あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

靑年將校運動とは何か

2018年01月20日 18時44分09秒 | 靑年將校運動


靑年將校運動とは何か

和田日出吉
×月×日
質問者 和田日出吉

まえがき
最近、靑年將校といふ言葉、及びこれに關連する各種の思想及び行動が好むと好まざるとに拘らず、
特殊の意味を帯有して問題的に扱われてゐる。
靑年將校とは何であるか。
今まで貌相を的確に社会に現はしたこともなければ、説明されてゐないやうだ。
從つてこの言葉を使ふのも、ほんのその文字と、その文字の背後的關係とを聯想に入れたまま漠然と使ってゐるに過ぎない。
然らば一體、靑年將校、或は靑年將校運動とは、何を指し云ふのか。
漠然たるこれ等の名称は何を意味し何を語らうとしてゐるか。
筆者は、過日、これらの所謂靑年將校運動の線上にある靑年將校の一人  ( 或は多數と云ってもよい ) と話を交換す機會を得た。
勿論お互に突然であり且つ、限られた小時間であったため答者は、
その思ふところを存分にまかせぬ點もあったらうし、問者もまたその意にまかせなかった。
然も本文にはここに記す自由を有せない事柄をはぶいたためと、
問者の質問内容を簡單に要點だけ記錄するに止めたため、記事が表面的になったやうに思ふ。


最近、國家改造運動のうへに、靑年將校といふ言葉が使はれてゐるが、文字的解釋以外に何を意味してゐるかを訊ねたい

これは自分等が名附けたわけではない。
靑年の將校が國家改造運動の必要上、口々に自然發生的に名がつき、自分等もそれを使ふやうになったまでである。

ではその靑年將校運動なるものを具體的に

それは、靑年將校が、指導中心となってゐる國家改造を目的とする 「軍隊運動」 の意味である、
而してこれらの指導中心となってゐる靑年將校の大部分は、
軍隊内にあって、下士官、兵士達と苦樂を共にいてゐる中隊長以下の、
若き大尉、中尉、少尉によって占められてゐる。
決して軍部の中央部にあって、華かに世間的存在を認められてゐるものでないことを配慮せられたい。
従って本當の 「 靑年將校 」 などの姿は、決して世間には解らない。
全國各地に營々として皇軍のため兵と共にしてゐるのだから。

相澤中佐の如きは?

中佐の如きは、所謂靑年將校ではなかったが、
この運動に於ける年長者であって靑年將校たるの情熱と信念を有してゐたものと解する。

それ等の靑年將校の中でもイデオロギーの各種の潮流があると思ふが、
それを一概に靑年將校運動の中に含めるのは余りに、その思想を概念的たらしめてはゐないか

いや、前述の意味に於ける靑年將校の中には絶對に相對する思想はない。
勿論細部にはあるかも知れぬが、そんな点は何うでもよい。問題は根本にある。

現在の若い將校で、改造運動に入ってゐない者が大部分であらうがそれとの關係は?

さういふ革新運動を考へて居らない一般の若い將校も結局精鋭なる革新分子である。
これらの靑年將校によって指導されてゐるのが現狀である。

ところで目下その 「 靑年將校運動 」 は活潑なる活動をしてゐるのか?

いよいよ活潑となってゐると思ふ。

われわれ外部から解らぬが、その具體的な例は?

相澤中佐事件はその一例であるが、更に今回の公判に於ける全國的活動や、
渡邊教育總監に對する全面的反撃運動もその一例である。

ところで靑年將校と云ひ、その運動と云ひ、軍隊としての組織以外に、何等かの組織があるのか

具體的には何もない。
例へば綱領であるとか、結社的なものはない。
精神と信念を同じくしてゐる以上、綱領とか規約とかは無意味である。
然しこの國家革新を考へてゐる靑年將校が、 全國に亙って自ら聲息相通じてゐるといふことは明らかな事實である。
だから各靑年將校が、一つの大義名分を唱へて奮起した時には、全國からこれに呼應した起き上って來ることは想像できる。
従って無組織とでも云ふか・・・・・要するに陛下の軍人として軍隊内に一つの結社を作るといふことは、
吾々の排撃するところであるが、同一の理想と信念を持ってゐる者が接近して互に情報を聯絡し、
その信念に忠實たらんとする行動は許されていいと思ふ。
ことは社会は勿論、軍隊内部の改革が必要とされてゐる今日に於て、
これはよくわれわれが問題視される横斷的結束では決してない。

然らば、この靑年將校運動が、發生したのはいつ頃か。また發生した因子は何か。

世間では靑年將校運動を目して、満洲事變あたり、
或は五、一五事件この頃から出來たやうに思ってゐるが、そんな浅いものでなく、
事實相當に古い歴史的根拠を持ってゐる。
即ち、わが國に於て資本主義の最も活潑を極めた欧州大戰當時からその直後に當って、
日本帝國が逐次に自由主義思想或は左翼思想等なよって浸食され、
一般人のみでなく軍隊内部までが腐敗或は、その思想的影響下にあるやうになり、
然も軍の首脳部も何等これに對して積極的な力を見せず、
云はぱむしろ肩身を狭くして軍隊精神を委縮させるやうな事態になったとき、
これを憤った當時に於ける中少尉の靑年將校、或は士官候補生が、
軍首脳部頼むら足らず自分等の力で日本を革新しやうと集って、
互に國家改造の運動の發足を契ったのだ、それが始りだから、
かれこれ十五六年經つと思はれる、
これが世間的に具體的に現はれたのが数年前の○○○○事件であり五、一五事件である。

當時の思想的根拠は?

今も昔も變わりはない、建國以來の國體観念である。
即ち神武創業の時から大化の革新、建武の中興、明治維新をはじめとして同一の思想と云ひ得るわけである。

では 五、一五事件関係の靑年將校と現在の靑年將校との間にイデオロギーの變化的、
或は生長的差異はないと見ていいのか

少しも變わってゐない。
但し五、一五事件に於ては、現象的に見てわれわれさうした機械に當って靑年將校運動の一部が、
露出したといふ狀態とみるのを至當と考へる。
從って靑年將校運動の全體と解釋するのは非常な困難事だ。

五、一五事件關係者の中には軍人以外の者がいるが、これも全く思想的に同じと見ていいか

五、一五事件に於ては、明らかに吾々靑年將校の有する思想と、それに非ざるファッショ思想とが混亂してゐる。
即ち、五、一五事件の被告中の陸士官候補生の如きは明らかに、われわれの思想であるが、
大川周明或はこれに從ったものゝ思想は、ファッショ的思想濃厚であると思はれるし、
われわれの反對するところだ。
これが一歩進んで神兵隊事件になると、純然たるファッショ思想の指導下にあって、吾々の輕蔑するところである。

だが、五、一五事件や神兵隊事件の持つ思想と
靑年將校運動の有する思想と一般にはかくまで根本的差異があると理解されてゐない

然し 事實は全く違ふ。
特に神兵隊事件などの思想と同一にされることは迷惑至極である。
兎に角、この思想的差異を認識してかからないと所謂正しき意味の靑年將校の本體が解らない。
ただ新聞等に許されたる範囲の報道のみで、これ等の現象とその各々の思想を想像するから、
自由主義を排撃するものはファッショといふ言葉に片附けてしまふのだから低い。

軍部内に於て、統制派とか、清軍派とか色々な派閥があると聞くが如何?

軍部内には明瞭に色々な派閥があると云へる。
派閥があるといふよりも、寧ろ相對する二つの潮流があるといった方が適當な意味を持つやうだ。

二つの潮流とは

その一つを現狀維持派と名附けやう。
その中には所謂統制派、幕僚ファッショ ( 政治派とも云ふ ) 等が含まれてゐる。
また一方現狀を打破しやうとする派 ( 皇軍派 ) とでも云ふべき派がある。
この二大潮流は、根本思想に相對するところから出發してあらゆる點に相反してゐる。
例へば對露問題についても前者は明瞭に對露親善であり、
後者はこれを爆發しやうとする思想である。

これが所謂、宇垣派とか荒木派とか云ふ形になってゐるわけか

兎に角、我々の頭から云へば、
所謂荒木派とか、宇垣派とかいふやうな個人的な名前による對立などてんで問題でない。

然し 事実じつ上、靑年將校は荒木、眞崎派だといはれてゐるではないか

いや我々は實際に於て、そのいづれの派にも属さない、
荒木、眞崎といふ者を支持した形になってゐることもあらう。
然しそれは單に、この人達が、軍人として正しい人であるから指示すると云ふ結果的な現象にすぎない。

処で、宇垣とか南を支持する靑年將校もゐる譯ではないか

それはあらう。
だがそれらはわれわれが荒木、眞崎を支持するのとは根本的に違ふ。
宇垣、南等に属するものゝ行動を見てゐると、明らかに方便主義、利益主義が含まれてゐると思ふ。
我々が仮に世間で云ふ如く荒木派であり、眞崎派であるとして、これを我々をして云はしむれば、
 むしろ現狀を打破しやうとする靑年將校の陣営に荒木、眞崎が含まれてゐると云ふべきであらう。
本來の意義から云って、青年將校は絶對に荒木派でもなければ、眞崎派でもない。
まして派閥によるこしは軍人の本分にもとるのである。
これを世間的に見ると恰も宇垣派に対する荒木派であり、
下の方でも幕僚ファッショに對する靑年將校といふ格構になるのだと思ふ。

だが、軍部内に於ける派閥には思想的對立と云ふ純粋なもの以外に
地位名誉の爭奪も當然ふくまれて相當複雑だと思ふ

少なくとも靑年將校にはそれはない。
現狀維持派は多分にそれがあると解するが適當だ、然しそれは第三者から見た方が、はっきりすると思ふから云はぬ。

現狀維持派の中心は死んだ永田中將か

まあ參謀と云ったところだらうと思ふ。

現状維持派の思想の中心はファッショであるか

左様、ファッショ的であるが必ずしも確固なる理論、組織、信念から基いたものとは思へぬ、
結局、新興勢力たる靑年将校が、獨自の國體観念によって立上がって來た時に
これに依ってすべての腐敗堕落したもの、
或は支配階級に寄生的態度を採ってゐたものが自分の地位を奪はれ特權的地位が剥がれることを恐れて、
その結果、新興勢力である靑年將校に對して、
自然に色々な派閥が集って幕僚ファッショなるものを形成したものと解すべきであらう。
從って彼等の間には軍隊内部の自由主義的思想あり、官僚重臣に阿る者もゐる。
中には或る程度まで革新を考へてゐるが、日本本來の國體観を持つことが出來ず、
外国國への留学等に於てナチス、ファッショなどの政治形體への共鳴から、
日本にもこれを移植しやうとする浅薄な思想を持ってゐるものもあり、雑然たる寄合である。

永田中將亡き後の現狀維持派の中心勢力は

矢張り幕僚ファッショであらう。
ところが、靑年將校は、彼等とは根本的に相容れない、
先ずわれわれは、彼等が目ざす如く、軍人による獨裁政治は考へてゐない。
我々は日本人として考へるのである、
即ち革命日本人としての軍人であるとの自己認識を持ってゐるが故に
國家を革新せんとする爲めに軍人獨裁の政治の現出を必要とは考へてゐない。
むしろ國家改造は、軍人が獨裁でなくて、天皇の下に一切を捧げた國民が全國的に凡ゆね部門に亙って
各々改造しなければならぬではないか、國家社會が腐敗するとき、
軍部もまたひとり孤高であり得る筈がない、軍部また革新を要するのは理の當然である。

然し世間には軍人全体體がファッショだと思はれてゐる
勿論、ファッショの意義を知らない爲もあらうが

だが、世間がさう思ふ理由の一半に次ぎのやうな理由があると思ふ。
即ち、軍隊の社會外部に對する宣傳機關や、
その地位的關係から表面的に外部と接触する機會の多いものは主として軍の中央部にある・・・・・・・
幕僚ファッショの聯中であらう。
彼等は自分も軍のスポークスマンであるが如く誇示し、
世間また之等の者の思想的代表者であると信ずるため、
幕僚ファッショによって宣表されたファッシズムは、世間的に軍部全體、ことにその先鋭分子として
靑年將校を聯想するが如き結果になるのである。
繰返して云ふが、靑年將校運動には、
幕僚ファッショなどに依って抱懐されてゐるファッシズムは芥一つないことを心得べきである。

然らば靑年將校は、その運動に於て何を望んでゐるか

簡單に云へば、一君萬民、君臣一界といふ境地である、大君と共に喜び、大君と共に悲しみ、
日本國民が、本當に天皇の下に一體となり建國以来の理想國顯現に向って前進するといふことである。
眞に吾々は、陛下の赤子であると言ふ境地を現出して、
日本をあげて、世界に於ける最強の大和民族たらしめ、
日本が世界の封建的資本主義國家の上に君臨する日本帝國を建設する事によって、
世界の平和を招來する事だと思ふ。
我々は人間として平和郷を現出する事を希望して居るが、
今日国際間に於ても大和民族は座して他のアングロサクソンとか、
スラブ民族に依って踏みつけられるに甘んずるわけには行かない。
矢張り之に対して敢然征服すべく突進せねばならぬ、
それまでは靑年將校として切實に感ずる事は何かといふと安心をして國防の第一線に活躍することだ。
即ち我々は今日兵を教育して居るが、今の儘では安心して戰爭に行けない。
今日の兵の家庭は疲弊し働き手を失った家が苦しむ狀態では、どうしても安心して戰爭に行けるか。
即ち自分達が陛下から、一般國民から信頼されて居る以上は、此の國防を安全に、
國防の重責を盡すゆうような境地にしたい。
その爲めに日本の國内の狀態は明瞭に改造を要するのである。
國民の大部分といふものが、經濟的に疲弊し、經濟上の權力は、
天皇陛下に對して、まさに一部の支配階級が獨占してゐる。
時として彼等は、政治機構と結託して一切の獨占を弄してゐる。
然も、それ等の支配階級が、非常に腐敗してゐる狀態だから承知相成らんことになるのだ。

さうした感想は、一般的に云って左翼的にも考へられる

さうにも感じられやう。
然し、その根本に於て、靑年將校運動は、國體観念から出發してゐるという一點で、磁石の両極ほど違ふだらう。

では、何うしやうと言ふのか

今日、日本の國内狀勢を見て、何んとかしなければならぬといふ考へは、一般國民の常識だと判定していい。
だが改造の方法に各々異説があるのだが、
これは日本建國以來の國是といふものを考へて見れば自ら決ってくるものと思ふ。

然らば、改造戰線に於ける靑年將校の役割は何か

建國の理想への顯現に努力することである、
端的に云へば、陛下の正しい力として國是の遂行を妨害する者を排除して行くといふ事にある。
從って國外に對しては日本の國策を妨害する、
例へば英、米、露の如きに對しては、國防の第一線に立って敵をたをし、
國内にあって若し日本の國の進歩發展の爲に妨害となるといふ存在があるとすれば
-----例へば、天皇機關説論者の如き----
之を國民の先頭に立ち一切を排除して天皇の下に馳せ参ずるのが、自分達の任務だと思ふ。
又吾々靑年將校としては、特に同じ陛下の赤子國民でありながら、
殊遇を忝くして居る以上、日本の國の爲めには、
何れの場合に於ても眞先に斃れるといふことが我々の信条である。
随って唯戰爭だけやればよいといふのではなく、國内問題に對しては非常なる決意を持ってゐる。
要するに靑年將校としては先づ先に斃れて、其の上に日本國民を前進せしめて、
日本國民をして益々よりよき境地に行かしむるといふのを心密かに誇りとしてゐる譯だ。

さう云ふ日本の國の前進を妨害するものは

要するに今日の國内狀勢をよく見れば、
現狀を維持せんとするもの然かも現狀を維持するといふ事の反面には、
今日迄の自分達の得た特權であり、
地位であり、財産であり、名誉といふものをあくまで保持せんとするもの、
例へば政黨であり、財閥であり、軍閥であり、吏閥であり、悉くさうだ。
然かも之等の現狀を維持せんとする者は、事實上日本の國の支配階級を形作って居る。
支配階級の權力は非常に強大であるが、明瞭に今日新興一般國民は、
これに反抗して居るが如何ともし難い狀態にある。
唯之に對して唯一の残された刀としては、
陛下の正しい權力としての靑年將校を中心とする軍隊運動が存在する丈だ。
それで概ね吾々靑年將校が革新運動上何をするかといふ事が想像がつくだらうと思ふ。

現在の經濟機構に関して如何 ?

はっきり云ふと、今日の資本主義經濟機構は明瞭に否定する。
今日迄の所謂資本主義經濟組織、明治維新の時に取入れられた富國強兵の資本主義といふものは
過去に於ける有力なる働きをしたが、
今やその役目を果し段々破綻して、何等かの新しき形式に移りつつあるといふ事は、
支配階級ですら何等かの形で是正せんとして居るので判る。
だが今日の資本主義の組織權力といふものを根底としてゐる、統制經濟主義には明瞭に反對だ。
我々は今日の資本主義組織といふものを打破する爲には少く共、三大原則があると信じてゐる。
大資本と私有財産と土地と此の三つの部門と云ふものが、
今日の資本主義經濟の三の大なる因子であると思ふが、
この因子に根本的修正を与へなければならぬ、
先づ大資本を國家の統一に歸する。
私有財産を制限する、土地の所有の制限をする。
この三つである。

支配階級、殊に資本主義内に、勿論表面的ではあるが広い意味の右翼転向の氣運を感じないか

我々の今日の支配階級に對する憤は決して所謂プロレタリアがブルジョアに対する復讐ではない。
日本の國家がよくなる爲の金融大權を奉還するといふのはいいと思ふ。
例へばブルジョアが三千萬圓を出したとするも其反面に於て十億の金を鞏硬なる組織で、
日本人の懐から搾取して居る情態である以上は、生半可な生半可轉向狀態に誤魔化される程我々は馬鹿ではない。
資本家聯が、陛下の下に奉還するなら話は非常に簡單だが、
それが厭だといふと正義の力を持ってやらなければならないと言ふ立場にある。

唯財閥が今の自由主義經濟機構を中心として活動を止めると、日本の國富といふ點から何う考へるか

よく其の質問を受けるが、今日の資本主義經濟機構といふものを否定したら日本は經濟的に破綻する、
と考へるそれ自體の頭が今日の資本主義機構の中に生活している人の考へであるらしい。
國富といふのは日本全體から見れば決して變化はないと思ふ。
現在の日本の國富は、なるほど資本主義の潮流に乗って全體としての日本が蓄積した冨であって、
決して資本主義だけの富の製造技術によって爲されたものでない事を心得るべきである。
日本及び日本人としての經濟的に膨脹しゆく力----民族的なるエキスパンションに因るもので、
その中にあらゆる階級、あらゆる生活、學問、さうしたものの渾然たる日本の發展力の結果だ。
資本主義陣営内の前述の如き考へは、恰も現在の日本の富を作ったものは資本家の手であり頭脳であると思ってゐる。
哀しむ可き錯覺である。
恰も今やその資本主義の修正が必然的に約束されてゐる今日、日本の資本主義經濟機構を改變し、
資本閥を倒すことに依って日本が貧乏になるといふ理論は成り立たない。
反って既に役目を果した資本主義を否定する民族的な、生活力は更に次の富國の段階に移るべきだと思ふ。
われわれはその位の民族發展の可能性のあることを、日本民族に信じてゐる。
寧ろ鞏硬なる國家的統一をなした事になり、日本の統一といふことは世界に對する恐怖であるが譯だ、
同時に日本の經濟機構を改變するといふことは、世界の今日の經濟組織の大破綻を來すといふことで、
今日の日本の改造といふことは、日本一國の改造のみならず、世界改造に及ぶことにならう。
大和民族が將來世界に雄飛する爲めにはその位の苦労はしなければならぬ。

現在の國民生活の神經の樞を握ってゐるのは官僚である
この官僚の最近の抬頭は、軍部の臺頭に伴って起って來たやうな奇現象を示してゐるが如何?

軍部の抬頭といふより、國體観念を中心とする國家改造運動、靑年將校運動の臺頭に對して、
所謂重臣がその現狀維持の方法を取るに政黨が駄目であるから官僚に求めた事による。
官僚は長年政党の壓迫下にあったので、この時とばかり、軍部臺頭の力を逆用してゐるのだ。
然も軍部内にある現狀維持の聯中が、この官僚どもと款を通じることなどによって一時はいい氣なものであった。
然し、現在永田中將の死によって、この気勢は壊滅したやうだが・・・・
新官僚の旗印は或程度の改造といふことを考へて居るが、此の新官僚の立場といふものは、
仮に明治維新を例とする公武合体派だ。
もう一つ突っ込んで言ふと、ロシア革命に於けるケレンスキー政權だ。
官僚が看板にしてゐる旧勢力にもよい新勢力にもよかれといふ存在は矛盾である。
ところで官僚の思想の中心は依然として彎曲された自由である。
彼等は政治に対してさへも政黨に對する反撃的修正に止まり國家改造など及びも寄らない。
むしろ明治の當初に於ける官僚階級とその華やかさに對する思慕にすぎない。
その観念は、退嬰的であるばかりでなく、徒らに細部的である、官僚運動を實践するに當っても、
自らその力もないので軍部に頼らうとしたのだ。
玆に思想的といふより便宜的に幕僚ファッショとの通謀が成立したわけで、そこに指導力などのあらう道理がない。
最も指導力を必要とする時代に、指導力のないものが政治の中心となってゐることは日本の不幸である。
帝國大學の机の上と官廳の窓からは巷の聲は判らない。
農民や市井の勤労者は、むしろ彼等の物判りのよさそうな、蒼白い、
高慢ちきな秀才面を見て怨嗟を徴發されるに止まらう。

現在、右翼團体の大部分に對して、われわれは低劣な印象しか持ち得ない
然も右翼團體と云へば、必然的に軍部と關係ある如く思はれるが、靑年將校として何う思ふ

單純に右翼と靑年將校を結びつけることは迷惑至極である。
右翼と云っても日本精神を賈り物にして、寄生虫的存在が多いと思はれる。
だから決して既成の右翼團体といふものは、革新運動の中心にはなってゐない現狀だ。
論より證拠所謂既成の右翼團體といふものは悉く至る処で革新分子によって改變されてゐる。

明倫会の如き軍人出身者を中心としている右翼の團體があるが、一例として何う思ふ

あんな邊りがまあ、何と言ふか我々が深い所を流れて居るとすれば、丁度岸辺を洗ってゐるといふものだ。

右翼團體にしても財閥の補助を受けて居るといふ説が伝はって居る

之は我々靑年將校をといふ者は、國家の官吏として待遇されてゐる。
だから生活者で無い者の内容がわからないが不正がなければ徒らに潔癖に見る必要もなからう。
唯それが革新運動を他人に賈り附ける或は支配階級を食物にして居る者は、明瞭に我々の敵だ。

次に左翼運動はいま、思想的流行の圏外になってはゐるが潜在的には、
 インテリ階級の大部分に、多少ともシンパ的魅力を持たれてゐる。
また左翼思想が、自由主義に寄生してゐることも事實だ。

左翼思想は、先づ日本の國體に反する意味で反對である。
左翼と云っても無産党の聯中の如く陛下を認めて、
 然も日本の國體論があってそれに社會民主主義を取り附けるといふ事は成り立たない。

だが右翼小児病も、ずい分ある

右翼にも、左翼にも、小児病は多い。
右翼小児病などのいい例は、活動冩眞によくある近藤勇が酒に酔って芸者を前に置いて深刻な顔をしてゐる。
それに魅力を感じるやうなものだ。
最近の各種の右翼運動などでよく發見されるやうに、國家を改造するものが、日夜待合などに出入して、
芸者を抱いて紅灯縁酒の下に酔ひしれてゐる實情である。
それで何の改造が出來るか、營々として働いてゐる農民や、勞働者に申しわけがない。
で、第一に彼等には眞劍さがない。 改造の捨石になる信念がない。
だから改造だ改造だと云ってゐながら、ひとりでゐると淋しくなる。
同志が集まって酒を呑み、女を抱き焦繰的寂寥を誤魔化さうとしてゐるのだ。
信念があるならば、ただ一人黙々として冷静に前進する筈だ。
聞けば相澤中佐の如きは決行の前などは何人にも語らず、水の様な静けさであったといふ。
現在の中央部の軍人の中にも、幕僚あたりは、國家の大事を語るに盛んに料亭待合に出入して行ってゐるが、
これでは國家を改造する資格はない。
われ等靑年將校の運動にあるもの、兵と共に野營し、泥にまみれて苦勞を共にしてゐる者には、
想像も出來ない芸當だと思ってゐる。

ぢゃ三月事件、十月事件当初から・・・・

大部分さうだ。
十月事件以來、靑年將校が幕僚から離れ去った重大な理由は、そこにある。
宴会派なる名稱が出來たのもその頃である。

一般的な意味に左翼の運動は、靑年將校等は認識をもっと深めていいぢゃないか

いや相當、その點は勉強してゐるつもりだ。
共産主義にしたところで人類の幸福を目標としてゐる点で、徒らに否定はしない。
然し何よりも先づ我々が日本人である点、また日本人であらねばならぬ一点で、根本的否定----といふより撲滅をせねばならないと思ふ。
ところで左翼の運動などでは先づ感覺的に不快だ、青白いインテリ崩れが、
國家の改造をするについても、戰術の名にかくれて、
ショップガールやタイピストを桃色化したとかなどに至っては子供だましだ。ほんの遊びだ。
例のハウスキーパーなんて、情婦 ( いろをんな ) ぢゃないか、要するに児戯の二字に盡きる。
そんな遊びから何が生まれるものか。

兵士は、徴兵で國家の義務であるから、奉公、奉仕といふ感じが湧くが、
 將校は將校たるが故に生活の資を得、まして生涯を通じて生活を保證されてゐる點から見て、
 一部から將校職業論の出てゐるやうだ

制度上から云ふと、將校は徴兵制度内にあって、義勇兵制度に入る。
從って職業ではない。
唯實際問題として今日我々が特に反省しなければならない事は 將校が自己を以って職業的軍人ならしめてゐる事だ。
若し職業でやってゐるならば、日本國民でありながら、
陛下の殊遇を忝うして居るといふ事が前に云ったやうに靑年將校をして内外を問はず
國民の眞先に犠牲になるといふ信条を持たしめる。
若し職業であるならば、戰爭には成る丈死なない様にして、金鵄勲章を貰ふ
實際問題として我々靑年將校は職業でないといふ信念の下に立ってゐる。
軍人勅諭を噛みしめて讀んで頂くとはっきりすると思ふ。

靑年將校などには、世間的接触がないために、民衆の生活感情を無視した點がずい分あるやうだ

世間的に最も多く信ぜられてゐる考へだが、事實はこれと反對である。
我々將校程世間的接触の多いものはない。
論より證拠に、我々が毎年十萬以上の壮丁を入れてそれを直接教育する。
彼等は世間の総ての職業を網羅して居る。
我々軍人は戰爭術の技師ではない。
だから兵隊に軍隊の技術を教へる爲めの將校ではない。
それに兵隊の凡ゆる階級の者が持つ思想、信念、境遇之を體得しなければ理想的の教育が出來ぬ。
況んや我々靑年將校が此の一般社会から入って來る兵卒の演習場に於ても共に露營し、
共に同じ飯を食ひ、泥まみれになって居る中に、彼等の思想感情を知り、彼等の悩を感得、苦しみを知る譯だ。
從って民衆の生活感情や思想内容に對する知識といふものは非常に強いものだ。
國民總てを指導しなければならぬ確信を持って、ものを非常に研究して居り、却って世間一般の人よりも色々知って居る。
勿論なかなかさう云ふ將校が全部を占めて居るとはいへないが、
軍人自信が自己の任務といふ事を考へると自ら解る問題である。
また毎年十萬宛の在郷軍人を出して居り、其の在郷軍人は今日三百萬を越して居る、
之等の者は事實上健康なる精神力、肉體力を持って居る者、所謂完全な日本人である筈だ。
然らば將校の信念であり思想といふものは、非常に國民の間に浸入して居る譯だ。
われわれの在郷軍人に對する考へは解ると思ふ。

現代のジャーナリズムに對して何う思ふか

自由主義、資本主義の太鼓持の役目以外には、あまり氣に止めぬ。

然し、新聞雑誌が、自由主義なのでなく、社會全體がさうなのではないか、それでなくては、
新聞や雑誌が、ああまで一様に自由主義的陣營にのみ集るまい
まして所謂右翼を標榜する雑誌で營業的に成り立ったのを聞いた事がない
これは民衆が要求してゐないのではないか

さうだ、何と云っても、支配階級と、これに隷属的關係にある階級の生活感情は
明らかに自由主義の温床なものであるからだ。
だがこの社會底部にうつ然として盛り上がってゐる明日の日本の潮流に氣がつかないからだ。
いやわかってゐても自分等の慣れた生活環境なり階級の現在を維持しようとして、耳目をふさいでゐるのだ。
だからジャーナリズムのみを非難しても仕方ない。
だが現在の新聞などの態度はまさに軽蔑すべきものだらう。
自由主義でありながら、云ふ可き口をことさらに塞ぎ、甚だしきは軍部に媚態を示してゐる態度は、賈笑婦に等しい。

軍人も士官學校の數年間を除いては同じ社会環境に育つものである以上、
 一般の社會にある、自由主義的影響、欧化思想のない筈はあるまい

それはたしかにある。
第一 日本の軍制からして、欧米諸國の制度をまねて居るのだ。
又所謂優秀な將校は、皆外國に行って居る位で、ここに陸軍内部の教育制度、軍制の改革が必要されるのだ。
これは矢張り日本が富國強兵の爲に、欧米の資本主義を輸入した結果、
矛盾を來した如く陸軍に於ても、其の轍を踏んで居ると思ふ。
此の中で今日最も害を來して居る事は、將校の教育である。
今日の將校の教育といふものは、一世紀前のプロシヤの貴族將校團の思想が入って居ると思ふ。

上官に對する靑年將校の考へといふものは?

我々は陛下の軍人だから、上官個人の部下ではない譯だ。
要するに上官の命令といふものは、陛下の命令と確信するからこそ、水火も辭せずに行くのだ。
從って日本の國に於てこそ、上官といふものは、國體論を眞に把握せずして、
所謂職業軍人であった場合下の者は之に服從しないのは當然だ。
日本に於ては上に立つ者程國體観念に透徹し、人格職權共に立派でなければならぬ。
制度上に於ける上官であるから服從しなければならぬと云腑言はない。
陛下の命令が上官を通じて命令されるから服從するのであって上官個人に服從するのではない。
即ち軍規に服從するのでなく天皇陛下に服從し奉るのである。

では信念の相違の場合は、服從し得ない場合も生じて來るか

相澤中佐事件の場合の例になると思ふ。

併し其の、陛下の命令が上官を通じて現れるといふ事は、實際問題としての認識は非常に困難と思ふ

それは難しい。
日本軍隊に居って上は元帥、大將から下は二等兵に至る迄、 皆陛下の軍人としての信念が統一せられねばならぬ。
之が所謂國軍の所謂統制といふ事でなければならぬ。
それを制度により規則によって統一しやうといふ頭が統制派の思想だ。
勿論人間は神様でないから、實際問題として理想が今日直ぐ行はれるとは云へない。
少なく共我々が其の理想的境地に迄前進しやうと思ふ。
だから或時期に於ては上官が、下の者に自己の信念によって鞏要する事がある、
其の時に我々の信念として、間違って居る時には腹を切って陛下に詫びるといふ事を認識しなければならない。
自分が命令する時に下の者は陛下の命令と確信して動くのであるから、自分の一言一句確く信念を作ってやらなければならぬ。
戰場に行って此の部下は行けば必ず死ぬと思ふが、涙を呑んで行けと命令する其の信念の境地に達しなければならぬ。
頼むのではない、命令するのである。
其の行けといふ言葉の裏には、非常なる信念がなければならない。

暴力の倫理性といふことについて考へることがあるか

直接行動の一切を暴力といふ意味で先づ戰爭は國家としての暴力の行使だ。
如何なる力の發揮にも根本に理想が無いものはない。
要はその思想の如何だ。
勿論力の發揮は最終的なものであるが、
言論その他の方法が無力となったとき特に正しいものの発現には、力の必要に迫られることがある。
國際間に於て戰爭が起ると同様に、個人に於ても最後には正しい信念を有する者が、
正しい信念を遂行する丈の力を持たなければならなぬ。

陸軍大學の天保銭は時代錯誤だ。子供の玩具のやうな・・・・

本當にさうだ。將校といふものには盛装も天保銭も要らないと思ふ。
理想としては軍人の服制は戰爭に行く制服が即ち正義の様に簡單にしたい。

神兵隊については、特に何を考へるか

あれはファッショだ。日本の國體観念を錯覺した欧化思想である。
その改造の方法に國家に攪亂を起して戒嚴令を敷かさうとした如き思想は以ての外だと思ふ。
即ち、攪亂を起してやると云ふことは根本的の間違ひなのだ。
即ちファッショの下に國民暴動を煽動して戒嚴令を奏請すると云ふことは陛下をだまし奉る遣り方だ。
大權鞏要に属する。
むしろ自分がやるだけの事をやって、陛下の前にひれふすと言ふ態度でなければならないと思ふ。
況やその資金を作る爲に株式の投機業者と結託してその計畫を投機の對象たらしめやうとしたり、
 或は關係者はさうした金で花柳の巷で、遊興してゐたなどに到っては、むしろ苦笑を禁じ得ない。
以上
(日本評論社刊「日本評論」昭和十一年三月号に掲載されたものに、整理訂正を加えたものである)

現代のエスプリ 二・二六事件 編集・解説 利根川裕 至文堂刊 から