ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

なるほどと納得

2006年08月01日 | 備忘録より
              浜木綿
          7月28日に見つけた花
     少し咲ききっていましたがどうにか撮れました
         よく見れば一寸変わった花です

今日も「言葉」と言う私の備忘録からの抜き出し

     インストール  綿矢りさ

ハードスケジュールが自分の有能さと人気の証だと勘違いして、利用されているだけなのに、それと気付かない、つまらない粒々の仕事を全部押し付けられて緊張している。

  「インストール」は2001年17歳の高校生の時の作品。
  第38回文芸賞受賞作品
  「蹴りたい背中」で2004年20歳の時芥川賞受賞。

この言葉を読んだ時、ど~んと背中をどやされた様な、身体中をゆすられた様な気がした。当時私も手帳を持って空白を埋める事を楽しみにしていた嫌いがある。「有能さと人気の証」の勘違いである。もう直ぐ70歳に手が届こうと言う時である。私はまだ「勘違い」しながらウロウロと忙しがっている。高校生のりささんに懇々と言って聞かされた感じ。りささんの周りにも老若男女に関係なく「勘違い」している人が居たのだろうか。

「手帳」を持ってせっせと空欄を埋めている人、皆が多かれ少なかれ持っている「勘違い」である。「勘違い」で動いている人、私の周りにも沢山いる。「類は類を呼ぶ」の例え通りだ。「解っているけど止められない」で徐々に減らしはしたが
抜け出すのに4~5年掛かっている。

グループの力、中心になって行動する事が悪いのではない。本当に中心になれる人は少数なのに、自分もと「勘違い」するのが間違っているのである。「勘違い」の中にいる時には気付かなかったのに、飛び出してみて初めて「納得」できる言葉である。結論としては同じグループに永年居ると「勘違い」しやすいという事かな。

私はグループに属すると、10年は居続ける。そうするとなんとなく「そのグループ」の事はよく知っていて、自分が抜けると戦力が落ちるのではないか?なんて気持ちになるのも事実だ。今までの経験から言えば古参になればなるほど「頭を垂れよ」と言うことだ。

あ~ぁ「負うた子に教えられ浅瀬を渡る」かな・・・

     朝日新聞 人生相談(2005-10-25) ピーコ

自分の限度を知りながら、引き受けてしまうのは「人望が集まる」「人から信頼される」と言った「欲」があるから信頼や人望は一つずつ物事をきちんとやり遂げてこそ得られるもの。

綿矢さんの「勘違い」と何処やら似ている。言葉は違うが言わんとする事は同じではないか。

ピーコさんが眼球摘出した時、友人からカラフルな義眼のプレゼントが多かったという。それを読んだ時、今までピーコさんを偏見の目で見ていた事に気付いた。ちゃらちゃらした人だと思っていたが、それは売りの部分でもあり、本当はいたって常識人なんだと。芸能界で友人が多いという事がそれを示している様な気がする。この回答を読んだ時その私の感に間違い無いと確信した。人は見かけで判断してはならないと。コミュニケーションをとって見なければ実像はわからないと・・・。でも直感が正しい事も多々ある・・・さて?どっち?







     
コメント (6)
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