ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

ナツコ 密貿易の女王

2006年08月21日 | 読みました
           花後の斑入りアジサイ
    花の咲いているときはこんなに綺麗に斑は入りません
             額アジサイです

二日掛かりの決勝戦、両校に優勝旗を持って帰ってもらいたい気持ちでした。早稲田実業は出場88回目にして悲願の初優勝です。病に伏す大先輩さん王貞治さんへの「一番の薬は僕達の優勝」良い言葉ですね。グーときますね。この言葉を聞いた後の王さんの喜びは大きいでしょうね。後輩からの「一番良く効くお薬」飲んで早く良くなって下さい。

           ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   ナツコ 沖縄密貿易の女王  奥野修司  文芸春秋

これも評論家 竹村健一さん推薦の本でした。若い頃はパイプを銜えて人を小ばかにした様な語り口好きではなかった。この頃は違う。お仕事柄色んなものを読んでいて、優しく解説してくださるので楽しみにテレビ見ています。

読み始めた頃高校野球で沖縄代表「八重山商工」が活躍していました。まさにその八重山の出身なのですナツコは。その地では有名で在りながら、職業が「密貿易」と言う事でその名を書き残されていない人だ。

沖縄がアメリカに占領されて、そのキャンプの荷(窃盗でありながら『戦果』と呼んでいた)を元に密貿易していた女性。アメリカの取締りが強化されて密貿易を止めて、商売する為のビルを建築中、頭皮ガンで38才の若い命を閉じた。何度逮捕されても続け沖縄密貿易の頂点に君臨した人。密貿易の為に生まれ生きたような人。そんな人なんですナツコさんは。

終戦後三宮の闇市に砂糖を運んで来た人のもナツコだという。日本人のテキ屋(盛り場に店を出し、如何わしい物を売る人)か戦勝国民の華僑や在日朝鮮人は第三国人といわれ、日本の警察権力など物ともせず神戸の闇市を仕切っていた。阪神の食品関係やレストランはほとんど台湾人の経営だった。彼らは戦時中から金を溜めていた。資金が豊富で販売ルートもあったので、食料品は一括して買ってくれたという。

戦後日本人の9割に回虫が寄生した。驚いた米軍が駆除に乗り出した。その時に飲んだ薬「マクリ」の元の海藻もナツコが八重山から、後には香港から運んできた。

ナツコは日本の真珠湾攻撃を聞くと「この戦争は負けるよ。沖縄は全滅する」といって尾行が付いていた。ナツコは新婚をマニラで過ごし、暑ければ冷蔵庫の水を飲み、蛇口をひねれば水が出、スイッチ一つでガスの火がつく、その当時の石垣島では夢の又夢であった。植民地のマニラがこうなら本国のアメリカはもっと進んでいるに違いないという理由からだ。

私が一番に驚いたのは「与那国が国境の島」と呼ばれている理由である。空には領空のほかに防空職別圏があり、空の軍事的境界線は領空より500キロより外側にある。与那国島の真ん中に東経123度線が走っているので、島の東側が日本の防空識別圏で西側が台湾の防空識別圏になる。戦後沖縄、韓国、台湾に駐留していた米軍は琉球列島の西端は石垣島だと思い小さな与那国は計算外で適当に空域を分けた。それが現代まで続いているという。123度より西側にある与那国空港は日本の領土であるのに、台湾の防空識別圏にあり、定期便はいいが自衛隊機などは与那国周辺を飛んで、台湾の戦闘機にスクランブル(緊急発進。防空識別圏に敵機または国籍不明機が進入した時迎撃戦闘機が最短時間で離陸する行動)を掛けられることがあるという。

沖縄本土の基地問題も大切だが、この与那国の事は何故問題視されないのだろう。
こんな八重山列島から来ていたのです、八重山商工は・・・。













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近松門左衛門の菩提寺

2006年08月20日 | 今日この頃
              水 蓮
        今年は天候不順で花が少ない
      池ではなく大きな甕に栽培されている

広済寺の施餓鬼に行ってきました。これでお盆の全ての行事終了です。檀家が多すぎるので、午前と午後の二回に分かれて行われます。私達は何時も午前の部に行きます。10時から始まり12時までですが熱心な方々はお坊様と一緒に唱和されます。

12時に塔婆の読み上げが終わりますと。お坊様のご挨拶があり、順番にお焼香をいたします。その後お座敷でバラ寿司のお接待を受けます。遠くは姫路や四国からも来られるそうですので、この昼食のお接待は助かります。良く冷えたお茶の心使いが嬉しいです。

駐車違反の取締りがきつくなりましたので、路上駐車できなくなり、少し遠くの有料駐車場まで入れに行かなくてはならないのが一寸不便になりました。

広済寺は近松門左衛門の菩提寺です。本当に小さなお墓です。近松物を演じる時は、役者さんや浄瑠璃人形がお参りに来られます。

私が嫁いで来た頃は、このお寺は前々任の年老いた住職で、ぼろぼろのお寺でした。又隣の近松公園もゴミ捨て場で山の様なゴミ、異臭を放っていました。

お寺は今の住職のお父上が今の様に立派にされました。檀家も増やされました。
平成15年3月に今の住職が父の後を継いで22世に就任されました。

我家とご縁があって、21世の前住職が始めて檀家回りされた時の檀家が我家だったそうです。21世のご住職と私は同い年、今のご住職と私の次男の誕生日が一日違い、そのお母上が、私が1月まで所属していたクラブの先輩だったのです。

23世も順調に育っておられます。今は全国的に有名な男子校の中学3年生、今日の様な時にはお坊様5人の内の一人としてお経に参加しておられます。お経も上手になってこられ、声も良く出ています。檀家にとっては頼もしい跡取りさんです。

神戸の大震災の時我家のお墓の一番上が転がり落ちました。花立ても倒れました。
よくよく考えますと、主人の母の戒名を刻みます時に一番上だけ一度外しています。その時の後の始末がよくなかったのかも知れないと思います。

お墓の中には沢山のご先祖様のお骨が入っています。屋久島にお墓があったのですが、主人の母は長男の嫁として気になっていたのでしょう。亡くなる10年ほど前に、屋久島のお墓のお性根を抜いていただき、土葬だったので、一体一体を掘り起こし焼いてもらって、両手でやっともてるぐらいのすごい量のお骨を持ってきて、このお墓にどさっと言う感じで入れました。

屋久島のお墓は皆土葬だったので、ばらばらにそれぞれがお墓を造っていたのですが、今はそれを纏めて町営の墓地を造っています。同じ方向を向いた同じ形のお墓が何百と並んでいるのです。お墓の団地です。島ですから墓の花もその時期の同じ花がいけられているのです。私から見ると何だか異様な感じがします。

この頃のお墓事情は変わってきたようです。昔は一族一緒に先祖の墓に入ったものですが、今は各家庭毎と言うのが普通らしく、友人がそろそろお墓の事が気になりだし、お墓を守っている兄弟に打診した所、そちらはそちらでと断られたそうです。こんな話は時々耳にします。お墓のコマーシャルを見ると思い出します。昔は遺産と墓守が一対だったのですが今は違います。だから今まで人任せにしていた墓に入ろうという友人も虫がいいのかも知れません。案外墓守と言うのはお金の掛かるものだという事を友人は知らないんです。

広済寺でも新しいお墓は同じ方向を向いていますが、夫々造りは違いますし、マンションの様なお墓と言うかお骨預かり所の様なのもあります。各家庭毎と言うのもあっさりしていいかもしれません。


































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蝉の声

2006年08月19日 | 今日この頃
             ルドベキア
         びっしりとこぼれ種が出る
       思いっきり間引いたので少し寂しい

蝉の亡骸がコロリと横たわっています。でもあんなにないていたのを思いますと数が少ないです。高い木の上にしがみ付いたままなんでしょうか。

何処かで虫が「チチチチ・・・」と鳴いています。何の虫だろう・・・秋が其処まで来ているのでしょうね。急速に秋がやって来るのでしょうか。

蝉は何の為に生まれて来るのでしょうか?土の中に7年も幼虫で居て、地上に出てからは寿命は2週間程度、それも生む卵が約300個、その卵から成虫になれるのはほんの数個だといいます。と言う事は我家の庭の土中にも来年以降に生まれる予定の卵が成長しつつあるという事ですね。

2週間の間に子孫を残さなければなりません。あの五月蝿いと感じる声は求愛の声なんです。だから雄だけが鳴いて雌はなかないので(唖蝉=オシゼミ)と言うそうです。メスは地中に卵を産み付けた所で息絶えるのでしょうか。

盛んになくのは「クマゼミ」だと思うのです。「クマゼミ」は全国的だと思っていたら関西一円の蝉だそうで、近年関東にも住み始めたそうだ。「蜩」「油蝉」「ミンミンゼミ」「法師蝉」も鳴くのは聞いた事があるのですが、何処で聞いたのか思い出せません。蝉の種類は日本が一番多いそうです。

「クマゼミ」「油蝉」「ミンミンセミ」などは真夏の蝉ですが、「法師セミ」「蜩」は8月半ばから鳴き始める、秋のセミです。秋蝉は夏蝉のように団体で蝉時雨となくのではなく、順番にお行儀良くなくそうです。だから秋の寂しさを感じるのかも知れませんね。

北米には17年蝉と言うのが居るそうです。13年蝉もいる。13年17年の周期を持って大量に発生するので「周期蝉」と呼ばれる。周期ゼミは小枝に産み付けられて、6~10週で孵化し、地上に落ちてから地下にもぐって17年過ごすらしいです。これらは順番に地上にでるのではなく一夜に大部分が一斉に出てくる。たとえ17年に一度といえども時期を同じくして出てくるので、天敵に食われても数が居るので子孫を残す事が出来るのです。その数1m四方に1200匹以上です。2004年がその年に当たったので今度は2021年だ。

 松尾芭蕉 「閑かさや 岩にしみいる せみの声」

山形市の山寺で詠まれた。昭和の初めこのせみが何せみかと言う論争が、山形出身の斉藤茂吉と東北帝大教授・小宮豊隆の間で起こったが、茂吉は「閑かさ」を「群蝉(ぐんせん)のなく中の静寂」と捉え「アブラゼミだといい、小宮は「岩にしみ入る」だから「細くて澄んでいて糸筋のように」なくニイニイゼミだと主張。茂吉は「それでは当然過ぎて面白みがない」と言い、小宮も「太くて濁って直線的で息が続かないアブラゼミの声では、誠に具合が悪い」と応じた。結果は茂吉の敗北宣言。理由は芭蕉が山寺を訪れた新暦7月13日はアブラゼミがなくには早いという理由とか。

私は声の調子から行けば「蜩」だと、また団体ではなかないという順番になくという「法師ぜみ」かなとも思ったが、二種類とも秋近くになくのだから時期的に合わない。

それでは蝉は何処でないているのか?岩の端にいるのか、近くに木が在ってそのなき声が岩に向けられ吸い込まれるように感じるのか。

「静かさ」ではなく「閑かさ」を使った状態は?

俳句って奥が深いね。あ~愉しかった学生時代に戻れて・・・





























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「拉致」の日本の上映は何時?

2006年08月18日 | 新聞から
         神戸花鳥園の球根ベコニア
          芥子粒より小さい種から
         この大輪 信じられない!

唱歌の学校が始まりました。でも出席率悪かったです。お盆の続きでまだお孫さんが居たり、施餓鬼だったりと、何時もは休まない人が休んでいる。1ヶ月の休みで休み癖が付いて私も何だか行きづらかった。次の金曜で今年度終了、皆勤者が一人・・・すごい! 私なんか自慢じゃないけど8年間で一度も皆勤賞取った事がない。

毎月最初の週にその月の誕生日の人に「ハッピバースディ」の歌のプレゼント。今月は何方もなく校長先生にプレゼント。先生65歳の誕生日だそうだ。このクラスに居ると自分が若いと思えて嬉しいって。生徒平均7?才だもんね。

先生ご一家ポルトガルに旅行された。校長先生が訥々と話してくださる。空港が広くて梅田から難波まで歩いた感じだ。ポルトガルの端っこに行って、この海の先はアメリカと言う場所では感動した。そうだろうね。日本の世界地図ではアメリカが右にポルトガルが左の端にあるから、実はアメリカとポルトガルがお隣同士とは感じ難いものね。ポルトガルから日本へは遠くて乗り応えがあったそうだ。

発声練習で校長先生が席を外された時、のりこ先生が「結婚した当時はヨーロッパに行く時は校長が言葉も出来るし(ドイツで音楽の勉強をされた)慣れてるし、これは良いと思って結婚したのに、65歳となれば体力気力とも駄目になって、この頃は手続きのカウンターの前では私の背中を突くのよ「お前して来い」って。個人プランなので全てを自分でしなくてはならない。目も悪くなって電光掲示板も見え難くなって、探している間に息子(9歳)の方が見つけてくれる。もう親父より息子が頼りだ。荷物だって昔は両手にヒョイと持って「さぁ~いこか」だったのに、今では私が両手に荷物持って、校長はカメラだけ持っている。等滔々と話される「あ~しゃべってすっきりした」と終わり。

愉しいお教室が又始まりました。久し振りに歌って私も「すっきりしたわ」

・・・「拉致」ハリウッドで封切・・・と小さな記事が出ていました。
北朝鮮による横田めぐみさん拉致事件を描いた米ドキュメンタリー映画「アブダクション(拉致)横田めぐみストーリー」が18日から、ハリウッドの映画館で封切られる。各地の映画祭で賞を取るなど評判が良く、アカデミー賞(長編ドキュメンタリー部門)の応募資格も狙った上映だ。米テレビなどでドキュメンタリーを手がけてきたクリス・シェリダンさんと妻のパティ・キムさん夫妻の制作・監督作品。制作事務所によると、作品はサンフランシクコ国際アジア・アメリカ映画祭で最優秀審査員賞、スラムダンス映画祭で観客賞を受賞した。

何故、日本でないの?さきえさんが心の叫びを訴え続けているのに、日本では他人事の話なんだ。中々進展を見ない交渉に私でさえいらいらする。交渉しているのか?と疑ってしまう。日本だってドキュメンタリー映画は作られているでしょう、得意のアニメでもいいわ、そうすれば子供達にも関心を持ってもらえるわ。

この作品が全世界で評判になり、大勢の人に見てもらい、その勢いで、めぐみさんの帰国が叶ったらどんなにいいだろう。めぐみさんはご自身がこんなに何年も渦中の人になっている事を全く知らないのだろうか?その様な環境に居ないのか?上級の生活者は自由があるようだけれど・・・と考えると悲しい仮定をしてしまう。

「拉致」何時日本で上映だろうか?私は見たい。一日も早く。そして一人でも多くの人に関心を持ってもらいたい。そして世論が動き一気に解決の道を開いて欲しい。




























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旅はサンドイッチ

2006年08月17日 | 今日この頃
              高砂ユリ
    5年前紙に包まれた平たく透け透けの種を見つけた
       何の種か解らず蒔いた、ユリだった
      「高砂ユリ」と解る「細葉ユリ」とも呼ぶ
         何方に頂いたかは未だに不明

先週の今頃は「三鷹の森ジブリ博物館」に居たな~とか「東京タワー」で「六本木ヒルズ」の思いの外の大きさに驚いたな~とか思い出して楽しんでいた。今まで旅行はプランを練る時と行く時と二度楽しめると思っていたが、帰っても又思い出して楽しめる「旅はサンドイッチ」良いキャッチコピーが出来た。

今までだって思い出を楽しんでは居たんだけれどセットとは感じなかった。年を重ねると色んな思いも変わるのかな~。見かけや体力だけではなく心の中も変化するんだ・・・。

昨日まではお盆でジムは空いていたが今日辺りから人も多くなってきた。「此処が一番極楽やわ。お風呂はあるし涼しいし」と大声が聞こえて皆で大笑いした。プールの人が多いのでプールが綺麗で大きくなって喜んでいる。唯プールの水に地下水を使う予定だったのが検査によって水質が安全ギリギリだったので、予定を変更して水道水を使う事になった。それ故か水が温いんだって。それが気持ち悪いって、色々と文句が出るものだ。

今日は曇っていたので野天風呂に入ってみた。やはり気持ちが良い、ゲルマニュームが袋に入れて吊下げてある。3畳は優にあるお風呂を独り占め、温泉の好きな人の気持ちがちょっぴり解る気がした。

今年の2月中尾のかまくら祭りに行った時も、宿の野天風呂に入った。屋根は無いから、雪が降ってくると番傘か笠を差して入るように壁に掛けてあった。丁度雪が降ってきたので主人は笠を私は番傘を差して入った。雪に煙る景色を見ながらの入浴は良いが、やはり寒くて早々に出た。

かまくら祭りの会場に色んなかまくらがあって、飲み物のかまくら、囲炉裏の在るかまくら、そして男湯と女湯のかまくらがあった。雪の中の桧の湯船の温泉に入りたかったので、この旅を計画したので孫娘と二人入ったが、脱衣所が狭くて一寸苦労した。お湯に浸かっている間は良いが、出て服を着る間に風邪を引きそうに寒い。もう二度と無い良い経験だったとは思う。

15年前息子一家と屋久島に行った時、引潮の時だけ現れる露天風呂に行った。その時は本当に自然に出来た岩のくぼみの露天風呂で、脱衣所も無く主人と息子と孫だけが入って私とお嫁さんは足を浸けただけだった。その端には小さな潮溜まりが沢山あって小魚が泳いでいた。孫は温泉よりそのほうを喜んでいた。2年前も行くつもりだったが入浴の為に少し手を加えたと書いてあったし、何しろ一日2回干潮の前後2時間しか入れないので止めた。平内地中温泉といいます。水着も下着も駄目でスッポンポンオンリイです。一寸女性は入りにくいですね。

泊まった宿の庭に大きな露天風呂が2ヶ所作りかけていました。目の前が海で、その場所は夕日の美しい海岸という事なので夕日を見ながら入るのも良いかも知れません。でも夕日は食事時間が最高に、刻々と変化する空の色本当に綺麗でした。でも孫達はご馳走に気を取られてる様でした。

熱海でも露天風呂に入りましたが、此処も海が見えますが屋根は付いていました。思い出しますと今年になってから私は露天風呂に入るようになった様です。遅まきながら老人の好みになってきたのかしら?

野天風呂と露天風呂と違いますか?屋根つきとか屋根なしとかの違い?
































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Y K K

2006年08月16日 | 新聞から
         ムクゲ(この花見~つけた)
       夏の花木は涼しげに咲いています
        草花は花は咲いていますが
       色を落として健気に頑張っています

台風10号の関係で一日中東の風が涼しかった。

この2,3日前から蝉がなかなくなりました。テレビでは東京はフエン現象で蝉は9月までなくだろうと言っていましたのに。

加藤紘一さん宅が焼かれましたね。付け火、割腹しそこなった方が右翼の人だそうで「靖国問題」の小泉総理に反対の立場に立つ加藤さんが狙われたかも知れないそうですが、そうだとしたら方法としては間違っていますね。65歳で自身の信じる思想を現在まで守り貫いた人のする事ではありませんね。

初め私は右翼の若者が感情のコントロールが聞かなくて独走したと思っていました。諌める人が居なかったのかと思っていました。なんと諌める側に回るべき人の犯行でした。

右翼といえば、私が毎年初詣に行く「橿原神宮」には建国記念日に集まるそうです。私が四国遍路で歩いている時に、あのくすんだ緑色の街宣車が音高らかに軍歌を流しながら通りました(四国では2.3度出会いました)。軍歌と言うのは心の高揚するもので、思わず曲に合わせて行進しているのですよ。想像してみてください。菅笠、杖を持った白装束の二人が足を上げて行進している姿を・・・漫画やがな~。

加藤さんは可っては「YKK」で小泉総理と三人組を組んでいた人ですよね。加藤さんは「加藤の乱」とか、山崎拓さんは恥ずかしい事件とこの度は総理争いに参加しようとしましたね。勿論政治家になれば頂点の総理の椅子を目指すの当たり前でしょう。しかし総理の椅子は唯一つ、そこにたどり着くにはもっと身を正して頂きたい。その時の自分の地位で自分を甘やかしてしまっては総理になる資格は無いと思うのですが・・・山崎さん・・・ 「加藤の乱」で終わるような計算の甘い方に総理の椅子は任せられませんよ・・・加藤さん・・・

この三人がどういう接点で三人組といわれるようになったのか、知りたいですね。

近代、歴代の総理を見てみますと時々変な人が混じりますが、「敵ながら天晴れ!」と言う感じの方が多いですね。どちらかといえば頑固一徹者(小泉総理が初めてではない)が多いように思います。時としては腹立たしいのですが、主義主張を持って政治家になったのですから、聞く耳持たないのではなくて、聞く耳持ちながら主張を貫いて欲しい。

小泉総理のスタッフの「骨太」に気を取られて居る内に、国の財政より我家の財政が細ってきました。利息は低いは、税、保険は上るは、年金は下がるは、年寄りが多いから年金が足りないといわれ、元々あった年金の積み立て金を湯水のごとく必要ない施設に使って準備金が底を付いた事は口を拭って知らん顔。「ちゃんと積み立てていたから貰っても良いよね」とボソボソと呟くこんな悲しい立場に追いやったのは誰!誰の責任!

感謝して受け取っていますよ年金。年金があるから子供に頼らなくても生きていけます。でもそれだから親子の助け合いの関係も薄れているのも事実ですね。自分達の手に負えなくなったら、親は国が見てくれるものと考えている若い世代を生み出したのも年金生活かな~。

ジムのヨガの先生が替わりました。10年以上同じパターンを続ける先生でした。
みんなの不服の声が届いたのかと思ったら違いました。親の看護の為仕事が続けられなくなったそうです。仕事に関しては職務怠慢でしたが、親御さんの看病を第一とされた事で見直しました。なんと幸せな親御さんでしょう。先生頑張れ!
                             
                             (130回)





























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小泉総理の今日

2006年08月15日 | テレビから
             トンボ
        もう秋ですね。トンボです
   シルエットが面白いのでこの写真にしました
       トンボとしては小さいほうです

関西は良いお天気なのに、今朝方東京は雨のようだった。今朝はテレビを点けて新聞を読みながら小泉総理の参拝風景のニュースが流れるのを待っていました。勘は当たりました。「小泉さんやっぱり靖国へ行きはったで~」早速主人に告。「小泉さん明日行くかな?」「ふん、行ったらええねん」「行くと思うは・・・」昨夜二人で話していたから。

関西は一日中晴れていて野球の中継で「戦没者への黙祷」がありました。1991年8月15日私は富士山頂に立っていました。富士山は高いだけに良く雨が降ると聞いていた。友人のご主人は4年続けて登って雨、嵐で頂上までいけなかった。そこで富士登山の話が出た時に「何時に?」と考えた。この高校球児の「黙祷」の姿を思い出した。あの黙祷のシーンではいつもかんかん照りだった。もしかしたら8月15日は「晴れの得意日(10月10日の体育の日が有名)」かもしれない。この勘は当たり、富士山からのご来光を拝む事が出来た。一度でご来光を拝めるのは珍しいそうで、ジムでも3回続けてツアーを組んたが雨で途中から下山、それ以来ツアーも中断したようだ。

小泉総理靖国神社に行かれた。事、靖国問題に関しては小泉総理と同じ考えです。

今日実行した理由として、(1)中国、韓国は何時行っても干渉し問題視する。それなら8月15日でも同じ。他国の言いなりにならないで欲しかったし、「日本は言いなりになる国では無い」と言う、これから付き合う為にも必要最低限の事を態度で示せて良かった。

(2)特定の人の為の参拝ではない。A級戦犯に礼を尽くすのがいけないと、それ一つに集中しているが、田舎に行った時「忠霊塔」や「役職名の付いたお墓」を見かけるが、そのお墓の守をしている遺族は何処に魂は帰っていると思っているのだろう。身近な家族のお墓だと思うのですが。

靖国神社(1869年設立)千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年)があり、靖国神社は「招魂社」として片や遺骨はあるが遺族に渡せなかったお骨を収めている所。いずれに在るとしても、実際には故郷のお墓に帰っていると思うのですが、だから「名前のみが合祀」されているのを、どうしてそんなに大騒ぎするのだろうと思うのです。国の代表者が礼を尽くすのに1ヶ所に集めたほうが良いからと単純に考えてはいけないのだろうか。

生きている者が同期会等で集うように、死者も国の代表の礼拝の在るその日に集ってくる場所とは考えられないのだろうか。魂があるのなら、絶対故郷に帰りますよ。「靖国で会おう」が合言葉であっても、魂ならいつでも自在に行き来出来ると思うのですが。出雲大社だって年の内1ヶ月だけ全国の神様の集まる場所ではないか。

私は何故兵隊さんだけなのか?と思うんです。戦いの為に未来を生きれなかったのは兵隊さんだけではありません。内地で空襲で命を落とした方々の未来も同じだと思うのです。

私が疎開から帰って住んだ町は全く焼けていません。私は焼け跡に行って其処を掘りました。出てきたのはギヤマンの小鉢2個と象牙の小さな果物ナイフだけです。今でも大切に持っています。焼ける前の生活に繋がる物はこれしかないのです。

(3)憲法違反ではない(19条に違反しているとか)。毎年伊勢神宮にも参拝し、神式に則って参拝しているが、そちらについては何も言わない。内政干渉と思われる国々がどの様な態度に出るのか、毅然とした態度で対したいですね。



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世界報道写真展2006と石垣守写真展

2006年08月14日 | 一寸そこまで
              初雪草
          こぼれ種で咲きました
      この花が咲くとそこだけ涼風が吹いている

買い置きのパンが無くなったので、阪急に買出しに行く事になった。パンだけでは勿体無いので「世界報道写真展2006」を見に行く事にした。「ハービスホール」は初めてだ。目星をつけて地上から行こうとしたが、道路が中断されて上手くいかない。戻るのもバカらしいので地下にもぐった。ホテルリッツカールトンの隣辺りと目星が付いている。このホテルには何度か例会で通っている。

11時から開場の15分前にホールに着いた。ふと見るともう一つ写真展(此方は無料)があった。私は何気なく入ってみた。「石垣守さんの写真展」はインド パキスタン ニューギニア ミャンマーの人々の写真である。綺麗な写真、笑顔の写真
が一杯・・・やはり目で見るとその国の生活が良く解る。写真って良いな~とつくづく思う。

石垣守さんの写真初めて拝見。65才から写真を始めて現在83才「年だから長旅は終わりのほうはスタミナ切れになるので、又四季を感じたいので短期間を回数多く通って撮影した。いい写真を撮るのは良いガイドに恵まれたからだ。何回も通ったので被写体の成長過程も見る楽しみがあったという」ぶらっと入った写真展いいものを見せていただけてラッキーだった。

「世界報道写真展2006」思ったより盛会だった。天災人災の写真展だけに皆黙々と見ている。息が詰まりそうな感じだった。人間はなんと酷い事をする生き物なんだろう。

       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     象の背中  秋元 康   産経新聞社

泣きました。涙を流しました。物語にではなく、その時々の「台詞」に涙しました。本を読んで泣いたのは久し振りです。たかこさんが推薦してくれました。

48歳で肺がんで手遅れ半年の命の宣告を受け、その半年間を今までの自分の人生で忘れられない人に会おうと決める。一番に中学時代の初恋の人に会いに、次に高校時代に絶交した親友に会いに、次々と会いに行く。延命治療は拒否しているのでだんだん悪くなっていき最後はホスピスで亡くなる。

「死ぬ事は怖くないんです。忘れられる事が怖いんです」(主人公の言葉)
たとえそれが大事な人であっても時が悲しみを薄れさせる。これは一時的にではあっても忘れる時があるという事ではないの?

「今までの人生を振り返ってあの時いえなかった事、あの時出来なかった事をするために時間を割こうと思った。言わば人生の敗者復活戦だ」(主人公)
敗者復活戦は負け組みから勝ち組になる努力をする戦いではないの?遣り残した事をするのが敗者復活戦?

「病気になるという事はマラソンをしていて、途中から一人だけペースがおちていくようなものだ。次第に一団から引き離され、最後は自分ひとりになって、走るのを諦め立ち止まる」(主人公)
最後一人になっても走り続ける人もいるよね。この人はどうなるの?病に克ったという事?

「妻に隠し立てしたくないから全て話す(主人公) それは逃げだ。何でも話す事が誠意ではない。正直に話せばいいものではない。それは相手を思いやる事を放棄している(長兄の答え)」
お兄さんの言う事はもっともだと思う。言った本人は気が済むが言われた方が傷付くことも多い。言って良い事と悪いことの区別のつかない人は困り者だ。

「人に気を使いすぎるところがある。自分を押し殺すな。協調性よりも大切な事があるのを忘れるな。嫌われる勇気を持て」(主人公から息子へのアドバイス)
嫌われる勇気を持て・・・この言葉が一番胸を打った。人間誰でも良く思われたいという気持ちがある。お世辞がその最たるものだと思うが、軽いお世辞はコミュニケーションの潤滑油でもある。私はお世辞が言えないが、かといって「ノー」とも言えず無言でいることも多い。これも即ち「嫌われる勇気」が無いからだろうか・・・。


















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旅行

2006年08月13日 | 思い出話
         アイビー・ゼラニューム
           八重咲きである
    全然大きくならないが、さりとて枯れもしない

小さい頃から旅行には良く連れて行ってもらった。といっても集団疎開する迄であるから小学3年生までである。旅行といっても遠くに行くのではなく、近場で同じ所に行くのである。良く覚えているのが丹後の宮津である。所謂煙を出して走る汽車旅行である。トンネルの前に来ると「ボー」と短く強く汽笛がなる。すると皆慌てて窓を閉めるのである。でも窓の縁から煙が独特の臭いと共にもくもくと忍び込んでくる。だからトンネルを抜けて明るくなった車内のみんなの顔は煤で薄汚れている。その顔が可笑しいと言って大笑いしたものだ。

丹後の海はクラゲが一杯だった。でもそれをよけながら皆泳いでいたのである。私は身体を動かす事自体が嫌いだったから、海に入ってもクラゲを理由に直ぐ上ったのだろうクラゲに刺された覚えが無い。

夕方丹後に着いて、宿まで歩いている時、大きな夕日が今まさに沈もうとしているのに出会った事がある。お日様が沈む様をみたいと思ったのだろう、お日様のほうばかり見て歩いていた。何かに躓いて一瞬目を離した隙に日は隠れてしまった。
お日様って一瞬の間に隠れてしまうのだとその時おもった、その悔しさを昨日の事のように覚えている。「丹後の宮津」といえば「一瞬の落陽」と反射的に出てくる。

子供達を良く連れて行ったのは「白浜」である。会社の保養所があった。自炊も可能だった。白浜の温泉は私の洗剤負け(主婦性湿疹)には良く効いたので、温泉を持ってかえった事もある。でもそれは一時的であった。

指紋が無くなるほどに酷かった指はお医者さんに掛かっても中々直らず、米ぬかで手を浸している内にだんだんよくなってきた。完治はしていなかったが、あやこさんちが地元でチョコレート工場を経営していてた関係でアルバイトでチョコレートの袋詰めをさせてもらっていた(主人の単身赴任での旅費稼ぎ)、チョコレートの油で、まず手がつるつるになった。それから米ぬかで手を浸し続け、手に優しいというアメリカの洗剤に変え、人前に恥ずかしくて出されなかった手も綺麗になった。完治するのに4~5年は優に掛かったと思う。

会社の寮は全国にあったが、私達が利用したには白浜、山中湖、そして六甲山ぐらいであった。その頃は精神的余裕が無くて余り利用しなかった。今思えば惜しいことをしたものだ。

子供達は広島の原爆記念館、秋の宮島などに連れて行った。親子4人の最後の旅は鹿児島までのドライブ旅行だった。私と次男が免許取立で、新年を鹿児島の叔母の家で迎える為にドライヴ旅行を計画した。4人ともが新米(主人は20年前にとっていたが、ペーパードライバーだった)なのでハンドルの奪い合い、結局私は一度も運転できなかった。

孫との二人旅は男の子の小学一年生から始まった。3年間はディズニーランドオンリィだった。その前後に東京見物を加える様になった。東北の4大祭りは1週間と長かったので、主人も加わり3人旅となった。

孫との行き先については、孫が行きたいと呟いたことを覚えて置いて計画を立てることもあるが、子供に意見があるわけではないので、大概は私の行きたい所、見せたい物を中心に計画を練っている。粗方の予定が立ったら予定表を作り親に届けて孫に説明してもらうことにしている。

この頃は旅の終わりに「今度は何処?」と聞く、楽しみにしているのかと喜んでいる。身体に気をつけてまだまだ「孫との二人旅」を楽しみたいと思っている。














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東京(2)

2006年08月12日 | ちっちゃな旅
        三鷹の森ジブリ美術館のレストラン
         孫娘は麦わら帽子のチョコパフェ
       私は野菜畑の冷たいパスタを取りました

今年の夏はワンピースとスカートで女らしい流行だと言われていたが関西ではその気配を感じなかった。東京ではスカートが案外目に付いた。流行に素直という事かな。ラッシュにぶつかりました。車中は混んでいなかったがホームにたどり着くのが大変だった。降りてくる人が背中と胸がくっ付きそうな間隔でどんどん降りてきて流れに逆行する私達はやっとの思いです。関西と違いは10時までは座席がない、沢山詰め込む為に椅子は畳まれている。出口も5ヶ所と多かった。

駅は「市谷」自衛隊の駐屯所のある所「代々木」オリンピックの競泳プールのある所とか説明しながら「三鷹」まで行った。此処からは「ジブリ美術館専用バス」がある。普通のバスも止まるが「専用バス」に乗りたいというので10分待った。料金は子供100円のところ夏休み中は50円だ。

入り口からは美術館内は撮影禁止である。思っていたよりこじんまりとしていた。
まず短編映画「みずぐも もんもん」を見た。みずぐもと水澄ましの友情物語。

「猫ばす」等子供の触れて遊べる遊べる場所もあったが彼女には幼い道具らしくパスし、ラッパ型の拡声器とか手で廻すと小さなスクリーンに動画が出るとか自分で触れる物には興味を示したが、映画の出来るまでとか、書斎の風景とかは興味を示さなかった。3階までの螺旋階段は2度登った(私は一度)。売店で「可愛い犬のマグネット」と「メイの付いたストラップ」をお揃いで買った。私はメモ用紙を2冊追加した。

庭の「レストラン」は行列が出来ている。結局は1時間並んだ。椅子があるので座って絵本を読みながら待つように出来ていた。お店の中も可愛く出来ていた。チョコパフェは高さ25㎝ほどもある、その先におなじみの旗が立ててあった。キーウイとイチゴがいらないというので、私の鶏肉のソテーと交換した。私のスパゲティのお皿がトトロの絵で可愛かった。目で食べるには満点の飾りつけでした。

東京タワーに行きたいというので早めに切り上げ駅まで歩いた。元武蔵野地域なので街路樹も太い。良い所だな~と15分間を楽しんだ。

浜松町から増上寺にそって東京タワー(330M)に着いた。ここでも建物が綺麗になっているのに驚いた。数年前兄の方を連れて来た時、タワー下の建物は薄暗い感じで、なんだか早く立ち去りたい思いだったが、明るく広々としている。

今まで大展望台(150M)までしか上がった事が無いので特別展望台(250M)まで上がる事にした。階段を40段程上がってからエレベーターに乗ることになる。エレベーターを待っている間に、切符を確かめておこうと言う気になり、切符を取り出して「ギョ?」18時のはずが16時になっているまさかの間違いである。後その時間に30分しかない到底間に合わない。いいや予定通り18時に乗ろうと決めて、上空250Mの風景を楽しむ事にした。

上は細い所なのであっという間に一周できる。富士山は見えなかったが、昨日行ったお台場のフジテレ、レインボーブリッヂ、有名な六本木ヒルズが良く見えた。「ほりえもんさんの御住まい」は高くて大きなビルだ。

みて、ふれて、写して遊ぶ「トリックアートギャラリー」が見たいと言うのでそこを最後に帰る事にした。

東京駅で窓口に直行して如何すれば良いか聞いた「時刻が過ぎているので指定席は無効だが、このまま自由席に並ぶといい」予定より一台早いのに乗れるのでお弁当を買って並ぶ事にした。20分前に並んでよかった満席で立っている人も出た。

新大阪駅で待つ母親に彼女を渡し「ちっちゃな旅」無事終えた。またね~。












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