あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

靑年將校の國體論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」

2018年01月15日 20時56分19秒 | 國家改造・昭和維新運動

靑年將校の國體論
上、天子のもと、下、万民が平等なるべしというもの
村中孝次は
「 我国体は上に万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、
この万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命的結合なることにおいて、
万邦無比といわざるべからざる。
吾が国体の真髄は実に玆にぞんす。
天皇と国民と直通一体なるとき、
日本は隆々発展し、権臣武門両者を分断して専横を極むるや、
皇道陵夷りょういして国民は塗炭す。
全日本国民は国体に対する大自覚、大覚醒を以て
その官民たると職の貴賤、社会的国家的階級の高下なるとを問わず、
一路平等に天皇に直通直参し天皇の赤子として奉公翼賛に当り、
真に天皇を中心生命とする渾一的こんいつてき生命体の完成に進まざるべからず」
リンク→ 続丹心録  「 死刑は既定の方針だから 」 
と書いているが、
その思想は、
日本の国体は一天子を中心として万民一律に平等無差別である、
とするのであるが、
それは天皇と国民の精神的結合を示すものである

革新将校の思想系譜
軍における革新運動は、その発生よりみて、二つの流があった。
その一つは、隊付青年将校のそれであり、
他の一つは、大体において中央部幕僚のそれである。

青年将校運動は、
すでに大正の末年から昭和の初頭にかけて、
北一輝の 『日本改造方案大綱』 を聖典として、
これが実現をもくろんだ西田税によって、青年将校に働きかけられ、
ようやく一つの同志結集にまでいたっているが、
それは、あくまで隠密潜行的なものであり、軍当局の許容するものではなかった。

ところが、
昭和五年に入ると、時局に刺戟せられた軍中央部一部幕僚の手によって、
国家改造を研究しこれが実現を期そうとする一つの結集ができた。
これが昭和五年十月東京にできた「桜会」である。
この動きには、軍当局は黙認のかたちをとったので、こうして論議が表面的に行われ、
あたかも陸軍は国家改造を志すやに見られた。
もともと
桜会は国家改造に志あるものを求めたので、
ここにはすでに西田により思想的啓蒙をうけていた青年将校も参加した。
したがって
桜会は思想的にはバラバラで統一あるものではなかったが、
大体において、
急進的な数名の幕僚がこれをひきまわしていた感があり、
そこでの論議も改造政策を討議するのではなく、
時局の悲憤慷慨に終始していたといっても過言ではない。
はっきりいえば、
発起者 ( 指導者 ) たちによって、
真に国家改造に挺身しうる人材を物色しようとするものであったともいえる。
だからそこには改造政策の具体策はなかった。

桜会を背景として十月事件が計画されたが、
それは武力革命そのもので、
その権力的な行き方に批判的な青年将校群はこれから脱落していく。
しかし、
この桜会から十月事件に発展する過程において、
一部有志幕僚により国家改造政策が研究され、これから統制派へと発展していくのである。
のちに統制派といわれた一部有志幕僚の改造政策研究への志向は、
この十月事件が破壊をこととし、破壊後の建設に何等の案を持たなかったからである。
もともと統制派幕僚は、
合法、非合法いずれにしても、改造案なくしてことの成功するものでないことの自覚から、
改造案の立案に積極的に進んでいったのである。
この統制派の合法的改造策が発展して
昭和九年秋の広義国防論の主張となって、
一応、軍の革新政策として表面化されるにいたった。
これが有名な 『 国防の本義とその強化の提唱 』 である。

そして、
軍のもつ革新政策の基礎は、国防的観点に立つことが闡明せんめいされた。
本来、
青年将校の革新運動は国家の革新、それ自体を目的としたものであったが、
幕僚は、もともと、国防政策の担当者であることから、
その国家改造の基底は 「 国防 」 にあった。
国防上の必要にもとづく国家改造であったことは銘記されねばならない。

二・二六事件は青年将校が維新革命を企図して失敗した歴史として理解される。
それにまちがいはないが、
しかし彼らは重臣殺傷はしたが、
その武力を背景に自ら国家改造を行なおうとしたものではなかった。
重心殺傷によって国民に一大警鐘を乱打し、陸軍を説得し、
陸軍が維新の主体となって国家改造にのぞむことを求めようとしたものであった。

いわゆる寺内粛軍はきびしかったが、
青年将校にかわった幕僚群は革新の気鋭するどいものがあった。
軍は自ら革新政治の責任者たることを嫌った。
そこに 「部門政治」 への遠慮があったからだ。
かくて
庶政一心をもって政府を鞭撻推進することになった。
この場合、
推進する政治とは名は 「革新」 というが、
実は革新自体はその目的ではなく目的は 「国防」 にあった。

 西田税
国家改造案
陸軍に国家革新の 「種」 をまいたのは、西田税であり、
そのまかれた革新の 「種」 は、
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 であったことは、今日あまねく知られている。

西田が、昭和二年七月 「天剣党」 の組織を企図し、
かねてから培養しておいた
隊付青年将校たちに天剣党規約を配布したが、
その中の戦闘指導要領には、
「 天剣党は軍人を根基として、
あまねく全国の戦闘的同志を連絡結盟する国家改造の秘密結社にして、
日本改造方案大綱を経典とせる実行の剣なりとす」
と示していた。
リンク
・ 天劔党事件 (1) 概要 

・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
天剣党は軍当局の弾圧によって結盟に至らなかったが、
西田税はこの改造方案を以て
青年将校に働きかけ、これを啓蒙し指導し、多くの同志を獲得したのである。
したがって、
のちに皇道派といわれた青年将校の一群には、北一輝のこの革命法典が生きていた。
しかし、
皇道派青年将校のすべてが北一輝の革命法典を身につけていたということはできない。
少なくとも、
この青年将校運動の指導的地位にあった人々、
ことに二・二六事件の首謀者たちは、
この革命の法典を通じて国家改造の理論を与えられたとみることができる。

たしかに
この蹶起の首謀者たちの間には、あるいはそのままに、
あるいは彼らの思考を通じて消化され、北の改造方案が、その身にしみついていた。
なかでも
その首謀者の
一人磯部浅一は、
改造方案こそ革命をはかる尺度であり、
一点一字の修正を許してはならないといった改造方案絶対信奉者であったし、
また同じ村中孝次は
改造方案をよく読みこなし、よく消化し、その理論をさらに自らの手で発展せしめていた。
ともかくも、
彼らの二・二六事件謀議では、
改造方案そのものをもって建設の具体案とすることは、同志間の議題はのぼっていないので、
この蹶起には具体的にこの案によって建設工作を進めようとしたものでないことはたしかだが、
しかし、政治にせよ、経済にせよ、教育文化にせよ、
今日の弊害を改善刷新するためには、どんな制度や運営がなさるべきかは、
誰にも考えられており、
そして、こま場合彼らの思考に占めたものは、まず北の改造方案だったといつてよいであろう。
なぜなら、
北の改造方案はこれらの青年将校たちにとっては、
その血肉となっていたと見られるからである。
ともかくも
北一輝が、西田税を通じ、その改造方案の思想を、
青年将校に定着せしめたことは事実であるが、
彼が直接に、青年将校の思想啓蒙にあたったという事実はない。
もちろん、
古くからの青年将校運動に挺身してきた、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀といった、
この事件の首謀者たちは、北一輝の謦咳けいがいに接したことはあるが、
いわゆる皇道派青年将校の大部、ことに年少の中少尉クラスは、
ほとんど、北の名は知っていても、その改造方案を手にしたことはなかった。
ただ、
これらの思想的先達によって、その啓蒙をうけたとみるべきである。

それにしても、北の改造方案が軍に与えた影響は大きい。
青年将校運動の基礎は、この書の普及によってなり、
軍はこれがために、
青年将校運動という爆弾を、うちにかかえることになったからだ。
北が、のちにこの事件に連座して捕えられ、死刑の判決をうけ、
刑死二日前、弟、北昤吉が会ったとき、
わたしはこの事件に何ら関係はしない。
しかしわたしの書物を愛読していた連中がやったので、
責任を問われれば責任を負う。 
もし、ぼくが無罪放免になっても、他の諸君のあとを追うて自決する
と 語った といわれるが、 ( 北昤吉 『 風雲児北一輝 』 )
これこそ、北一輝の自著 「 日本改造方案大綱 」 に対する、きびしい責任感であろう。

その改造方案が軍にもちこまれたのは、
西田が、北より改造方案の版権を得た大正十五年囲碁のことであるが、
その後西田の手によって、
ずっと精力的に、軍隊工作が行なわれたかというと、そうではなかった。
天剣党事件による軍の弾圧もあり、
その後は軍の警戒監視のもとに細々とつづけられていたにすぎない。
だが、国家革新のあらしは、昭和七年頃より激化し、
これにつれて西田の青年将校との接触もしげく、その彼の働きかけも活発となった。
しかし、その西田の青年将校への接触面は、直接に拡大されることなく、
旧来の同志を通じての運動の拡大であった。
これがため、たとえば、二・二六に蹶起した二十名の将校についてみても、その大部は、
北のこの革命の書は開いていなかった。
いわば、
若い隊付将校は
『 改造方案 』 によっては国家改造への意欲をかりたてられてはいなかった。
彼らはその軍隊教育を通じて社会悪、政治悪を実感し、
そこから国家改造へと志向していったのである。


北一輝

青年将校は 「国体」 にコチコチに固まっていたといわれるが、
彼らはそこにどんな国体観をいだいていたのか、
そしてその国体観からどんな政治が行われるべきだ、と確信していたのだろうか。
彼らはいう。
一君万民、
国民一体の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、
日本の国民がほんとうに、
天皇の下に一体となり
建国の理想に向って前進することである
( 『 青年将校運動とは何か 』 昭和十一年三月 「日本評論」 所載 )
だが、
その言葉は抽象的で真意をとらえがたいが、
おおよそ、一君万民、君民一体という表現は、
当時、青年将校も、日本主義右翼も一致してとなえられていた理想の政治形態であるが、
さて、その一君万民、君民一体の政治とは何か。

日本主義者はこれを、
「 一君万民、君民一体の大家族体国家、上大御親、絶対、下万民赤子、平等、
そこには、一物一民も私有支配する私なく、
したがって、天下億兆皆そのところを得、万民一魂一体、
ひたすら君が御稜威みいつの弥栄いやさかを仰ぎまつろい志向帰一する皇国体 」
といい、
また、あるものは
「 一刻一家、天皇のもと共存共栄、無階級、無差別の社会、
それは、また、われわれ人間社会の理想形態であり、かつ、その本然の姿である。
天皇の下における
強力な国家主権と国民各自の自治的精神との完全なる調和による
強力一致の健全な国家統制機関を確立することである 」
とも説いていた。
そのどれもが原理的な抽象的解説で、一君万民の政治の具体的な姿は示されていない。
だが、青年将校が天皇とともに喜びともに悲しむという一体観、
そこでは一君を中心とした国民の結集であり、
そこに君と国民との間には、なにものをの介在を許さないもので、
国民は無差別、平等に天皇に直参するものであることを表現して
天皇に一切をささげる国民が、
天皇の御声のままに、翼賛する政治の体制を、理想としていたといえよう。

はなはだ漠然としているが、
では、どうすれば、このような理想形態に導きうるのか。
彼らは現支配機構を否定するのではなくて、
現支配機構を支える悪者をとりのぞき、
これに代って人徳髙い補翼者を天皇の側近におきかえ。
同時に全国民に維新への感動を激発すれば、
ことはなるとしんじていたようである。
これが二・二六事件の思想的根基であったわけであるが、
それにしても、
この一君万民の原理は、外形的にみれば、明らかに徹底せる日本的社会主義、
あるいは国体的社会主義、
かの近衛のいう天皇共産主義といえないではない。
ことに、さきにいう日本主義者の ”無差別、無階級の社会”
あるいは、”万民平等にして、そこには一物一民も私有支配なき社会”
というに至っては、明らかに原始共産主義にちかい。
だが、青年将校たちは、極度の精神主義者であるので、
結局は国民個々人の精神革命を強調したものと思われる。

ここで、われわれは、
一つの不思議な現象に目をみはる。
それは
右のような国体観をもつ彼らが、
その指導の書とした北一輝の 『改造方案』 に流れる、
北の 「高天ケ原式国体観」 の否定、
日本国をもって天皇を政治的中心とする近代的民主国だという不思議さである。

北一輝の 『 改造方案 』 を一読すれば、その思想根柢に、
民権主義、社会主義それに国権主義のさまざまが入り乱れているように思われるが、
北の思想は、彼が二十四歳で著わすところの 『 国体論及純正社会主義 』、
三十五歳の 『 支那革命外史 』、
それにこの 『 日本改造方案 』 の 三部作を通ずることによって明瞭となる。
その 『 国体論及純正社会主義 』 は、
北にしたがえば
「 若気の強がり 」
であったというが、そこに流れる思想は何か。
大川周明は
北の社会主義はマルクスの社会主義でなく、
孔孟の 「王道」 の近代的表現だ
とかいているが、 ( 『 北一輝君を億う 』 ) 
そこには、
「 万国社会党大会の決議に反して、
日露戦争を是認し、全日本国民の輿論にこうして国体論を否認す」
と 宣言して、
有賀長雄、穂積八束、美濃部達吉らの、家長的国家論、万世一系論、
不徹底なる天皇機関説のことごとくを痛撃し、
論鉾は、金井延、丘浅次郎、一木喜徳郎、山路愛山、安部磯雄から
ダーウィン、マルクスにも及び、
資本主義の害悪を攻撃し同時に「平民主義」をも否定している。
そして当時における国体論を徹底して罵倒するところは奇矯に近い。
いわく、
「 明治憲法における天皇
――白痴にして低腦なる現代学者どもの国体論者の神輿みこしの中に、
安置されたる天皇は、真の天皇にあらず、
国家の本質及法理に対する無知と、新道的迷信と、
奴隷道徳と、転倒せる虚妄の歴史解釈を以て捏造せる土人部落の木偶 」
だと。
そしてまた、
「 世の所謂国体論とは決して今日の国体論にあらず、
また過去の日本歴史にもあらず。
明らかに今日の国体を破壊する反動的復古的革命主義 」
といい
当面の国体論の打破を叫びつづけている。
明らかに復古的高天ヶ原的国体論の徹底した否定である。

青年将校がその武窓でたたきこまれた国体論を、
寒膚なきまでに痛撃論難したこの国体否定論者を、
彼らはやすやすと受け入れている。
村中は、その改造方案を、
「 社会主義乃至デモクラシー万能の徒が我が国体の尊厳性に目をおおい、
いたずらに理想社会を欧米の学説に求めんとするに対し、
”日本国こそ本質的に爾等の求める理想社会の国なり” 
と 説き聞かせたる者なり」 ( 『 丹心録 』 ) リンク→
村中孝次 ・ 丹心録 
といい、
また、磯部も
「 北氏は著書 国体論において、
本書の力を用いたるところは、いわゆる講壇社会といい、
国家社会主義と称せらるヌエ的思想の駆逐なり 」 ( 『 獄中手記 』 ) リンク→獄中手記(三) 一、北、西田両氏の思想
と 書き、
それぞれ北の思想を弁護している。
これを、私は一見不思議といったが、それは不思議でも何でもない。
北の思想には、尊皇思想もあれば、強い国権主義も、
また、はなはだしい民主主義もあるが、それがときに刺激に応じて表現されている。

青年将校は北の強い尊皇思想を確認した。
さきの磯部は言う。
「 氏の日常
”自分は祈りによって自らを救うのだ”
”日本は神国である”
”天皇の御稜威に刃向うものは滅ぶ”
等の言々句々は、
すべて、天皇に対する神格信仰
の あらわれであります」 ( 『 獄中手記 』 ) リンク→獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想 
彼は北の尊皇心をうたがわなかった。
北は改造方案に天皇を規定していて、「 天皇は国民の総代表なり 」 とし、
日本国は 「 天皇を政治的中心とした近代的民主国なり 」 としている。
それはその頃やかましかった美濃部博士の天皇機関説以上の進歩的なものだったが、
彼は一面、天皇を国民親愛尊敬の中心としてとらえ、
「 日本の皇室は、いうまでもなく国民の大神であり、
国民はこの大神の氏子である 」 ( 陳述書 )
「 日本の国体は一に天子を中心として、万民一律に平等無差別である 」 ( 同上 )
と いっている。
ここに青年将校は彼の尊皇愛国を信じ、
安心してその天皇機関説いじょうのものに魅了されていた。
そこでは、
青年将校は一君万民の原理は、
全国民が天皇に一路平等無差別に直通直参するものであり、
それは決して北のいう国体原理に矛盾するものではなかった。

青年将校は国家改造の理念ないし政策といえば、大げさだが、
彼らが国家改造を思念するかぎり、そこにどんな構想をもっていたか。
「 日本国内の状勢は明瞭に改造を要するものがある。
国民の大部分というものが、経済的の疲弊し、経済上の権力は天皇に対して、
まさに、一部の支配階級が独占している。
時として、彼らは政治機構と結託して、一切の独占を弄している。
それらの支配階級が、非常に腐敗している状態だから、承知できないのだ 」
という。 ( 『 青年将校運動とは何か 』 ) 
いまの世の中は、一部支配階級、それは資本階級が経済上の権力を、
そしてまた政治をも壟断している。
いわば、今日は金権政治であり、これが政治の腐敗をきたしているのだ
というのである。

そこで、政治の腐敗が金権政治にあるとすると、
その経済における彼らの改造理念ないし政策はなにか。
「 今日の資本主義経済機構は明瞭に否定する。
今日までのいわゆる資本主義経済組織、
明治維新の時に取入られた富国強兵の資本主義というものは、
過去においては、有力な働きをしていたが、
いまや、その役目を果たし、
だんだん破綻して、何らかの新しき形式に移りつつあるということは、
支配階級ですら、何らかの形で是正せんとしているのでわかる。
だが、今日の資本主義の組織権力というものを根底としている、
統制経済主義には明瞭に反対だ。
われわれは今日の資本主義組織というものを打破するためには、
少なくとも三大原則があると信じている。
大資本と私有財産と土地と、この三つの部門というものが、
今日、資本主義経済の三つの大きな因子であると思うが、
この因子に根本的終生を求めねばならぬ。
先ず大資本を国家の統一に帰する。
私有財産を制限する。
土地の所有を制限する。
この三つである」 ( 『 
青年将校運動とは何か 』 )
そのいうところは、表現が正確でないので真意の捕捉に難渋するが、
資本主義を否定するかぎり、社会主義を受容するものともとれる。
だが、それは北一輝の改造方案そのものである。
北の改造原理の根本を流れるものは、金権政治の打破にあった。
「 現在の日本はその内容は経済的封建制度とも申すべきものであります。
三井、三菱、住友等を、往年の御三家にたとえるならば、
日本はその経済生活において、
黄金大名らの三百諸侯によって、支配されているとも思われます。
したがって、政治の局に当る者が、政党にせよ、官僚にせよ、軍閥にせよ、
それらは表面とは別に、内容は経済的大名らすなわち、
財閥の指示によって在立するものであります。
金権政治は、いかなる国の歴史も示す通り、
政界上層はもちろん、細末の部分にわたっても、
ことごとく、腐敗堕落を暴露することは、改めて申すまでもありません。
国内の改造方針としては、金権政治を一掃すること、
すなわち、御三家はじめ三百諸侯の所有している富を、
国家の所有に移して国家の経営となし、
その利益を国家に帰属せしむることを第一といたします」 ( 『 北一輝 調書 』 )

この北の金権政治の打破こそ、
その改造方案の大眼目であった。
試みにこの法案をひらけば、
「 巻一、私有財産の制限」、
「巻二、土地処分の三則」、
「巻三、大資本の国家統一」
とある。
この三つが、改造方案のもっとも重要な部門であるがそれは、
さきの青年将校の改造策と全く符節を合している。
北の改造方案は、ここに、青年将校に定着している観がある。
しかし、
北のこの策案をもって、彼を社会主義革命を志したものとはいえない。
彼は大資本を抑制し、私有財産を制限し、私有地に限度を設けたが、
その私有財産の尊重をも忘れてはいない。
「 限度を設けて私有財産を認むるは、
一切のそれを許さざらんことを終局の目的とする諸種の社会革命説と社会
及び人生の理解を根本より異にするを以てなり。
古人の自由なる活動または享楽はこれをその私有財産に求めざるべからず。
貧富を無視したる画一的平等を考えることは、
誠に社会万能説に出発するものにして、ある者はこの非難に対抗せんがために、
個人の名誉的不平等を認むる制度をもってせんというも、
こは価値なき別問題なり。
人は物質的享楽または物質的活動そのものにつき画一的なる能わざればなり。
自由の物質的基本を保証す」 ( 『 改造方案 』 私有財産制限の註 )

したがって、彼はマルクス社会主義者ではなかった。
彼は自ら 「社会主義」 というも、
それは彼、独自のそれであって私有財産を否認する共産主義ではなかったし、
また、資本主義を全面的に否定することなく、
これが抑制を試みた修正資本主義者であった。
だからこそこの思想と軌を一にする青年将校の思想も、
また、まったくの社会主義思想というわけにはいかないのではなかろうか。

大谷啓二郎著 軍閥 より


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