末松太平
前頁 末松太平 ・赤化将校事件 1 の 続き
たずねてきた四人の顔は謹聴で硬ばっていた。
たずねてきたわけは除隊兵のリーダー格西山が話した。
「 今日青森の警察のものがきて、
除隊のとき、なにか印刷物をもらわなかったかときくから、
なにももらわなかったというと
こんどは教官殿の教育ぶりは、どうだったときくのです。
別にほかの将校とちがった教育はしなかった と いったのですが、
どうしてこういうことになったのか、わけがわからぬから、
警察が帰ったあと須藤のところにいってきいてみると、
やはり警察がきて同じことをきいていることがわかりました。
それじゃ前川のところは、同だろうと
須藤と二人で前川をたずねてみると事情は同じでした。
それで三人で班長殿のところにききにきたら、
班長殿が一緒に教官殿のところにいってみようというので、
こうして、うかがったのです 」
西山は、いいおえると須藤と前川に 「 そうだったな 」 と 念をおした。
須藤と前川は 「 そうだ、そうだ 」 と 口々に相槌をうった。
・
除隊日の朝 渡したガリ版刷りが、どこからか青森警察の手に渡り、
除隊したことによって憲兵から警察に縄張りが移った除隊兵から早速、
ガリ版刷りのことと私の偏向教育のことを、ききだそうとしているわけだった。
が、ガリ版刷りが問題になっていることは、
この三人の除隊兵からきく少し前だが私は知っていた。
大岸中尉から知らせてきていたから。
ガリ版刷りのことについては、大岸中尉には、なにも知らせてなかった。
が 大岸中尉はガリ版刷りのことを知っていて、
これは軍中央部は不問に付することになっているから、
心配いらないと、いってきていた。
警察、憲兵、軍中央部と伝わったものが、大岸中尉の耳にかえってきたものだろう。
当時仙台の教導学校にいた大岸中尉にとっては 「 兵火 」 問題のほとぼりが、
やっとさめたといったところだった。
「 兵火 」 というのは大岸中尉が、全国の有志将校に月々配っていた印刷物の表題である。
何号かに憲兵の目にとまり問題になったが、
軍中央部は 「 憂国の至情に出でたるもの 」 ということで不問に付した。
それと同列に 「 憂国数言 」も、軍中央部で処理されたというわけである。
三人の除隊兵が、 「 憂国数言 」 のことを警察に、かくしだてするほどのことは、
もうなくなっていた。
が、それをここで明かしては折角心配して知らせてくれた除隊兵たちの腰を折るようでわるいと思った。
私は決まっている軍中央部の処置のことは明かさず、
「 知らせてくれて有難う。だが心配いらないよ。
ガリ版刷りのことも警察にかくさなくてもいいよ 」
とだけいって、除隊兵たちの心の緊張をほぐそうとした。
が 須藤は、
「 いや、おれたちは、絶対にしゃべらないよ。 前川、お前もそうだな 」
と 前川にいった。
前川も、
「 そうだ。 絶対にしゃべらないよ 」
と 気色ばんでいった。
西川といい 須藤といい 前川といい、在営時代には、ついぞみせたことのない頼もしさだった。
合同官舎のはしに、偕行社といっていた官舎相手の売店があった。
私は山田に、
「 どうだ、顔ぶれがそろってるじゃないか。 偕行社にいって一升とってこいよ 」
といつた。
が 山田は、
「 こん夜は、このまま帰ります 」
といって、しばらく世間ばなしをしたあと、
門限がありますからと、三人の除隊兵をうながして帰っていった。
除隊兵たちには、もう門限はなかったが、下士官の山田にはまだ門限があった。
翌朝私は出勤すると、その足で聯隊本部にいき、聯隊付中佐に、
「 中佐殿、私のことで何か問題が、おこってるでしょう 」
といった。
中佐は一瞬どぎまぎして、
「 実はそうなんだ。 君にどういうふうに切り出そうかと思っていたところだ 」
といった。
私が
「 憲兵分隊にいきましょうか 」
というと、中佐は、
「 そうしてくれるか 」
といった。
五聯隊には内地の部隊にしてはめずらしく官舎があった。
その官舎街のはずれ、青森市内に近いほうに憲兵分隊があった。
その途中に独身ものの合同官舎がある。
私は中佐と肩をならべて歩きながら官舎街まできて、
合同官舎のそばにさしかかると、
「 中佐殿、普通こういうときにはやることになっているでしょう 。
私の部屋を調べては如何ですか 」
といった。中佐は、
「 そうさせてくれるか 」
といって合同官舎の私の部屋に寄った。
中佐はひとわたり部屋をみまわしたあと、
「 随分本があるね。これ、みな読んでるのか 」
と 本棚の本ばかり、じろじろながめていた。
私は 「 これなど如何でしょう 」 と 本棚から、
大岸中尉が少尉のとき書いて、士官候補生の私にくれた
ガリ版刷りの小冊子 「兵農分離亡国論 」 を とって中佐に渡した。
証拠物件といったつもりだったが、いまから思えば渡さずもがなのものだった。
馬鹿げたことをしたものだった。
物のはずみということだった。
これ以来 「 兵農分離亡国論 」 は私にとって、幻の文献になってしまった。
中佐は証拠物件に「 兵農分離亡国論 」 一つを持って部屋を出るとき、
「 すまないね、憲兵に知られた以上、聯隊だけで内々にすますわけにいかないからね 」
といった。
軍中央部の処置が決まってしまっていることだけに、
中佐の人の好さが、余計気の毒だった。
が、このときも私は軍中央部の処置のことは打ち明けなかった。
青森の憲兵分隊長は、大尉のことも中尉のこともあった。
が、どういうわけか、このときは少佐が憲兵分隊長だった。
憲兵少佐は机の上に 「 憂国数言 」 を ひろげて、勿体ぶって、
「 これはあなたの書いたものですね 」
と、ことばだけは丁寧にいった。
軍中央部では、とうに結論がでていることを、
これから調べて報告書を書こうとしている田舎憲兵の勿体ぶった態度が、
かえって気の毒に思えたが、私は、
「 いや、これは海軍の藤井中尉がロンドン会議の最中に書いたもので、
別段もう、めずらしいものではありません 」
と 空とぼけたようにいった。
憲兵少佐は、それが癪にさわったのか、それとも私が逃げを打つとでも思ったのか、
むっとして、
「 あなたはそういうが、これではもうロンドン条約は締結したことになっていますよ 」
と、いって、さあ、どうだ、といわぬばかりに身構えた。
が、私は逆らわず、
「 時期的には合わないところは直したのです。私が書いたといってはうそになるが、
私が書いたといったほうが都合がよければ、それにして下さい 」
といった。
憲兵少佐は機嫌を直して、このあと二、三きいていたが、
これが取っておき、といったように、その箇所を指摘して、
「 自覚なき軍隊はブルジョアの番犬、とありますね。
これはどういう意味ですか。共産党のいっていることと同じじゃないですか 」
と 語気をつよめていった。
私は、
「 毎日、ブルジョアの門の前にきて、ねそべっている犬をみれば、
よその犬でも、知らぬ人は、この犬は、このブルジョアのうちの番犬だと思うでしょう。
そういう意味です 」
と いっておいた。
「 自覚なき軍隊はブルジョアの番犬 」 という文句は、
藤井斉中尉の 「 憂国概言 」 のなかにあったものである。
それをそのまま私は 「 憂国数言 」 のなかにも書いておいた。
憲兵少佐が特に、この文句にこだわったように、青森県特高も、この文句にこだわり、
私を赤化将校と規定し、ガリ版刷り事件を、赤化将校事件と銘打ったものだろう。
「 憂国概言 」 改め 「憂国数言 」 については憲兵少佐が、
紙質を 「 これは、いい紙ですね。隊の紙ではないようですね。
あなたが自分で買ったのですか 」 といったようなことまで、きくようになって一段落し、
そのあとで憲兵少佐は、大岸中尉の 「 兵火 」 のことをふれた。
憲兵少佐は苦り切って、
「 大岸中尉には、ひどい目にあわされましたよ。
大岸中尉が兵火を送ったという将校にきくと皆、そんなもの知るものか、
といってぷりぷりおこるのです。 あなたのところには、どうだったのですか 」
といった。
私は、もうすんだことだから、
「 送ってきたといっても、送ってこなかったといっても、どちらでもいいでしょう 」
といった。
大岸中尉の原隊が五聯隊だっただけに、
「 兵火 」 の送り先の調査は当然五聯隊に集中された。
大岸中尉は口から出まかせに五聯隊の将校の名前をあげた。
が、そうまでしなくてもよかったのに要心深く、私の名前だけは伏せておいた。
そのため五聯隊の将校が何人か調べられたが、私のところには憲兵は、ついにこなかった。
憲兵に調べられた腹いせに 「 大岸の奴、ひどい奴だ 」 と、
将校集会所で、ぶつぶついっている将校が何人かいた。
最後に憲兵少佐は、
「 大岸中尉の書いたものは兵火に限らず、用語が共産党と、ちっとも変りませんね 」
といった。
この道の権威らしい口振りだった。
この憲兵少佐は着任早々、将校集会所にきて、軍隊教育の参考に、ということで、
共産党、共産主義の退屈な講話をしたことがあった。
憲兵分隊を出ると、分隊長の前では殆ど口を利かなかった中佐が、
「 君は若いに似合わず腹がすわっているね。何か特別の修養でもしているのかね 」
と きいた。
別に腹がすわっているわけではなかった。
もうすんでしまっていることを、
そうとは知らずに調べる田舎憲兵に、横道をしてみせたまでのことだった。
「 憂国数言 」 事件は
大岸中尉がいったとおり、
これだけのことですんで、あとは何の沙汰もなかった。
・
十二月の末に機関銃隊長が歩兵学校から帰ってきた。
私はもとの住居住の身になった。
年が明けて一月十日に初年兵は入隊した。
この聯隊で任官して以来、毎年初年兵教育をしてきた私は、
この年からは、それをしなくてよくなった。
初年兵の教育は後輩がするようになった。
私は教育が機関銃と歩兵砲に分科するまでは暇だった。
私は歩兵砲だけの教育をすればよかった。
三月にはいると積もる雪より解ける雪が多くなる。
八甲田山を源にして、兵営を挟むようにして流れている筒井川と駒込川の
川っぷちから雪は消えはじめる。
兵隊を教育するかたわら、雪の消えかけた川っぷちにでてみると、
もうそこには蕗ふきや藪人参や、その他の名も知らぬ雑草の芽が萠もえでている。
第一期教育は四月の末におわる。
これで初年兵も、いつ戦争につれていっても一人前の役に立つ兵になる。
春の遅い青森も四月の末から五月の初めにかけて桜の花が咲き、
兵営の土手につらなって根をはっている桜の古木が、
ちょうど花の見頃の五月五日には軍旗祭がある。
大岸中尉が仙台の教導学校から原隊の五聯隊に復帰したのは、軍旗際のあとだった。
三月事件のことは、聯隊にかえってきた大岸中尉から、はしせめてきいた。
三月事件というのは、
軍中央が宇垣大将を担いで政権をとろうとしたクーデター未遂事件のことである。
この事件には大岸中尉の同期生も関係していたから、
その同期生からの連絡で大岸中尉は知ったのだろう。
三月事件のことを知って、私には思いあたることがあった。
クーデターでもおこそうとしていた軍中央が、田舎聯隊の一中尉が仕出かした、
けちなガリ版刷り事件など、不問にして当然だということである。
・
五月にはいると同時に、二期の教育がはじまる。
二期以後の教育は部隊単位の訓練だから、
八甲田山の山裾に演習にいくことが多くなる。
山裾の松林では郭公が、しきりになき、
田甫では単作地帯だから、もう田打ちがはじまっている。
前年昭和五年はこの地方も豊作だったが、
この年昭和六年は東北、北海道は大凶作に見舞われるのである。
宮沢賢治が 「雨ニモマケズ 」 を 書いておいたのは昭和六年十一月である。
「 雨ニモマケズ 」 のなかの 「 サムサノナツハオロオロアルキ 」 の 「 寒さの夏 」 が、
この年の大凶作の原因だった。
大凶作になるとは知らず兵営のまわりの田甫で農家が田植えをはじめた
六月の半ばごろの、ある日曜日、
なんの前ぶれもなく高村という、このまえの除隊兵が合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
高村は大工だったが、その仕事のことで青森にきたから寄ったということだった。
私は、ついでにただ寄ったのだとしか思わなかったが、
そうとばかりはいえなかった。
ついではついでながら、あやまりがいいたくて、高村は寄ったのだった。
「 私は在営中、教官殿の話をきいて、そんな過激なことが、いまの世のなかにあるものかと、
小馬鹿にしていましたが、こんどそれが過激でなく本当のことだったことを思い知らされました。
実はそのことであやまりにきました。
除隊のとき、もらった印刷物を警察に渡したのも私です 」
と 高村はいって、一部始終を話した。
高村が除隊していった先は恐山のある下北半島の陸奥湾に面した田舎町である。
町では除隊兵が帰りつくとすぐ恒例の歓迎会を、町長以下町の名士が列席して催した。
その席で、各中隊の除隊兵が順々に立って、在営中の思い出ばなしを披露した。
高村は自分の番がくると、
おれの隊には変った教官がいて、除隊のときこんな刷り物をくれたといって、
除隊服のポケットに突っこんでおいた 「 憂国数言 」 を取り出すと読んできかせた。
田舎町では駐在巡査も名士のうちだから、歓迎会に列席していた。
高村の読んだ 「 憂国数言 」 に別段聞き耳たてるものはいなかったが、
駐在巡査だけは別だった。
高村に 「 憂国数言 」 をみせてくれといった。
高村は、こんな刷り物などと思って駐在巡査に渡して、そのままになった。
高村にしてみれば、除隊のときにもらうにはもらったが、
途中捨ててもいいぐらいの気持でポケットに突っこんでおいたものだったから
「 憂国数言 」 の行方など気にとめるはずはなかった。
これで 「 憂国数言 」 が青森県警察の手に渡り、憲兵隊にも通牒され、
西山ら除隊兵の身辺に警察の手がのびたわけだった。
が、そんなことは高村の知るところではなかった。
「 憂国数言 」 のことなど忘れてしまっていた。
が、それを思い出さずにおれないことが高村の身辺におこった。
高村の弟が町の若いもの数人を相手に喧嘩をし、そのあとしばらくたって死んだ。
高村は弟の死んだのは喧嘩のとき受けた傷がもとだと思った。
高村は喧嘩相手の若いものたちのことを駐在巡査に訴えた。
が駐在巡査はとりあわなかった。
高村は相手の若いものたちが町の権力者の身内のものだから
駐在巡査がとりあわないのだと思った。
いままで小馬鹿にしていた在営中の教官の話 「 憂国数言 」 のことが、
いまさらのように思い出されてきたという。
高村は、
「 私は町の権力者とたたかいます。教官殿の仲間にしてもらいます 」
といった。
高村のいう町の権力者というのは、
下北の田舎町には不似合な豪壮な邸宅に住み、
大湊海軍要港部の新任の司令官は必ず挨拶にくるのが慣例になっているほどの権勢で、
そのとき権力者は、どてら姿で内玄関から、新任司令官を応接したという。
新任司令官が帰るとき南部鉄瓶を持たせることも慣例で、
入営前の高村は、それを容れる桐の箱をつくらせられたことがあるという。
財力があるから権力がつき、権力がつくから、その上また財力がつく。
高村の話では、この権力者は、権力と財力をかさに、
伝説に似た悪徳を重ねてきているようだった。
帰りぎわに高村が、
その権力者を殺す、といったから、
言行が必ずしも一致するとは思わなかったし、
悪い奴は人が手を下さずとも、天が必ず手を下す、
と世間ありきたりの文句だけいっておいた。
が たかむらが下北に帰って間もなく、
問題の権力者が不慮の死を遂げて、
高村から、教官殿のいったとおりだった、と いってきた。
・
「 憂国数言 」 の件を 「 五聯隊赤化将校事件 」 と北村隆はいったが、
北村隆のいったとおり、青森県特高史に記録されているかどうかはわからない。
「 五聯隊赤化将校事件 」 といったのは、北村隆の皮肉だったのかも知れない。
が 何等かの形で青森県特高史に、跡はとどめたことであろう。
どこが火元だろうということは、別に気にしていなかった。
が 高村のはなしで、それが下北の田舎町だったらしいことはわかった。
火元が下北とすれば、それが陸奥湾を渡って、対岸の青森市に飛火したことになるが、
青森市だけでなく青森県下に散った機関銃隊除隊兵を求めて点々と、
飛火していったことだろう。
が 心配して駆けつけたのは青森市内の西山ら三人だけで、あとは何の音沙汰もなかった。
青森市は人口が多いだけに機関銃隊除隊兵も多く、伍長勤務上等兵を筆頭に、
良兵の保証の善行証書をもらったものも沢山いた。
が、そういう良兵どもからは何の沙汰もなく、
駆けつけたのは、そろいもそろって良兵の保証のない一等兵の三人だけだった。
私が満洲に出征するとき、
私をとらえて、別れを惜しんでくれたのがまた、この三人だけだった。
この年、満洲事変で内地から初めて第八師団で編制した混成旅団が満洲に渡った。
青森の聯隊からも一箇大隊出征した。
兵営を出発したのは十一月十四日の暗いうちだった。
兵営から乗車駅、青森駅までは四キロほどの道のりである。
行軍して青森市内にはいると沿道は人だかりで、
部隊のとおる道筋だけが、辛うじてあいていた。
歩兵砲隊は行軍部隊の最後尾だったから、軍隊のセオリどおり、
歩兵砲隊長の私は出征部隊の最後尾を歩いていた。
部隊がとおったあとは群集が、どっと道路に押しよせて、ややもすると私は、
もみくちゃにされそうだった。
その群集をかきわけて三人があらわれ、
私の手をかわるがわるとり、駅までついてきた。
・
日中戦争から大東亜戦争にかけて、
下士官の山田も西山ら三人も、高村も今岡も出征した。
山田は特務曹長になっていたらしいが北支で戦死したという。
西山ら三人のうち、
西山には終戦後、青森で一度会ったことがあるが、
あとの二人は戦死したようである。
今岡が北支の野戦病院で戦死したことは終戦後、生還した高村からきいた。
北支の戦線で軽傷した高村がたどりついた野戦病院の入口に、
血に染まった軍服がかかっていた。
なにげなく裏をかえして名前をみると今岡のものだった。
高村は軍医に、
「 今岡は同年兵だから会してくれ 」
といった。
軍医は
「 今岡は臨終が近い、いまのうちにいい遺すことを、きいてやってくれ 」
といった。
高村が病床に近づくと
「 高村か、大丈夫だよ 」
と 今岡は元気な声をだしていっていたが、
そのうち、
「 高村、暗くなったようだな。 日が暮れたらしいな 」
といったまま息をひきとったという。
外では、北支の太陽がまだ高かったという。
ドキュメント日本人3 反逆者 から