ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

遍路  (102回)

2010年05月29日 | 思い出話
               平成15年11月18日
                   女体山越え



             距離:13K  ながお路 …  女体山 … 大窪寺




いよいよ女体山です。頭の中は「岩場」「岩場」と反響しています。遍路道として
は緑の中なので、気持ちの良い道に属していました。しかし、何時現れるか分
からない「岩場」がそれらを味わう余裕を奪っています。「岩場」が道中のどのあ
たりにあるのか、書いてあるのを読んだことが無いからです。

「岩場」は突然と言う感じで私の目の前に現れました。青い空に届くかのように、
屏風のように立ちはだかっていました。昨夜、私は「岩場」では杖をどうすれば
いいのだろう(よじ登るのに、杖は邪魔)と考えていました。皆さんの手記を読
むと、「両手を使って、よじ登った」と書いてあったからです。リュックと体の間に
差し込もうか?リュックの上に縛り付けようか? どちらも一長一短ありそうだな
~…と考えている間に眠ってしまったっけ。 

    

実際には主人が私の杖も持ってくれました。私は自由になった両手を駆使し
て、岩のくぼみに手を掛けながら、足の安定するくぼみを探して身体を上に
運ぶことだけを考えていました。怖いとか、どのくらいの距離なのかとかを考
えては居ませんでした。何が何でも此処を登りきらなくてはと言う気持ちだけ
でした。時間を計っておこうと思っていましたのに、すっかり忘れておりました。
登ってきた岩場を一歩先にたどり着いた私が、上から写した(上の写真)の
ですが、あまり険しい感じが出ていませんが、岩の上に苔が付いているので、
雨の日は危ないと言うことが分かりました。「岩場」は上り最後の難関だった
のです。



のぼりっきた頂上の左手にこの(上の)突き出た岩があるのですが、予定とし
ては、その先まで行って谷底を撮るつもりでした。でもその力が私には残って
いませんでした。「岩場」のことが気になって、朝食も何時もの半分しかのど
を通りませんでしたし、それ以後何も食べていない、水だけだったのです。

「岩場」を登りきったとたんに私のおなかが盛大になり始めました。気分的には
まだ空腹感は感じていなかったのですが、空になった「胃」や「腸」は自分達も
働きたいと主張しているようです。「もう少し辛抱してよ!」と、わが胃腸に言い
聞かせながら、安心した私は盛んに主張し続ける胃腸の叫びに笑い続けまし
た。

登りきれば、今度はくだりだけです。下って下って結願寺…、第88番 大窪
の裏山から入ることになります。「女体山」を越えて入りますと、立派な仁
王門の前で「やっと来た!」と言う感慨は味わえないわけです。スルッと、お
寺の中央に入ってしまうわけです。



   

コメント
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