店でしてもらってと言いました。その手続きして、昨日のブログを読んでメールをくれたのです。

成人式が何時始まったのか? 調べてみました。以外や以外、埼玉県北足立郡蕨村(現在の蕨市)の「青年祭」がルーツだったのです。1946年11月22日戦後間もない時です。これに影響を受けた国が1948年に公布施行された祝日法により1949年1月15日を「成人の日」と定めました。

初めはその年の成人式の翌日(1月16日)~翌年の成人式の日(1月15日)迄の人が対象でした。そうすると早行き(7っ行き)の子の大部分は学年の違う子達と一緒と言う事になる。それで今では同学年の子が一緒に祝えるように学年齢でするように変えてきたそうです。

だんだん思い出しました。当時の親友だったおゆきさん(現在メキシコ在)が早行きで、私には通知が来たが、彼女には来なかった、だから私も行かなかった。翌年の彼女も知らない人ばかりなので行かなかった・・・のかな?こう考えると国が学年齢に変更して行ったのも理解できる。

私が成人したのが1955年(満年齢なら1956年)ですから、施行されて6~7年経っているから、神戸市が「成人式」を行っていた可能性は高い。このブログを読んでくださっている同級生の皆様如何でしょうか? 覚えていらっしゃいませんか?大部分の方が「兵庫区」だと思うのですが、受け取った時の私は「須磨区」でした。

「成人式」から「誕生」に話を繫ぎたいのですが、「少子化」が嫌に懸念されていますが、人口が減る事はそんなにいけないことなんですか?日本は何時の間にか1億2千万人と言う大民族になりました。国土の広さを考えれば多すぎませんか?
戦前は一体どのくらいの人口だったのでしょうか。

人口が減れば老人を支える人が減る・・・、私達は肩身の狭い思いを感じる理由です。果たしてそうでしょうか?私はそうは思わないんです。これからは今にもまして機械化され人手が不要になります。働きたい人が多すぎて失業者が出る。雇う方もアルバイトで安く経費を節約しようとするのでワーキングプアーなる階級が生まれる。出生率の低下で人口が減ったら就職難解消しませんか?

これ以上人口が減っては本当に困るな~と言う時が来れば、自然に増えて人口が増加現象に転じるというのが自然淘汰ではないですか。きっと今の日本の人口は多すぎるのではないですか。

一人当たりの収入も増え(増税で国もゆとりが出る)生活に余裕が出来れば、心の余裕も出来、ゆったりと子育てできるのでは。人間に一番必要なもの愛情ですよ。今のように親が子を、子が親が殺すなんて心の荒みです。世の中へんですよ。「案ずるより産むが易し」人口減も自然に任せてみましょうよ。
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成人の日

2008年01月14日 | 気にかかる
           寒小町(我家の住人)

今日は成人式。「今年の成人式は何日?」と言うより「1月15日成人式」と決まっている方が良いよな気がするのですが。

午後の外出でしたので、其れも繁華街ではないので阪急電車で2人の着物姿を見ただけでした。ホテルである場合は其処で着て、式後服に着替えて二次会にと言う人も多いとか。尼崎は先週に成人式は終わりました。

成人式は私の世代の頃に始まったと思います。その頃に満年齢も導入され、遅生まれの私は中々20代になれなくて、「嫌だな~」と思ったものです。成人式の通知は来たような記憶はあるのですが・・・。私は行かなかったと思います。何故行かなかったのか?全然記憶にないのです。月末に、記憶力抜群のたまちゃんと会いますので聞いてみます。

昨日の保育所のお話の続きです。50人ぐらいの乳幼児がいて、00歳児(2ヶ月~7ヶ月位)0歳児、その上も段階別に分かれていて、小さい子の組ほど保母さんの数が多いとか。はるねちゃんは00歳児の組だそうです。00歳児と言うのが初耳でした。

組別に夫々部屋が分かれていて、大きい子も、小さい子もごちゃ混ぜでないのが気に入ったって言ってましたね。

その保育所では、今の世の中、どういう考えからかは知りませんが「紙おむつ」ではなく「布オムツ」が義務付けられていて、はるねちゃんっちは生まれたときに使っていましたから、其れを持参しているそうです。ウンチだけは水洗いしてくれていて、小袋に入れて渡してくれるそうです。せめてオムツ洗いはママのお仕事かと思っていましたら、家で「布オムツ」が無い人は「貸しオムツ」を使用する事になっているそうで、又???解らなくなった。

赤ちゃんといえども、団体生活は何となく解るらしく、赤ちゃんは自分だけでは無いという事が解っているのか、はるねちゃんは泣き方が違ってきたそうです。保育所に行く前はぎゃ~ぎゃ~泣いていたのが、今は「私起きたんですけど」「今の泣き声聞こえませんでした?」「私泣いているんですけど」「聞こえません?呼んでいるんですけど」って言う感じで小さい声からだんだん大きな泣き声になっていくそうです。

勿論その子の性格にも依るでしょうけれど、赤ちゃんがね~と、もう一人前の人間なんだと思ったり、ちょっぴりその健気さがかわいそうだったりと、複雑な気持ちでした。はるねちゃんは客商売にぴったりかな?周りの雰囲気に同化して、でも自己主張はしっかりして、しっかり者の4代目ぶりが見れないのが残念だわ。

何はともあれ、自宅から歩いて5分の所に保育所があるって、とてもラッキーなことですよね。6時半までですから、お店から自宅に戻って、一寸お片づけをして、保育所に迎えに行くことが出来るんだそうです。仕事場も親娘と叔母さんの3人ですから、融通は利くでしょうしね。

パーマ屋さんとしましては、去年暮れ31日~4日迄お休みだったそうです。昔は31日は徹夜だったようですが、近年は31日は来られても一人か二人なので、ご近所にある大きなパーマ屋さんが、昨年からお休みしだしたので、準じたそうです。初代さんが亡くなられた影響もあるでしょうね。

私の家の近所には、歩けばパーマ屋さんに当るといってもいいくらいお店が多いです。潰れない所を見ると、それなりのお客さんが付いているのでしょうね。私は「毛染め」をしませんから年に4回いけば多いほうですが、通い続けているお馴染みさんとして覚えていただいていると思います。何しろ親娘3代を見ているんですから。


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四代目誕生

2008年01月13日 | 気にかかる
         お正月らしいアレンジの花達
          梅田の喫茶店で(08-1-10)

のびのびになっていたパーマやさん(古い言い方ですか?)に行ってきた。もっと早くと思いながら、頭をいじると風邪を引きそうになるという、おかしな習性?を持っているものですから用心に用心を重ねていた。昨日行く予定が駄目になって、今日はどうしても行っておかないと、明日から水曜日しか休みが無く金曜日の本番を迎える。

声が出ないぐらいならいいが、咳が出るようだと音楽会を台無しにしてしまう。初めからわかっていれば休むけれど、突然咳き込むことがあるので警戒を要します。
パーマを掛け終わったころ、ごほんごほんと咳が出て「用心だ!」と思った。

コーラスの一員とはいえ出ないと、この寒い季節に、わざわざ大阪のシンフォニーホールまで私の為に足を運んでくださる友人に申しわけが立たない。後5日頑張らなければ・・・と思っている。

パーマやさんは、結婚して以来通い続けているから、かれこれ49年になる。初代の先生とその娘姉妹と、長女さんの長女と言う、親娘3代がつましく経営していた。去年に初代先生がなくなられて、娘姉妹と孫娘の代に変わっている。この孫娘さんが結婚して、去年念願の女の子が生まれた。4代目誕生である。

9月に仕事に復帰して、まだ赤ちゃんが寝ているだけの時は、お店につれてきていたそうですが、私は年に数えるほどしかお店に行かないので、赤ちゃん(はるね)ちゃんに会う事は出来ませんでした。

しかし写真を見せてもらいました。今の赤ちゃんはしっかりしているのにまず驚きました。その写真はまだ6ヶ月だと言うのに、しっかりと姿勢良く座っています。息子達の時は座っていると言っても、頭が前に傾いで、前に二つ折れの感じだったように思いますから本当に吃驚です。

大きなお目々がパッチリしていて、眉毛が三日月型で、とっても可愛い。私には女の子に見えますが、髪の毛が薄い為、男の子に間違われるそうです。お正月の写真は帽子を被っているので、男の子に見えなくも無いのですが、はっきりした顔立ちなので男の子に間違われるのかもしれませんね。

又パパがとても良く面倒を見てくれるそうで、パパのお母さんも「あの子がこんなに面倒見が良い親になるなんて信じられない」といっておられるそうです。

年末にはパパとママと二人で風邪で寝込んでしまって、「助けて~」と子供の世話を頼んで、親のありがたさを知ったそうです。今度の風邪は下痢が激しくて、てっきり自分の不注意の食中毒だと思って気が滅入ったそうです。

はるねちゃんは保育所に預かってもらっているので今の保育所事情を聞きました。尼崎では育児手当と言うのが月1万円(去年ぐらいに上った)だそうです。

お客様にその保育所で働いている人がいて、良い保育所(公立ではないが公認)だからと見に行って、パパも気に入って、即決めたそうです。自分で決めても市役所の許可が下りないと駄目ですが、上手い事パスしたそうです。幼稚園は春休みとか休みがあるが、保育所は休みが無いし、6時半迄(それ以後は超過料金)預かってくれるので、この保育所で小学校に行くまで6年間預かってもらうそうです。

布オムツだったが、この夏の暑さに被れて紙おむつに替えたそうです。今の紙おむつは肌がぬれないので、かぶれは直ぐ直ったそうです。

保育所は栄養士さんもいて、離乳食も食べさせていただけるので、栄養の心配なし。こんなに楽していいのかしらと笑っていました。

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人は逝く

2008年01月12日 | 今日この頃
            寒小菊:冬景色
         我家の小菊 一杯咲きました

昨日唱歌の学校から帰った時、ポストに一枚の名刺が入っていました。其れは近くに住むおばの死を知らせるためにその息子が入れた名刺でした。電話番号が記されていたので直ぐ電話したのですが、式場に行っているのか、誰も出ませんでした。時間を置いて二、三度掛けて見ましたが出ないのです。フッときがつくとおばさんは私宅の電話を知っていますが、その息子は知らないのにきずいたからです。留守電に家の番号を入れておきました。

今朝になって、今度はあちらから留守電に携帯の番号を入れて掛かっていました。携帯に掛けたんですが、話中だったりで繋がりません。諦めていると、お嫁さんと孫娘さんが来られました。「1時から○○で葬儀です。一応主人がお知らせして置くようにと申しますので・・・、12時半に自宅前から会場までバスが出ます」

おばは熱心な創価学会信者です。きっと創価学会方式だと思うので、自宅に戻られてからのお参りが良いか迷っていたのです。主人の父の従兄弟の嫁になるのです。お付き合いをしていたのは私の方です。最後のお別れをしに行ってこようと私1人で出向きました。主人は夜に自宅に伺いました。

初めての会場です。タクシーで行きました。会場は4階でした。正面におばさんの良い写真が私を見つめています。この写真は5年前孫娘が結婚した時のものだそうです。孫娘が一番泣いていました。ず~と一緒に住んでいたんですもの、色んな想い出があるでしょう。それに、赤ちゃんが生まれるようでした。もう少しで曾孫が抱けたのに・・・。5年目に授かった曾孫、おばさんも楽しみに待ってたでしょうね。

ご本人とご家族の希望で「創価学会の方式」で式を執り行う旨告げられました。「導師さま・副導師さまご入場・・・」の声。煌びやかな衣を見慣れている私の目に映ったのは喪服のお二人でした。学会の上級職の方なんでしょう。読経が始まり、皆さんが唱和されます。これは良い雰囲気でした。故人の為の祈りそのものです。

おばさんも上級試験を受けるために徹夜で勉強したという事を聞いたことがあります。古いだけでは駄目なんですね。やはり資格を取らなければ、上級者になれないんですね。今でもそうでしょうか。院号(戒名のことだと思うのですが)は会から与えられたようです。

おばさんは和裁が上手な人でした。結婚後、作った留袖も、主人の着物も、皆おばさんが縫ってくれたものです。呉服屋さんの仕立てもしていましたから正月や成人式の前は、振袖を縫うのが楽しみだとも言っていました。

おばさんの写真を見つめながら、色んなことを思い出していました。息子が母であるおばの事を語るとき、何度も涙で言葉が途切れました。私ももらい泣きしました。息子の涙には感謝の涙だけではなく、後悔の涙も含まれていると思いますが、おばさんは幸せだと思いました。

最後のお別れに、私の捧げた花束はピンクのスイトピーと白菊でした。溢れんばかりの花に囲まれたおばさん、奇麗でしたよ。人間って亡くなって、血の気が引くと不思議にしわも無くなるんですね。94年間、人に迷惑も掛けず生き抜かれた人生、あやかりたい。

息子は最後に言いました「去年までは元気でした。正月明けから具合がわるくなり、9日に医者の往診を頼み10日に入院する手はずでした。その朝の4時過ぎに息を引き取りました。自分の家で往生した母は幸せだったと、今は思っています」本当にお幸せでした。もうおじさんと再会されましたか。
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残り福

2008年01月11日 | 一寸そこまで
          えべっさんの福を招くお飾り
        このような福を売るお店が並んでいる

えべっさんの「残り福」に行ってきました。近畿と言うより兵庫・大阪で有名なお祭りのようです。9日が「宵宮」10日が「本宮」11日が「残り福」となっています。この3日間のうちに、もう20年近くなると思いますが行っています。息子が小さい時は連れて行っていましたが、今は二人っきりです。

去年「さくら夙川駅」が出来ましたから、我家から随分と近くなりました。以前はJR西宮駅から歩いたり、バス、阪神電車を乗り継いだりして行っていました。阪神西宮駅が一番近く、この駅から本殿まで露天が並びます。食べ物屋が一番多いようです。私は買い食いをしませんが、これだけ露天が並ぶという事は食べる人が多いという事でしょう。

大阪の「今宮えびす」は芸者さんをのせて練り歩く「宝恵駕(ほえかご)」で有名です。

西宮のえべっさんは「福男」で有名です。10日の早朝開門と同時にダッシュして本殿まで駆けて行き、1~3番目までが、その年の「福男」となります。昔は一斉
に駆け出したものですが、今は100人ずつに区切られて「福男」になるには、まず100番までの籤に当らなければなりません。

1~3番の「福男」には商品が付きます。勿論1等が一番沢山もらえるのですが、「えびす像」だけは違います。1・2等の人より上等の像が3等の人に贈られます。「金のえびす・大黒像」です。その理由は「残り物には福がある」だそうです。ま~何と粋なことを!

門を入りますと、表示にしたがって進みます。本殿前で神主さんによる祓串(はらいぐし)でのお祓いを受けます。頭上でさっつ、さっつと言う絹ずれならぬ、紙ずれの音は私の心を引き締めます。「さ~、今年も福を掴みにゆくぞ!」って気分にしてくれます。

本殿前に進みお賽銭を投げいれるのですが、昔はお賽銭が見えていたのですが、今は見えなくなっています。明日には銀行の人が何日も掛かってお賽銭を勘定すると言うニュースがテレビで放映されると思います。賽銭勘定が一日で出来ないなんて、凄いことですね。全国の神社の初詣のお賽銭より「えべっさんのお賽銭」の方が多いとは聞いていますが・・・。

次はこれも「西宮神社の大マグロ」の前に進みます。えびすさんは何時も鯛を抱えておられます。そこで大漁を祈願して漁業組合が奉納するのです。今年の大マグロは体長2.50m、重さ250k、地中海の本マグロだそうです。マグロにお金が張り付くと縁起が良いと言うので、私も一円をヒレの窪みに押し込んできました。

一方通行ですので、露天の間を歩いて、今度は「神酒」を頂きに列に並びます、志を箱に入れて「お神酒」を頂きます。私はお酒は好みませんが、このお神酒だけは美味しいと思い頂きます。去年は隣で売っている「お酒」を買って帰ったのですが、今年は買わないと言うので止しました。

このコースで私達のえべっさん詣りは終わりです。お昼ですので阪神に戻って、去年美味しいと思った、中華料理店に入りました。去年は並んで待ったのですが、今年は5分も待たされませんでした。でも途切れる事無くお客さんは入ってきます。

「焼き飯」主人好み「焼き蕎麦」私好みを取って半分っこしました。主人は丁度良い分量だと言うのですが、私は一寸物足りません。と言いますのが私は分量的には昼ごはんを一番多く摂る習慣です。主人はお酒を飲みますから夜の食事の量が多いのです。

此処で主人は家に私は唱歌の学校へと別行動でした。
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子供の遊び

2008年01月10日 | 新聞から
            粋なおじさんと連凧
             百枚続きの凧

今1月?と思うぐらい暖かい日が続いています。あちこちで球根の芽が土の下から顔を出しています。小さな苗も葉の数を増やしていきます。そこには一足も二足も早い春の足音が聞こえているようです。

昨日、息子の時代までは細々と「凧揚げ」「コマ回し」などの遊びが残っていたと書いた。私が書いた事の関連記事が新聞に載ると書いた。その不思議が又現実になった。

朝刊に同じような記事が載っていた。松井今朝子氏の文で《正月の情景「ふつう」が消えていく》

松井今朝子氏は「吉原手引草」で直木賞を受賞した方である。私も今図書館に「吉原手引草」の予約を入れているが、まだ順番が来そうに無い。今はありがたい事に自分のパソコンから読みたい本の予約が入れられるし、自分の予約本が後何人待ちかを知ることも可能である。

新聞の文に戻ると、《それにしても、私が幼い頃はまだ羽根突きも、手まりも、凧揚げも、町なかでする子が沢山居たが、今ではまず見られなくなった。

江戸時代の文献で子供の遊戯を調べてみると、「鬼ごっこ」にしろ「かくれんぼ」にしろ「目隠し」にしろ「子をとろ」にしろ、いずれも自分が一度は町なかでした覚えがあって懐かしい。つまり昭和30年代までは、子供達のレベルがある面で江戸時代とそう変わらなかったともいえるのだ。》

すっかり忘れていた遊びの名が出てきてとても懐かしい。この他に「ハンカチ落し」とか「缶けり」とかありましたね。そうそう「ケンケン」もありました。

今のあぞびとの大きな違いに、年代の違う子と一緒に遊んだことであります。私の様に一人っ子には、其れはとても嬉しいことでした。

今は高学年になれば「塾通い」が始まりますから、低学年と遊ぶ時間は有りません。遊ぶにしても同い年の子と遊ぶのですから、小さい子を庇ってやったり、助けてやったりと言う経験もありません。自分より何でもできる大きい子に憧れたり、優しく教えてもらうと言う経験もありません。その遊びの中から知らず知らずのうちに子供なりに秩序も学んだのではないかと思うのですが。

今の子は世の中に出れば、平等なんてありえないのに、学校では「差」を付けることはいけないこととして、運動会の走りの着順も無く、幼稚園でも皆平等にと「桃太郎」など主役が何人も並ぶと言う不自然さの下に成長している。

これで良いのだろうか。自分の子が差を点けられよものなら、マンモスペアレンツとか言う恐ろしい親が「校長にいいつけるぞ」「教育委員会に告げるぞ」と脅しをかけてくると言う。

そもそも私達の時代には居なかった、マンモスペアレンツはどうして出来たのだろう。先生が教えるための位置だった教壇を無くし、子供と同じ高さから教えるという「友達先生」に教えられてた子供の成れの果ての様な気がするが、間違っているだろうか?

文章はこう結ばれている。《急激に世の中が変化して、今はもとより公園ですら遊べなくなった現代っ子と、丁稚奉公(数えの11歳で、他人の家で住み込みではたらいて、20歳になるまでみっちりと仕事を仕込まれる)をさせられた江戸の少年達と、どちらが可哀想かは一概に言えない。ただ人間は生きる時代を選べないだけは確かだ》

孫娘が言うには、彼女が住んでいる地区では、ブランコが外されているそうだ。事故のあった故だと思うが、外す手間を掛けるなら、直してやって欲しい。この子達がブランコに乗りたい時期は今なのだから。       
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ロシア絵画の真髄

2008年01月09日 | 一寸そこまで
         子供の喜ぶキャラクターも一杯          
         風待ちをしている人々と凧たち

初公開サンクトペテルブルグ 国立ロシア美術館展「ロシア絵画の真髄」を見に行ってきました。本当は去年の内に行くつもりでしたが、風邪を引いたり、正月前で用心したりで、とうとう今日になってしまいました。14日までですから「早く行かなければ」と気が気でなかったのですが、とても暖かい日だったので出かけました。

サントリーミュージアムは初めてです。お隣の海遊館は何度か行きましたが、人様に連れて行っていただいたので、行き方がはっきりしません。ネットで調べますと、JRと地下鉄を乗り次いでも、バスでも時間は同じ25分と書いてあります。乗り換えの無い方が良いとバスで行くことにしました。丁度バスが停留場に止まっていたのですが25分立ちっぱなしと言うのもつらいかなと、12分後の次のバスを待つことにしました。

歌の歌詞を頭の中で反復している内に、心地よい振動に誘われてウツラウツラと眠ってしまいました。「次は天保山」の声に目覚めますと、何と!25分で着くはずが50分掛かっていました。主人が「幾ら200円で安いといっても、時間が掛かって飽き飽きした」と言います。

建物の見えるところに来たのが12時です。手前の建物の中に食べ物やさんがあるようなので、まず腹ごしらえをしようと言う事になりました。姫路に行った時のように、簡単食事でいいだろうという事で、「バラ寿司」「巻き寿司・いなり」とお茶を買って、椅子で食べました。食べ終えた二人の感想。「姫路の方が美味しい」
味付けが変に甘いのです。

後4日ですから込んでいると覚悟をしていきましたが、エレベーターの前まで行くのに30分掛かりました。会場内も満員です。二重三重の人垣が出来ています。何時もどおり音声ガイドを借りて、その説明のある絵を重点的に見る事にしました。

ところが間もなく終わりと言う所で主人が何事か館員の人と話しています。借りた機器が上手く作動しなくて説明を大方聞いていないと言うのです。新しい機械を持ってきてくれるのを待っているとのことです。私の器機を貸して欲しい。初めから見てくるから、交換品を待って私に使えと言うのです。何しろ大勢の人ですから、中々交換品が来ません。これなら自分で行って取り替えた方が早かったと思うぐらい待って、やっと来ました。

故障も調べないで貸した会館も悪いのですが、主人も、「おかしい」と思った時点で、取替えに戻ればいいのにね。何でも私にやってもらっているから駄目なんだわ。展覧会に行きますと二人は何時もばらばらです。見る時間が夫々の絵によって違うからです。出口か作品の説明ビデオの所で待つことにしています。

帰りですが、結局バスで帰ってきました。地下鉄に乗ると乗換えがあるし、バスだと一本で行けますから、バス停で時間を見て、その都合で地下鉄にしようと決めました。幸いなことにバスが直ぐ来ましたので、又居眠りながらJR大阪まで帰ってきました。

梅田に戻ってからお茶しました。そこでの会話で、勿論どの絵も素晴らしかったのですが、心引かれた絵が同じだったのが新しい発見でした。絵を描いていた主人は「専門家やから当たり前とは言え、上手いな~」と感心していました。世界的な画家ですものね。私の見方は少し違います。写真が好きですから、絵を見ながら写真を撮るのもこんな構図が良いな~と言うような見方をしていました。私は絵が描けないから写真で我慢で~す。



コメント (2)
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