ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

広島焼き

2007年08月08日 | 一寸そこまで
         原爆慰霊碑とドーム

広島行きにはもう一つ初体験したいものがあった。「広島焼き」である。テレビでキャベツてんこ盛りの姿を見て、「何?」それから如何調理するかに興味があった。

「お好み横丁」と言うのがあって、お好み焼き屋がずらりと並んでいるらしい。先ずネットで調べてみた、お好み横丁は凄い争奪戦だと書いてあった。そういうところに行くのは余り好きではないのでパスすることにした。調べている内に「チャット」と言うのでしょうか、関西のお好み焼きと、広島のお好み焼きのファンがいて、夫々一番美味しいと譲らない。其処に東京のもんじゃ焼きも仲間に入れてと入ってくる。その会話の中で「広島駅ビルの麗ちゃん」と言うお店の事が出てきた。関西の人ももう一度食べたいと言う。此処に決めた!

美味しいという言葉を信じたし、第一わざわざ寄り道しなくてすむことが気に入った。平和祈念式に出たくて行くのですが、それが済むとさっさと帰りたいのです。
暑いのが苦手なんです。幸いな事に午前中は曇っていて帽子もいらないくらいでした。午後からは強い太陽が照りつけてきた。

何故広島に投下したのか、候補地は広島、長崎、小倉、京都だったが、最終的に京都は外し新潟が候補になった。あくまでも広島が第一候補(軍の師団があったから)であり、原爆の投下状態を良く知るために、広島市内への空襲は5月から一切中止したそうだ。大都会で空襲の無かったのは広島だけ。広島の人は、数ヶ月静かな日常を過ごしていた。其処に突然の原子爆弾である。

私が一番心打たれたのは、市民の方の書かれた絵の一つである。その人は投下時は12歳、絵にしたのは69歳の時だ。瓦礫の中に骸骨がぬ~と立っている。彼の言葉『叔父と一緒に叔母のいる自宅の焼け跡に行く。勝手口付近で「あっ、ああー」と立ち止まる。言葉が無い。目にしたのは立ったまま白骨化した姿であった。叔父は「おおっ、熱かったろう。許せ、ゆるしてくれ」と大粒の涙が。叔父がそっと両手で頭蓋骨を持とうとすると、突然バラバラバラ・・・と崩れ落ちた』

叔母さんは待っていたんでしょう。見つけてくれるのを、解り易い形で。それが崩れもせず、たっていたというのが一瞬の強い光で骨だけを残してこの姿にしたのだと思うと、凄く悲しい。

折鶴の塔は数年前、大学生が火をつけ14万羽消失した。今は塔の中には数連だけで、他は小さなガラスのボックス(公衆電話ボックスの様な)が幾つもありその中に納められている。

夏の盛りゆえ、暑さが苦手な私にはとても1回では回りきれない。又機会があれば「被爆体験記朗読会」にもう一度参加したいと思っている。

「広島焼き」に戻る。「麗ちゃん」に行くと決めて、昼食を抜いてあちこち巡った。「麗ちゃん」について驚いた。昼食時間はとっくに済んでいるのに、行列である。私達が食べて店を出る時にも行列は続いていた。指定された席がカウンターだったので、待つ間も目の前で作り方を見せてもらった。

関西のお好み焼きとは全く違うものである。先ず鉄板にクレープより薄くといた粉を延ばす、その上にキャベツともやしもどっかり、円錐形に載せる。その上にお好みの具をかぶせる。ひっくり返す。ぎゅうぎゅう抑える。出来上がりを二つ折りにする。4つに切てソースをぬる。関西で言うモダン焼きは、そば玉をその場で茹でて使う、だからネチャット絡みついている。

どちらが美味しいか?全然別の食べ物なので比べようが無い。生まれ育った土地のものが良いとお互いに思うのではないだろうか。
コメント (2)
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