あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 頼むべからざるものを頼みとして 」

2018年01月29日 20時22分23秒 | 靑年將校運動

二 ・二六事件は突発的に起った事件のように思われる方があるかも知れないが、
この事件に致るまでに、陸海軍部内では次々と白色テロやクーデター計画が持ち上がった。
主なものをあげてみると、
昭和五年十一月の浜口首相の遭難
 ( 犯人はロンドンの海軍軍縮条約の結果に怒った右翼青年 )
三月事件
 ( 昭和六年三月、軍トップと大川周明ら一部民間人が
  時の陸相宇垣一成を擁して軍政府をこしらえようと企んだクーデター ・ 未遂 )
十月事件
 ( 同年十月、桜会系の陸軍中央部の幕僚将校が満州事変と呼応して錦旗革命をもくろんだ事件 ・未遂 )
血盟団事件
 ( 昭和七年、二月~三月、政財界の粛正を呼号した井上日召を首謀者とする農村青年が、
  三井合名理事長、井上準之助前蔵相に向けられた白色テロ )
五 ・一五事件
 ( 同年五月、海軍士官と陸軍士官候補生の一隊が総理大臣官邸を襲って犬養首相を暗殺 )
永田事件
 ( 昭和十年八月、相澤歩兵中佐による永田陸軍省軍務局長に対する殺害事件 )
このような血なまぐさい事件の数々が、きびしい言論統制 ( 新聞紙法および出版法 ) の網の目をくぐりながら、
昭和十一年、一部青年将校による二 ・二六事件の蹶起へと連なったのである。

蹶起趣意書
では青年将校たちは、何をねらって蹶起したのだろうか。
首謀者の栗原中尉の維新思想というのは、
「 一君万民、君民一体の日本を作る 」
にあった。
・・・リンク→青年将校の国体論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」 
 栗原安秀中尉
それは蹶起直前、彼が雑誌 ( 日本評論三月号 ) に一問一答の形式で発表した、
 
靑年将校運動とは何か 』 と題する一文によく表れている。
その中で彼は、
「 靑年将校はその運動において何を望んでいるか 」 と言う 「 問い 」 に対して、
こう答えている。
「 簡単にいえば、一君萬民、君民一體という境地である。
 大君と共に喜び、大君と共に悲しみ、日本國民が本當に天皇の下に一體となり、
建国國以來の理想顯現に嚮かって前進することである 」
彼の言う 一君万民の境地とは、
日本国民は天皇の下に 一切平等無差別
万民その処を得て共にその生活を楽しみ得る世界を意味する。
従って彼は、究極においては 「 軍部独裁政治 」 を否定する。
そして、さらに
「 奴隷的徴兵制と革命 」 について、次のように言っている。
「 靑年將校として切實に感ずることは何かというと、 安心して國防の第一線に活躍することだ。
 われわれは今日、兵を教育しているが、今のままでは安心して戰爭に行けない。
今日の兵の家庭は疲弊し、働き手を失った家が苦しむ狀態では、どうして戰爭に行けるか。
自分たちが陛下から、一般國民から 信頼されている以上は、
この國防を安全に國防の重責を盡すような境地にしたい。
そのために日本の國内の狀勢は、明瞭に改造を要するのである。
國民の大部分が經濟的に疲弊し、經濟上の權力は、まさに一部の支配階級が獨占している。
時として彼らは、政治機構と結託して一切の獨占を弄ろうしている。
しかも、それらの支配階級が、非常に腐敗している狀態だから承知ならないのだ。」
あとで考えると、これは明らかに 二 ・二六決行の宣言であったのだ。
このようにして彼らは蹶起した。

しかし、いわゆる 討奸 のあと、彼らは具体的な維新のプログラムを示そうとはしなかった。
それを押しつけることは、ファッショ的行動である、と考えたからであろう。
だが彼らが願ったのは、軍首脳部が、彼らの 精神 を生かして、
昭和維新 に向け 突き進んでくれることだったと見ていい。
すなわち、蹶起将校の手には一千語百名の武装集団がある。
これを背景として強く迫れば、
彼らを動かすことはさほどむずかしいことではないと考えたに相違ない。
だから冷酷な革命に徹しようとは考えてもいなかった。
食糧一日分の用意すらなかったのだ。
・・・リンク→ 上部工作 「 蹶起すれば軍を引摺り得る 」
すべてが中途半端のうちに、頽勢たいせいを建て直した省部幕僚派によって弾圧されてしまった。
北一輝が、
「 あれは革命軍ではなくて、正義軍とでも呼ぶものでしょう 」
と 評したのは、的を射ていたように思う。
しかも、尊王絶對 を唱える彼らが、
かえって 絶對主義的天皇制 の名において葬り去られたのである。
悲劇というにしても、あまりにむなしい犠牲であった。
たとえ第一師団の満洲移駐というタイムリミットがあったとしても、
当時の客観情勢は 彼らにとって極めて不利だったのだ。
そして、頼むべからざるものを頼みとして、昭和維新 をめざして暴発してしまった。
蹶起の牽引車だった磯部が、彼の獄中の手記の中で、
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・・・挿入・・・
判決(七月五日)
死刑十七名、無期五名、山本十年 今泉四年
斷然タル暴擧判決だ
余は蹶起同志及全國同志に對してスマヌと云ふ氣が強く差し込んで來て食事がとれなくなつた、
特に安ドに對しては誠にすまぬ
余の一言によつて安は決心しあれだけの大部隊を出したのだ
安は余に云へり
「 磯部 貴様の一言によつて聯隊を全部出したのだ 下士官、兵を可愛そうだと思ってくれ 」 と
余はこの言が耳朶にのこりてはなれない、
西田氏北先生にもすまぬ
他の同志すべてにすまぬ
余が余の観察のみを以てハヤリすぎた爲めに
多くの同志をムザムザと殺さねはならなくなつたのは重々余の罪だと考へると
夜昼苦痛で居たゝまらなかつた
余は只管に祈りを捧げた
然し何の効顯もなく十二日朝 同志は虐殺、されたのだ
 磯部浅一
・・・獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
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「 余が余の観察のみをもってハヤリすぎたために、

 多くの同志をムザムザと殺さねばならなくなったのは、重々、余の罪だと考へる 」
と 告白しているのは、なぜ事件が勃発したのか を雄弁に物語っている。
栗原、磯部ら急進分子は、若さゆえに ハヤリすぎた
そして、省部の統制派軍人官僚の力を過小評価したところに、
失敗の原因があったといえる。
「 昭和暗黒時代 」 の生んだ悪夢と評するほかない。
・・・リンク→ 
万斛の想い 「 先ずは、幕僚を斃すべきだった 」 

実録コミックス  ( 1991年3月10日初版)
叛乱!
二 ・二六事件 ❸  霧の章
あとがき
今、想う 二 ・二六事件への総括
元東京日日新聞記者  石橋恒喜
・・・全文引用・・・