あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

改造法案は金科玉条なのか

2018年01月01日 18時39分44秒 | 靑年將校運動

末松太平
« 改造法案は金科玉条なのか・・菅波中尉の意見 »

新京に着いたのは夜だった。
宿をとった二人は寝る間を惜しんで話し合った。
私が是非会って話し合って置きたいと思ったことは、
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を めぐっての建設案のことだった。
これまでは建設案は念頭に浮かべることすら邪道と思っていた。
それは先輩、特に大岸頼好 あたりに任しておけばよく、自分らは破壊に専念すれば事足りると思っていた。
火事場の破戒消防夫は、破壊に専念するだけでよく、
あとはどうなるなど考える必要はないと思っていた。
しかし 満洲での足掛け四年は相ついで起こった日本内地の事件の推移に思いをひそめるひまをつくった。
破戒消防夫も ふと 後始末を考えてみたくもなるのだった。
破壊のあとに構築される構造物のデザインも、垣間見ながら見て置きたくなった。
それが 『 日本改造法案大綱 』 に 対する反省ともなって、
菅波中尉の意見を徴したくもなったわけだった。
暗黙のうちに、これが建設案だと、同志のあいだで認められているようだったからである。
私は菅波中尉に、『 日本改造法案大綱 』 は 金科玉条なのか、
それとも単なる参考文献なのか、単なる参考文献であるとすれば、
別に妙案があるのか---といった点をただした。
これに対して菅波中尉は
「 実はそのことで自分も考えているところだが、『 日本改造法案大綱 』 を 金科玉条とみるわけにはいくまい 」
といった意味のことをいった。
そのとき
「 これなどはその意味において、一応いい案だと思っているがね 」
といって出したのが 『 皇国維新法案大綱 』 というのだった。
( ・・・『 皇政維新法案大綱 』  ) 
これは私も前に見ていた。
青森の聯隊時代の大岸中尉の作品で、十月事件の前に私案として同志に印刷配布したものだった。
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 や、権藤成卿の 『 自治民範 』 や、遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』
などを参考文献に起案したものである。
菅波三郎
『 日本改造法案大綱 』 を めぐっての建設案については菅波中尉と私の意見は一致した。
「 内地に帰ったら、みなとよく相談してみてくれ 」
と 菅波中尉はいった。
« 大同団結 »
片岡中尉は北海道師団の主力の渡満と同時に交代して、私より先に札幌に帰っていた。
彼は私の凱旋する時期をみはからって行動を起した。
大同団結を策しようとするためだった。
同じ革新に志していながら対立排擠はいせいしあっている青年将校間の紛糾を調整しようとすることである。
それは私と満洲の戦塵の間で相談しあっていたことであった。
しかしそれは複雑で困難なことだった。
十月事件の後味悪い幕切れも対立排擠の一因だった。
それに十月事件と必ずしも関係があるとはいえない、軍自体の計画する革新がからまった。
永井大尉が承徳の兵站旅館で私にいった、陸軍省の金庫のなかにしまってあるという
革新案がそれであるかどうかはともかく。
軍内部の派閥関係もあった。
それも必ずしも革新と関係あるものとはいえなかった。
かつての長閥、薩閥といったものではもちろんなかった。
が、それらと革新が奇妙に交錯していた。
そのうえ政界、財界が、これにまつわりついていた。
もともと 「 郷詩会 」 によって一応全国的組織を持った、陸・海・民 青年の革新は、
一君の絶対と万民の平等をうたった徹底維新だった。
それは 『 天皇と叛乱将校 』 の著者から 「 天皇の名において共産政治を日本に布こうとしていた 」
と 思われても無理からぬ過激なものだった。
一方軍自体は満洲事変に、国防国家、総力体制確立のために、ある種の革新を迫られていた。
『 国防の本義とその強化の提唱 』 と いったようなパンフレットが、
陸軍省自体から鳴物入りで配布されるに至るのも、その一つの現れである。
もともと政治・経済がウィークポイントだった軍である。
それへの対策から、にわかに軍人で、帝国大学に政治・経済を学んで、
エキスパートを自任するものができたり、
学界、政界、財界で、軍との関係をこの意味で結ぶものができたりした。
それにはイタリーのファシズムやドイツのナチズムが参考にされたりした。
軍自体の革新案は大体こういった間に生まれたものらしかった。
通俗的にいうならば
---私自身、通俗的にしかいい得ないが---
徹底維新は困るが、ある程度の革新は軍自体にとっても必要だ、ということである。
それと青年将校との関係は微妙だった。
あるときは利用価値のある存在であり、あるときは厄介な存在だった。
このころから和歌山六十一聯隊の中隊長をしていた大岸大尉がいっていた
「 軍は若いものが承知しないとおどしては軍事予算をふんだくっているんだよ 」 と。
しかしそれが青年将校にとっては、もっけの幸いだった。
そこに青年将校の弾圧されない隙があり、その隙を巧みにぬって行動範囲をひろげ、
組織をかためていった。
そのために時に妥協し、時に反抗した。
そのなかから妥協に安住するものと、反抗を内にとぎすますものとが、
それぞれの個人の持つ人生観、処世観によって分かれていった。
それが勢力ある高級者とつながり、勢力分野を形成し、
互いに、曲解、誤認、中傷をも含めた対立排擠を渦巻かせるのである。
こういったことは何時の時代、何時の場合にもみられる世の常のことであって、
こと珍しく青年将校の間にのみ見られた現象ではないが、
これによって純な革新的ムードは変貌して、すれっ枯らしの政争的様相を呈するに至るのである。

片岡中尉は大阪で私と待ち合わす前に、東京で軍中央部の先輩筋を打診して大体の見当はつけていた。
それはしかし大同団結の困難さを思い知らされたにとどまった。
せめて手近から大同団結の事実をつかみとろうとした。
それが大阪の聯隊にいた蟹江中尉を、私の強力を得て、説得することだったのである。
蟹江中尉は私の一期後輩で、片岡中尉の一期先輩だが、
十月事件のとき片岡中尉に説得されて同志となった歩兵学校グループのメンバーだった。
その蟹江中尉が、片岡中尉の出征しているあいだに、東京の村中孝次、大蔵中尉らと対立状態になっていた。
私は片岡中尉に落合う前に
東京で村中、大蔵中尉らに会って行けるよう日程を組んで青森を発った。
村中孝次 
« 改造方案は金科玉条なのか・・東京のグループ »
東京に着くと、先ず西田税を訪問した。
予め日程は澁川に知らせておいたので、西田税の家には大勢の同志が集まっていた。
菅波中尉が満洲に渡ってからの東京の青年将校は、
村中、大蔵中尉が中心になっていた。
それに磯部中尉や栗原中尉が新たに重要メンバーに加わっていた。
栗原中尉は十月事件のころは、同期生の溌溂として後藤中尉や片岡中尉らにくらべれば陰のうすい存在だった。
同期生のなかには彼を軽侮するものすらいた。
その軽侮したもののなかには、その後退転するものもいたが、軽侮された彼が、遂に初志を貫くことになるわけだった。
ともかく 久振りの西田税の家で、前とはちがった面目の磯部、栗原中尉に私は会ったのだった。
が 西田税のうちの雰囲気は物足りなかった。
「 君のいない間に、いろんなことがあったよ 」
と 西田税はいったが、その言葉にこめられた西田税の感慨には共感できても、
あとは雑談ばかりで、予期したものはそこになかった。
私は凱旋の挨拶をしに顔を出したのではなかった。
もっと緊迫した話題がほしかった。
私はそれで菅波中尉と親京で約束したとおり、北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 に対する
われわれの態度はどうあるべきかを一同にただした。
ぴたりと談笑がとだえた。
だれも意見をいわなかった。
西田税も口をつぐんだままだった。
座が白けた。
それにもかまわず、
「 それは金科玉条なのか、それとも参考文献にすぎないのか。」
と 私はたたみかけて誰かの意見の出るのを待った。

しばらくして磯部中尉が、
「 金科玉条ですね 」
とだけいった。
すかさず私は
「 過渡的文献にすぎないというものもある 」
と 応じた。
これに対しては もう誰も口を利こうとはしなかった。

« 澁川善助の苦悩 »
私は釈然としない気持ちで澁川と一緒に西田税のうちを出て、直心道場に向った。
このころ澁川は直心道場に起居していた。
その夜 直心道場の澁川の部屋で、澁川と薄い布団をならべて寝ると、
「 貴様、きょう西田氏のところで、ひどいことをいったよ。」 と 澁川はいった。
もう二人だけなら安心して、なんでもいっていいといった口振りだった。
「 なにがひどいことだい。」
「 『 改造法案 』 のことだよ。だが、いってよかったかな。貴様でなければいえないことだからな。」
そういって、澁川は 『 改造法案 』 を めぐっての西田対大岸の確執を話しだした。
意外だったのは西田税の 『 改造方案 』 に対する執着の深さだった。
当然、『 改造法案 』 に批判的な大岸大尉との間に確執を生じた。
このために、青年将校間に別の対立が生じようとしていた。
この調整に奈良の聯隊の松浦邁少尉が上京したが、それはかえって両者の確執を深める結果になったという。
リンク→ 
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 
「 松浦君は有能だが、しかしまだ若いからな。ちょっとまずかったよ。西田氏が怒ってしまった。
 おれは日本にいるのがいやになって、満洲に行って貴様と戦場で一緒に死のうとさえ思ったことがある。
だから貴様の帰ってくるのが待ち遠しかった。が もう安心だ。貴様が帰ってきたからな。
二人でこれから東京と和歌山との調整をしよう。
貴様は西田氏とも古いし、大岸さんとも切っても切れない仲だからな。」
澁川は西田税に対しても、大岸大尉に対しても不満があった。
しかし、それをじっと殺して、なんとか両者の間をとり持とうと苦心しているのだった。
そういった澁川の苦衷は、『 改造法案 』 問題だけではなかった。
私と品川駅で別れてからの人知れぬ苦労は、
その間に起った西田のいった 「 いろんなことがあったよ 」 の、いろんなことの裏に秘められていた。
それを私に打ち明けて、少しは荷を軽くするようだった。
「 では一寝入りするか 」
と 何度か言い合いながら、どちらかともなく話しをしかけて、結局夜をとおして語りあかした。
それでも澁川は直心道場の規律通りに起きて、朝の行事をすますようだった。
私は行事の終わったころをみはからって起き、大森一声はじめ道場の人たちと朝食を共にした。
道場の食膳は質素を極めていた。
麦めしに大根の葉を身にした味噌汁だけだった。
私にだけ目刺しが二三匹ついていた。
澁川は笑って、「 お客だから特別御馳走したんだ。」 といった。
他の人たちもこれにつられて明るく笑った。

« 和歌山の大岸頼好大尉 »
汽車に乗ると私はすぐ眠ってしまった。目がさめたら大阪に着く直前だった。
大阪に着いたのは夜だった。
片岡中尉が蟹江中尉を伴なって駅に出迎えていた。
「 話しはもうついた 」 と 駅を出ると片岡中尉はささやいた。
蟹江中尉を二人で説得しようとしていたのだが、私はもうなにもいわなくてもよかった。
が 一緒に酒を飲みはじめると、「 あすは一緒に和歌山へ行こう。」 と 片岡中尉は蟹江中尉にうながしていた。
これはまだ話をつけていないことのようだった。
「 いや、隊務があるからまたにしよう。」 と 蟹江中尉がいうのを皆までいわせなかった。
「 まだ本当にわかっていないな。真剣になれよ。大事なことだぞ。
 隊務がなんだ。末松さんもわざわざこのために来たんじゃないか。一緒に行くべきだよ。」
片岡中尉に圧倒されて蟹江中尉は渋々承諾した。
私しは二人の問答をききながら、ただ 食い倒れの大阪の味覚を堪能していた。
翌朝、牛にひかれて善光寺詣りならぬ、片岡中尉にひかれて和歌山詣りをする蟹江中尉と一緒に、大岸大尉を和歌山に訪ねた。
和歌山の駅を降りたところで、ひょっこり村中中尉に出合った。
東京で別れたばかりだった。
陸軍大学校の学生だった村中中尉は大学の戦史旅行で満洲に行く途中、
大岸大尉を訪ね帰るところであった。
「 妙な顔ぶれだね。」
蟹江中尉と連れだっている私と片岡中尉に対する村中中尉の皮肉なことばだった。
蟹江中尉の敬礼に応える村中中尉の敬礼も、よそよそしかった。
対立のはげしさを如実にみせつけられた。
「 満洲にいったら菅波に会ってくる。」 と 村中中尉は別れぎわに私にいった。
西田税のうちでの 『 改造方案 』 論議に関連していっているわけだった。

蟹江中尉と会った大岸大尉は如才なかった。
「 久振りですね。奥さんお元気ですか。」 といって蟹江中尉とを迎えた。
一時は家庭のつきあいまでしていたことが推測できる挨拶だった。
それがいつのころからか、村中中尉らに令眼視される関係になって、和歌山へも足が遠のいているわけらしかった。
片岡中尉は蟹江中尉を同伴するに至ったいきさつを述べ、短兵急に大同団結の必要を強調した。
が 大岸大尉の受け答えは のらりくらりとしていた。
それは大岸一流の韜晦とうかい癖のようにもとれた。
蟹江中尉に対する警戒が解けていないためのようにもとれた。
暗くなる前に片岡中尉は物足りない顔で、蟹江中尉をうながして大阪に引き返した。
私は残った。
暗くなって、和歌山聯隊の若い将校が二三人訪ねてきた。
私に引き合わすため夫人を呼びにやったようだった。
なかに広島幼年学校時代の二期先輩、土屋正徳中尉もいた。
林銑十郎大将同様のいかめしい髭を生やしていた。
ヅク十郎髭だといっていた。

私は大岸大尉からまだ、ききたいことを何一つきいていなかった。
昨夜は酒間の雑談に終始しただけだった。
退屈でも帰るわけにはいかなかった。
この日の夜は二人だけだったので、問題の 『 改造方案 』 についてきり出した。
新京で菅波中尉と話し合ったこと、西田税のうちでのこと、直心道場で澁川と話し合ったことなどを。
大岸大尉は私の話をきき終ると、
「 そりゃ澁川君のいうとおりひどかったよ。めくら蛇におじずだったね。
 磯部君はおれを殺すとまでいっていたそうだ。気の毒なのは澁川君で、間に立って随分苦労したらしい。」
といって、いざこざのあらましを話すのだった。
澁川からきいた話とつき合わすと、
『 改造方案 』 をめぐっての東京と和歌山の葛藤は大体検討がついた。
私が凱旋の帰途たまたま新京で、菅波中尉の意見を徴した同じ問題に、
ちょうどその頃内地でもつき当っていたわけである。
では一体、『 改造方案 』 のどういった点が意見の衝突となっているのだろうか。
これに就いて大岸大尉は、あまり語ることを好まぬふうだった。
ただ この点は骨が粉になってもゆずれないといって、二三それをあげるにはあげた。
それがどういうことであったかは、いま記憶にない。
私はしかし 『 改造法案 』 批判よりも、それに代わる案があればそれを知りたかった。
それで、「 では 『 改造法案 』 に代わるものがありますか 」 と きいた。
大岸大尉は 「 あるにはあるがね 」 と いったきりで口をつぐんだ。
いやに勿体ぶるなと思った。
いわなければいわなくてもいいや、おれにいえなくて誰にいえるのだろう、ともおもった。
韜晦もいい加減にするがいいや、とも思った。私は無理にきこうとはしなかった。
私は西田税のうちでも不満だった。ここでも不満だった。
この夜はここに泊まるほかないが、翌日はすぐ辞去しようと思った。

「 これはまだ検討を要するもので、人には見せられないものだが・・・」
と いって私の前に置いた。
私はひらいてみた。
冒頭に 『 皇国維新法案 』 と 銘打ってあって、革新案が筆で書きつらねてあった。
これが 『 改造法案 』 に代わる大岸大尉の革新案の草稿だった。
が、それはまだ前篇だけで、完結していなかった。・・・ 『 極秘 皇国維新法案 前編 』
私がそれを読み進んでいるとき大岸大尉は
「 将軍たちがえらく 『 改造方案 』 を きらうんでね 」 と つぶやきもした。
それを考えにいれてのものかどうか、ともかく、ざっと目を通していく私には、
どこがどう 『 改造方案 』 と、きわだってちがっているのかわからなかった。
日本が皇国となっていたり、改造が維新となっていたりするように
将軍好みに用語、表現に工夫が払われているとは、大岸大尉のつぶやきに影響されて思いはしたが、
これが殺すのどうのと葛藤を生むほどのものの御本尊であるかどうかは、
『 改造法案 』 を 後生大事に、箱入娘のように庇物にすまいとする金科玉条組の偏執とともに、
了解しがたかった。

磯部浅一は二・二六事件後、死を直前にしてしるした 『 獄中手記 』 の八月二十一日のところに
「 『 日本改造法案大綱 』 は 絶対の真理だ。 一点一画の毀却を許さぬ。
今回死したる同志中でも、『 改造方案 』 に 対する理解の不徹底なるものが多かった。
又 残っている多数の同志も、殆んどすべてがアヤフヤであり、天狗である。
だから余は、革命の為に同志は 『 法案 』 の 真理を唱へることに終始しなければならぬと言うことを言い残しておくのだ。
『 法案 』 は 我が革命党のコーランだ。
剣だけあってコーランのないマホメットはあなどるべしだ。
同志諸君、コーランを忘却して何とする。
『 法案 』 はいいが、字句がわるいというなかれ 」
と 書いているが、私などは、このなかの 「 理解の不徹底なるもの 」 の 一人であり、
天狗ではなかったが 「 アヤフヤ 」 の 部類には、はいるわけではあるが、
『 改造方案 』 が 金科玉条であるにしても、そうでないとしても、
どうしてお互い対立以前に、互いに偏執なく検討しあう了解が成り立たなかったのだろうかと思った。
これを翌朝和歌山を発って大阪に向う南海電車のなかで私は考えつづけた。
大同団結どころの騒ぎではない。
片岡中尉の提案をのらりくらりと受け流していたのは、必ずしも大岸一流の韜晦とのみはいえなかった。
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『 皇政維新法案大綱 』 から 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 に至る経緯は、
大岸が1931年9月頃に書いた 『 皇政維新法案大綱 』 を参照して、
鳴海才八 は1932年1月頃に 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 を作成、印刷し、二月頃東京の関係者に頒布した。
1933年5、6月頃に澁川善助、菅波三郎らが 「 在満決行計画大綱 」 を作成、
同年か1934年、 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 と 「 在満決行計画大綱 」 は結びつけられたことになる。
1934年頃になると、大岸の思想はもはや 『 皇政維新法案大綱 』 を書いたときとは異なっていた。
そこで、改めて大岸によって編まれたのが、 『 皇国維新法案 』 だった。 
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« 大岸頼好の皇国維新法案 » 
・・リンク→ 『 極秘 皇国維新法案 前編 』

澁川が大岸大尉の 『 皇国維新法案 』 を 印刷したものを、風呂敷一杯重そうに掲げて、
また青森にやってきたのは、このときから一カ月とはたっていなかった。
これはこんないきさつからだった。
澁川がこの前帰って間もなく、
大岸大尉から、和歌山で 「 人には見せられないもの 」 と大事がっていた 『 皇国維新法案 』 の草稿を、
どういう心境に変化がきたのか、至急印刷したいから澁川に頼んでくれといってきた。
私は早速大岸大尉の意志を澁川に伝えたが、それが出来上がったから、と 持参したのである。
「 知っている印刷屋のおやじが奉仕的にやってくれた。
紙も、おやじが大事なものだから上質紙にしたがいいというのでそうした。」
澁川は風呂敷を解きながら、こういった。
私はこれを私直接の全国の同志に配ろうと思った。
が、どういうわけか大岸大尉から間もなく、配布はしばらく待ってくれといってきた。
そのときはまだ何部かを独身官舎の若い将校に配っただけで、殆んど手付かずだった。
二・二六事件のときまでそのままだった。
湮滅しようと思えばそのひまはあったのに、わざとそのまま残して置いた。
二・二六事件があった年の正月、私は東京に出ていたが、
その時澁川が 『 皇国維新法案 』 が 西田税にみつかって、これは誰が印刷したんだと激怒したといっていた。
「 どうもおれが下手人とにらんでいるらしかったが、とぼけて素知らぬ顔をしておいた。
 それにしても西田氏があんなに怒るとは思わなかったな。」
と 澁川は意外といった顔で、苦笑していたが、私も、へえ、そんなものかなあ、と 以外に思った。
ともあれ、二・二六事件直前に、まだこんな未解決な問題が、残されていたのである。
二・二六事件で私が調べられているとき、
予審官が 「 ときに 『 皇国維新法案 』 というのがありますね。あれは誰が書いたのですか 」
と きいた。
私は一瞬だまった。
それにとんちゃくせず、予審官はつづけて
「 澁川は自分が書いたといっているが、そうですか 」
ときいた。
「 そうです 」
と 私は答えた。
末松太平著  私の昭和史から